最終話 確かな足音
泣き疲れた頃だった。
美咲はようやく母親の腕の中から顔を上げた。母親も涙で顔を濡らしている。けれどその目には、確かな安堵があった。生きていた。それだけで十分だった。
住んでいた街を戦争が襲って、なにもかもが壊された時から、ずっと諦めかけていた。街中、どこを探しても見つからなかった。もう会えないかもしれない。どこかで死んでしまったのかもしれない。そんな恐怖と何度も向き合ってきた。だからこそ、今美咲がここにいる奇跡が信じられなかった。
「どこにいたの……」
母親が震える声で尋ねる。美咲は少しだけ迷ってから、話し始めた。
空襲の日のこと。泣いていた自分の前に現れた男のこと。荒野を歩いたこと。ビスケットを分け合ったこと。雨を凌いだ夜。焚き火。缶詰。絵本。たくさんの出来事。そのどれにも、英也がいた。
母親は黙って聞いていた。一度も口を挟まずに。ただ静かに、娘をここまで守り抜いてくれた見知らぬ男の話を。
やがて美咲の言葉が途切れた。胸の奥が苦しくなる。思い出してしまった。最後の光景を。地面に倒れた背中。震える声。何度も繰り返した言葉。
『行け』
「ママ」
母親が顔を上げる。
「その人が……パパが……まだいるの」
声が震えた。母親は何も言わなかった。ただ静かに立ち上がり、美咲へ手を差し出す。
「行こう」
美咲は強く頷いた。その手を握る。二人は来た道を戻り始めた。たった一人で、血の繋がりもない少女を守り抜いた男のもとへ。もう一度会うために。今度は二人で、歩き出した。
◇
英也は横たわっていた。
仰向けのまま、身体はほとんど動かない。瞼も重かった。どれくらい時間が経ったのか分からない。空はまだ明るい。それだけは分かる。
風が吹いている。遠くで鳥の鳴き声も聞こえる。不思議だった。こんなに静かな終わりがあるのかと思った。戦場では違った。誰かの悲鳴があった。爆発があった。銃声があった。死はいつも騒がしかった。
けれど今は静かだ。穏やかだった。
英也は薄く笑う。悪くない。そう思った。
美咲は辿り着いただろうか。母親に会えただろうか。泣いただろうか。笑っただろうか。
きっと、会えた。そんな気がした。根拠なんてない。それでも、あの子なら大丈夫だと思えた。旅の途中で何度も転びそうになりながら、それでも歩き続けた。だからきっと辿り着ける。あの足音なら、どこまでも進んでいける。
意識が少しずつ遠のいていく。英也は目を閉じたまま空を思い浮かべる。妻の顔。娘の顔。失った家。戻らない日々。たくさんの後悔。たくさんの罪。救えなかった人たち。守れなかった家族。
それでも、最後に一人だけ守れた。それだけで十分だった。
遠くで音がした。足音だった。かすかに、けれど確かに、土を踏む音。
追い剥ぎだろうか。獣かもしれない。あるいは、自分を迎えに来た何かかもしれない。もうどうでもよかった。怖くはない。
足音は近付いてくる。一歩、また一歩。そして、すぐ傍で止まった。
誰かがしゃがむ気配がする。英也は目を開けない。もう開ける力もなかった。ただ静かに待つ。
その時だった。頬に何かが触れた。柔らかかった。温かかった。驚くほど優しく、壊れ物に触れるみたいに、そっと頬を撫でる手。
英也の眉がわずかに動く。
誰なのかは分からない。目を開けて確かめることもできない。それでも不思議だった。その温もりは、どこか懐かしかった。ずっと昔、戦争が始まる前、失う前の世界で触れたことがあるような。そんな温もりだった。
風が吹く。遠くで波の音が聞こえる。誰かが泣いている気がした。誰かが笑っている気もした。
けれど、もう確かめなくていい。
美咲は歩いた。転びながらも、泣きながらも、前へ進んだ。その足音を聞いている誰かがいた。だからきっと、これからも、あの子は歩いていける。
英也は静かに息を吐く。
そして、温かな手の感触だけを残して、意識はゆっくりと光の中へ溶けていった。
これで、「足音 〜Be strong」のMVに私なりの解釈を加えて紡いだ、この物語はおしまいです。
アーティストのMr.Childrenの皆様、MV監督を務められた関根光才さんをはじめ、この楽曲とMVの制作に携わられたすべての方々に、心より敬意を表します。
この作品を最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。




