<15・Assault>
「アンディ?」
ローラが尋ねるも、アンディは答えない。彼は、逃げていく馬と、それを慌てて追いかけて走っていく店主の方を見ていなかった。馬が、最後に見た方向――逃げていくのと反対の方向を凝視していたのである。
「……この自然公園は」
やがて、彼は口を開く。
「野生動物が多く生息しています。中には、人間に危害を及ぼすものもいるんです。この自然公園は、野生動物の保護区を兼ねていますから」
「そ、それはパンフレットで見たけど……でも、そういう生き物は大きな柵に仕切られた森の中とかにいるって」
「ええ、そういうものは設置されているはずです。でも、動物園の動物のように、きちんと檻に入っているわけでもなければ、飼育員が餌をやっているわけでもない。……この、声は」
どうやら彼の鋭敏な聴覚は、何かを捉えたらしい。何を、と思った時鋭い悲鳴が聞こえたのだった。
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
「助けてくれええええええええええええっ!」
それは、若い男女の声。見れば、西側の森エリアの方から走ってくる若い男女の姿が。服装からして、中流階級の中でもそこそこ裕福な身分だろう。だが、二人のドレスやシャツは、あちこち破れて泥まみれになっている。まるで何かに襲われでもしたかのように。
この芝生広場の西側は森になっていて、ハイキングできる小高い丘へと続いている。そのさらに向こうには、確かに自然動物の保護区があったのは確かだ。それも、クマのようなやや狂暴な動物もいるとかで、背の高い柵や壁に囲われていると聞いている。今日は目にしていないが、そこで何かがあったのだろうか。
背中を冷たい汗が伝う。脳が警鐘を鳴らした、次の瞬間。
「グオオオオオオオオ!」
咆哮と共に、カップルを追いかけて黒い獣が飛び出してきたのだった。四つ足で走るその黒い獣は、血のように真っ赤な目をしている。
それは一見すると、ローラが令和日本でテレビで見たことがある“ヒグマ”とよく似ていた。だが、サイズがおかしい。四つ足になってなお、3メートルは高さがあるようだ。立ち上がったら、それこそその倍以上の大きさになるだろう。がっしりとした体は、ごわごわした黒い毛に覆われている。その獣が、明らかに怒り狂って牙を向きだしにし、二人の男女に襲いかかろうとしてるのだ。
「わあああああああああああああああああああ!」
「なに、なになになになに!?」
「あれ、ブロークンベアじゃないの!?」
「やばいって、だ、誰か、警察に連絡っ……」
「助けてえええええ!」
あっという間に、広場にいた人達はパニックになった。幸い、そこまで大人数がいたわけではないが、それでも逃げようとして転ぶ者、他人を突き飛ばす者と酷い有様になっている。
ブロークンベア、と誰かが言ったのが聞こえた。
確かに、この自然公園に生息する在来種のクマの一種である。この国で二番目に大きなクマで、普段は木の実や魚や小動物を食べて暮らしている雑食だ――みたいなことが、パンプレットに書いてあったような。
「バカでもやりましたかね、あの人達」
ちっ、とわかりやすくアンディが舌打ちをした。
「ローラさん、マリーさんがいるトイレまで走ってください。でもって、逃げるように伝えてください」
「アンディは!?」
「警察が来るまで、皆さんをお守りせねばなりません」
彼は立ち上がると、困ったように笑った。
「わたくしはこれでも、王宮騎士団の一員です。有事の際、体を張って民を守るのがわたくし達の仕事なのです」
彼はそう言うと、腰に差していた護身用のナイフを抜いて走り出した。
「ま、待ってアンディ!」
無茶だ。ローラは絶望的な気持ちで思った。アンディはとても優れた騎士だと聞いてはいるが、彼が最も得意とするのは拳銃による速射。だが、今はプライベートの時間だ。銃なんて携帯を許されるはずもない。ナイフ一本だけは緊急時に備えて特別に持ち歩いてもいいということにもなっているが、それだって特例だということを知っている。
つまり彼は得意の射撃もできず、ナイフ一本であの巨大なクマに立ち向かわなければいけないのである。あのクマの大きさに対して、あまりにも彼の体は小さく、華奢だ。そもそも腕力に難があるからスピードを鍛えるしかない、みたいなことをぼやいていたのも覚えているのである。大人になって健康になったとはいえ、元の体格が細身なのだから仕方ないが。
――いくらアンディでも、勝てるわけない、たった一人で……!
