<16・Blood>
舞い散る鮮血を、どこか遠い気持ちで見ていた。
「あ、あ……」
目の前で仰向けに倒れていく人の姿が見える。
「アンディ!!」
ローラが襲われる寸前、大切な婚約者がクマとローラの間に体を滑り込ませたのだと気づいた。その時にはもう、彼は血塗れになって倒れていたけれど。
「や、やだ、やだぁ!」
子供みたいな声しか出なかった。多分、ナイフでガードしようとはしたのだろう。ところがクマの本気のひっかき攻撃を、彼の腕力で防ぎきれるはずがない。かち上げられたであろう腕と胸元が真っ赤に染まっていた。
「や、やだ、やだやだ!アンディ、アンディ!」
「も、申し訳ありません、ローラ……」
彼は掠れた声で、それでもはっきり言った。
「お願い、します。逃げてください」
「でも!」
「見た目、ほど、ひどい傷、では……はやく……!」
ブロークンベアは爪についた血をぺろぺろと舐めている。逃げる隙があるとしたら今しかない、それくらいのことはローラにもわかった。
だが、自分が逃げたら間違いなくそのまま手負いのアンディが攻撃対象になるだけだ。無論、ここに至って、自分は足手まといでしかないことも理解しているけれど。
でも、大事な人を置き去りにして、自分だけ逃げるなんて――。
――なんで。
ギリ、と拳を握りしめる。
――どうして、私には、何の力もないの?
守られヒロイン、なんて言葉がある。ピンチの時ヒーローが必ず助けてに来てくれて、守られるばかりのお姫様のことを指す言葉だ。自分は少なくともそう理解している。正直、そういうキャラはあまり好きではなかった。守られるのが当たり前だと思っていて、自分では何もしないように見えたから。それでヒーローが傷だらけになるのがわかっているのに、いつも油断して敵に攫われたり、力もないのに前線に来たりしてなんでいつも足手まといになるんだろうとイライラしたから。
でも、今は。
今の自分に、そんなヒロインたちを見下す権利などまったくないと気づいてしまった。さっさと逃げていれば、きっとアンディはここまでの怪我をせずにすんだ。足がすくんで、勝手に転んで標的になって、守られて足手まといになって。今だって、逃げろと言われているのに動けない。そんな自分が、本当に嫌で嫌で仕方ない。
――守られてるお姫様は、さぞかしいいご身分だなって嘲ってた。よく、自分のせいで大事な人が傷ついたり死んだりするのに何の努力もせずにいられるなって。でも、違ったんだ。
本当に弱い人間は、わかっていても逃げられない。逃げる勇気も持てない。変なところで意地を張ったり、足が震えてまともに動くことさえままならないのだ。
そして愛する人が自分のせいで犠牲になったところで、今までの己にどれほど努力が足りていなかったか気づかされるのである。それではもう、あまりにも遅すぎるというのに。
――神様、お願い。
今まで、こんな風に誰かに祈ったことなんかなかった。神様なんて信じてもいなかった。
祈れば叶えてくれる、都合の良い神様なんて人の幻想であり妄想ですぎないと思っていたから――でも。
――私は、どうなってもいいから。お願いアンディを……アンディを助けて。この人を死なせないで……!
この人が死ぬくらいなら、何だってする。
悪役令嬢として追放されようが断罪されようが、どのような不名誉を被ろうが構わない――だから。
――お願い、どうか……!
「〝Damnation〟」
朗々と唱える声が響き渡った。次の瞬間、ブロークンベアの体にいくつもの光の矢が突き刺さる。
「グオオオオオ!?」
肩が足、腹から血を噴出させて、クマが悶えるのが見えた。え、と唖然として、ローラは声が聞こえた方を振り返る。
「……マリー?」
ローラも、アンディも、逃げ遅れていた人達も――みんなが一人の少女を見ていた。まっすぐ狂暴なクマを指さし、怒りの形相を向けている華奢な少女の姿を。
「いい度胸だね」
彼女が悶えるクマに向かって言い放つ。
「あたしの大事な人達に何してくれてやがんだ、この野郎」
「ま、マリー……?」
「……ローラさん、アンディさん、そこから動かないでください」
ふわふわのピンク髪とスカートが、風もないのに揺れている。彼女は指さしていた右手首をそっと返した。
「すぐ終わるので」
「ゴッ」
大きなクマの体が、血をぼたぼた垂らしながらふわりと浮き上がった。その両足がじたばたもがくのを、誰もが呆然として見上げる。
人間技ではない。それはまさに、禁じられた魔法そのもの。
マリーは冷たい声で、その力を放った。
「〝Psychokinesis〟」
次の瞬間、数十メートル浮き上がっていたクマの巨体が、一気に芝生広場に叩きつけられていたのである。子供がボール遊びをしてもいいようなやや柔らかい地面なのは間違いない。だがあの速度、あの高さから叩きつけられてはどうにもならないだろう。
「ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
