第十七話 海へ
歩いていた。一人で。ただ前へ。森の中を。
木々の隙間から差し込む光が揺れている。鳥の声が聞こえる。風が葉を鳴らしている。久しぶりだった。こんなにたくさんの緑を見るのは。
けれど美咲は景色を見ていなかった。歩く。歩く。ただ歩く。頭の中では同じ言葉が何度も繰り返されていた。
『行け』
英也の声だった。
『最後まで歩け』
振り返りたくなる。今からでも戻りたくなる。でも戻ればきっと怒られる。あんな声で怒鳴られたのは初めてだった。だから美咲は歩いた。泣きながら。唇を噛みながら。歩き続けた。
どれくらい経っただろう。やがて森の向こうが明るくなり始める。木々が途切れていく。風が変わった。少し湿った空気。初めて嗅ぐ匂い。どこかしょっぱい。
胸が高鳴った。
美咲は駆け出した。枝をかき分け、坂を登り、そして森を抜けた。
目の前に広がった景色に、美咲は立ち尽くした。
海だった。どこまでも続く青。陽光を反射して輝く水面。白い波。遠くの水平線。世界はまだ終わっていなかった。そんな気がした。
美咲はゆっくり前へ進む。森の出口は小高い崖のようになっていた。その先に海岸が見える。そして、人がいた。たくさんの人だった。老人。子供。大人。荷物を抱えた人々。避難民だ。英也の言っていた場所だった。
美咲は息を呑んだ。視線を走らせる。人影を一人ずつ追う。違う。違う。違う。胸が苦しくなる。もしかしたら、もう——そんな考えが頭をよぎった。
その時だった。
列の最後尾近くを歩く女性がいた。痩せていた。服も汚れている。髪も伸びていた。けれど、見間違えるはずがなかった。
美咲の呼吸が止まる。
女性がふと振り返った。目が合う。時間が止まった。女性の目が見開かれる。信じられないものを見るような顔。驚き。戸惑い。そして溢れ出す喜び。その全てが一瞬で表情に現れた。
美咲の唇が震える。声にならない。それでも、ようやく言えた。
「……ママ」
女性の目から涙が溢れた。
「美咲……?」
掠れた声だった。次の瞬間、二人は同時に走り出していた。砂浜を、転びそうになりながら、必死に、ただ相手だけを見て。
そして抱きしめ合う。強く。失わないように。離さないように。
「美咲!」
「ママ!」
泣き声が重なる。母親は何度も美咲の頭を撫でた。頬を撫でた。肩を抱いた。まるで本当に生きているか確かめるように。
美咲も泣いていた。もう我慢できなかった。旅の途中で流せなかった涙が溢れる。怖かった。寂しかった。会いたかった。たくさんの想いが涙になって零れ落ちる。
母親は何も聞かなかった。今はまだ、言葉なんていらなかった。ただ抱きしめていた。奇跡のような再会を。失ったはずの家族を。もう二度と離さないように。
海から吹く風が二人を包む。遠くで波の音が響いていた。それはまるで、長い旅の終わりを告げる音のようだった。




