第十六話 パパ
最初に聞こえたのは、今の自分の呼び名だった。
「パパ!」
震える声。泣きそうな声。それでも必死に堪えている声。
英也は重い瞼をゆっくり開いた。青空が見える。眩しいほど青かった。呼吸をするたび胸が痛む。全身が重い。まるで身体の中に砂でも詰め込まれたみたいだった。
「パパ!」
駆け寄ってくる足音。美咲だった。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら英也の傍へ膝をつく。
「大丈夫!?」
大丈夫なわけがない。だが英也は小さく笑った。
「出てくるなって……言ったろ」
「だって!だってパパが……!」
言葉にならない。英也は目を閉じた。追い剥ぎたちはもういない。美咲も無事だ。それだけでよかった。
だが身体の状態だけは自分が一番分かっていた。まずい。かなりまずい。立てる気がしない。それでも。
「……行くぞ」
英也は腕を地面についた。
「え?」
「海まで……もう少しだ」
途中で息が切れる。
「行くぞ」
「うん!」
美咲の顔に少しだけ希望が戻った。急いで英也の肩へ腕を回す。
「立って」
英也は歯を食いしばる。全身が悲鳴を上げていた。それでも立ち上がる。美咲が必死に支える。小さな肩だった。頼りないほど小さい。それでも懸命だった。
「大丈夫?」
「……ああ」
嘘だった。それでも歩かなければならない。美咲を海まで連れていく。そのためだけに生きてきたようなものだ。
英也は右足を前へ出した。一歩。そして左足を動かそうとした瞬間、力が抜けた。膝が崩れる。
「あっ……!」
美咲が声を上げる。支えきれない。英也の身体が前へ倒れ、膝をつき、そのまま地面へ。どさり、と乾いた土煙が舞った。
「パパ!」
英也は起き上がろうとする。腕に力を入れる。だが身体が動かない。胸が焼けるように痛い。呼吸も苦しい。何度やっても、何度やっても、起き上がれない。
「もう一回!もう一回やろ!」
「パパ!」
英也はゆっくり目を閉じた。
終わりだった。ここまでだ。認めたくはない。だが認めるしかない。海は近い。あと少しだ。だから、だからこそ、自分はここで終わらなければならない。
「美咲」
静かに呼ぶ。美咲が顔を上げる。
「なに……?」
「行け」
一瞬、美咲の表情が止まった。
「……嫌だ」
「行け」
「嫌だ」
「嫌だ!絶対嫌だ!」
涙がこぼれる。英也は目を閉じる。そう言うと思った。だから辛い。だから言わなければならない。
「行け」
「嫌だ!」
「行け!」
声が強くなる。旅の中で初めてだった。
「行け!!」
美咲が震える。肩がびくりと跳ねた。泣いている。だが英也は目を逸らさない。生きてほしい。それだけだった。
「母ちゃんがいるんだろ」
掠れた声で言う。
「会いに行け」
「……」
「ここまで来たんだろ」
「……」
「最後まで歩け」
美咲は何も言わない。ただ泣いていた。
長い沈黙。風だけが吹いている。
やがて美咲はゆっくり立ち上がった。納得したわけじゃない。受け入れたわけでもない。ただ、英也が何を言いたいのかだけは分かったはずだ。
唇を噛む。血が滲むほど強く。
そして一歩下がる。また一歩。英也から離れる。何も言わない。言えば戻ってしまう。だから何も言わない。
ただ一度だけ振り返る。英也を見る。
そして歩き出した。
一歩。また一歩。小さな背中が遠ざかっていく。英也はそれを見送った。ずっと。姿が見えなくなるまで。やがて美咲の姿は地平線の向こうへ消えた。
英也はゆっくり仰向けになる。空が広がっていた。青い空だった。戦争なんて最初からなかったみたいに、どこまでも穏やかだった。
遠くからかすに足音が聞こえる。美咲だ。まだ歩いている。ちゃんと前へ進んでいる。
英也は目を閉じた。そして小さく呟く。
「行け」
風が吹く。
「進め」
遠ざかる足音。小さい。それでも確かに聞こえる。
「お前の足音を聞いてる誰かが……」
呼吸が浅くなる。視界の端が暗くなる。それでも最後まで言う。
「きっといるから」
風が通り過ぎる。足音はまだ続いている。未来へ向かって。
英也はその音を聞いていた。静かに。ただ静かに。まるで祈るように。