絶叫とともに、ブロークンベアの全身が潰れたのがわかった。骨が砕け、肉が潰れる生々しい音が響き渡る。恐らく脊椎も折れたのだろう、クマの首はおかしな方向にねじ曲がっていた。
致命傷だ。それも、かなり苦しい死に方だったことだろう。
びくびくと全身を痙攣させて事切れたクマを見て、次の瞬間上がったのは歓声だった。
「す、すごい!」
「え、なに?あの子、なに?何をしたの!?」
「あの狂暴なブロークンベアがあんなにも簡単に死ぬなんて……!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおお!やったああああああああああああああああ!」
「ママ、あのお姉ちゃん、すごい!クマさん倒しちゃったよ!?」
「うわああああああああああ!」
やがて、誰かが口にする。
「あの子だよ、新聞で見た!あれ、異世界から来た聖女様じゃないか、マリー様っていう!」
「ほ、ほんとだ!」
次の瞬間、我に返った人々が走り寄ってきた。マリーは圧倒間に、歓喜に包まれる人々に取り囲まれてしまう。
「あ、ありがとうございます!聖女様、ありがとうございます!」
「本当にありがとう!」
「わ、わわわわみなさん待って!?あ、あたし別にそういうんじゃ……!」
慌てて否定するマリーに、さっきの凄まじい殺気や気迫は微塵もなかった。かっこよかったけれど、でも少し怖いと思ってしまったのも事実だ。ほっとすると同時に「後でお礼言わなきゃ」と思うローラである。
すると何人かの男女が、ローラとアンディのところへ走り寄ってきてくれた。
「あんたも、本当にありがとう……戦ってくれて」
老人が、血塗れのアンディの手を握って言う。
「警察と病院には連絡したから、直に助けが来る。応急手当だけはさせてくれ、それくらいの心得はあるから」
「……ありがとうございます。いえ、わたくしは、大したことはできませんでしたから」
「そんなことあるものか!あんたが頑張ってくれたからあの聖女様が間に合ったんだろう?」
そう言えるこの老人は、きっととても立派な人物なのだろう。アンディの手を握って、何度もありがとう、ありがとうとお礼を言った。
「立ち向かえるというだけで、英雄なんだ。わたしは何もできなかったから……」
「おじいさん……」
その言葉は、ローラの胸を突き刺していた。彼はあくまでアンディを褒めただけで、ローラを責める意図など微塵もなかったことだろう。
でも、それでもローラは思ってしまったのである。
立ち向かえるだけ、英雄。それを勇気と人は呼ぶ。では、自分は?
――何も、できなかった。
『わたくしは、幸せですよ。貴女と一緒にいられて、とても』
『それが、貴女の悩みなら。わたくしが……貴女が貴女をもっともっと好きになれるまで……なれるくらい、貴女のことを好きになります。もっともっと、今より好きになります』
ついさっき、アンディが言ってくれた言葉が蘇る。
彼のために、自分にもできることがあるのだろうか。悪役令嬢になる以外の道はあるのかと、少しだけそう考えたのだ。でも、今は。
――私は、アンディに守られてばっかりで、全然守れない。何も、できない。
こんな自分では、アンディを幸せにできない。
――やっぱり、ダメだよ。私じゃ……アンディに、相応しくない。
そもそもこの公園に来ようと言ったのは、他でもない自分だ。今日この場所に来なければ、こんなトラブルに巻き込まれる心配なんて必要なかったのである。
何もかもが、あまりにも裏目に出過ぎている。
特別な力もない、シナリオ通りにも動けない、そもそもが偽物のローラ。自分は、何のためにこの世界に来て、何のためにここにいるのだろう?アンディとマリーの幸せを邪魔したい気持ちなんてこれっぽっちもなかったというのに。
――どうすればいいの?私は……私はどうすれば、二人を幸せにできるの?
その後。
アンディは駆けつけた医師たちによって近くの病院に運ばれ、手当てを受けた。重傷だったのはジュリエットとかいうカップルの片割れの女性とアンディのみ。男性の方は軽傷。他にも逃げる時に転んで怪我をしたりパニックになったりした人はいたが、彼らほど大きな怪我をした者は他にいなかったのである。
アンディは腕と胸にひっかき傷を負っていた。ただ幸いにしてナイフでガードしたのと突破された形だったので、見た目ほど酷い怪我ではなかったらしい。くしくも、本人が言った言葉は本当だったのだ。
意識もあるし、翌日には病室で面会することも許された。アンディは包帯だらけで横たわりながらも、ローラとマリーに笑ってみせたのである。
『大した怪我じゃないです。すぐに治して、復帰してみせます。どうかお気になさらないでください。お出かけはとっても楽しかったのですから』
間違いなく、このお出かけを企画したローラを気遣ってのことだったのだろう。
――アンディに気を使われていたら、意味なんかないのに。
ローラは考える。
自分が今、本当にするべきことが何であるのかを。