なんとかしなきゃ。そう思うのに、アンディの背は離れていくばかり。何より。
――せ、せめて助けを呼ばなきゃ。わかってる、わかってるのに……なんで体が動かないの!?
芝生広場のど真ん中で、ついにカップルのうち女性の方が追い付かれてしまった。太く逞しいブロークンベアの右前足が、女性の背中を思い切り殴りつける。
「ぎゃああああああ!痛い、痛い、痛いいいいいいいいっ!」
「ジュリエット!」
彼女の絶叫に、男性が悲鳴を上げる。血飛沫が舞った。ここからでは距離もあるのでよく見えないが、恐らく殴ったというよりもひっかいたが正しいのだろう。それを背中にもろに受けたのだ、軽傷であるはずがない。
クマはさらに、彼女の傷ついた背中を踏みつける。こちらを向いた女性の顔がうっ血し、青いを通り越してドス黒くなっていくのがわかってしまった。このままでは背骨を折られて、踏みつぶされてしまうかもしれない。傍に走り寄った男性も、そこで動けなくなって震えている。
「やめろ!」
ここでギリギリ、アンディが駆けつけた。彼は拾った石を思い切りブロークンベアの顔面に投げつけたのである。
「グオオ!?」
クマが痛みに顔を歪める。前足での拘束が緩んだ。その隙に、どうにか金縛りが溶けたカップルの男性の方が、女性を下から引きずり出す。この行動ができるだけ、彼は大したものだろう。
だが、ジュリエット、と呼ばれていた女性はどう見ても重傷だ。早く手当しなければ命が危ないに違いない。そして。
「クマさんこちら、手の鳴る方へ」
挑発するように、アンディが手を叩く。
「あなたの相手はわたくしです」
「オオ、オオオオオオオオ!」
自分を攻撃してきたのが誰なのか理解したのだろう。怒りのまま、ブロークンベアがアンディの方へ走ってくる。再び、右前足による強烈な引っ掻き攻撃。それを、アンディはしゃがんで掻い潜ることで回避していた。
――う、うまい……!
立ち上がったクマは、体長6メートル近くにもなるほど巨大だ。オスはもっと大きかったはずなので、多分あれはメスのクマなのだろう。何にせよ、基本は四足歩行の生き物が二足歩行になって攻撃しようとすると、当然バランスを取るのが難しくなってくる。特に、前足を使って引っ掻き攻撃をする時はどうしても重心が前のめりになるだろう。
ただでさえ、自分より遥かに小さな獲物は見失いやすいものだ。アンディは身を屈めて回避すると同時にうまくクマの死角に入り込んだのである。そしてなんと、そのまま思い切りクマの下半身にタックルしたのだ。
それだけではない。
「ギャンッ!」
僅かに赤い飛沫が跳ねるのが見えた。どうやら下半身にぶつかると同時に、ナイフで後ろ足を切りつけるという荒業をこなしてみせたらしい。クマが横倒しに倒れるのと同時に、再びアンディは距離を取っていた。近くにいすぎるとカウンターを食らう危険性があるためだろう。
――す、すごい。
無謀だ、と思っていた。だが実際、アンディは自らがクマと比べてはるかに小柄であることを利用して、上手に立ち回っている。判断も早い。そして彼がクマと戦っている間に、カップルの男性が女性を抱えて逃げる時間を上手に稼いでいるではないか。
――ゲームでも、アンディの実力が語られたことはあったけど……ここまでだったなんて。
あのゲーム、戦闘系RPGではないのでバトルの描写はほとんどなかったのだ。人伝に、アンディの戦闘能力が語られることがあっただけに過ぎない。
知らなかった。己の婚約者がここまで頼りになる人だったとは。
――こ、これなら勝てるかも。今のうちに……!
安心したことで、少しだけ震えが収まった。ローラは後退りしながら、マリーがいるはずのトイレの方へ走っていこうとする。
そう、走りだそうとしたのだ。それなのに。
「きゃあっ!?」
緊張のせいか、単なるドジのせいか。ローラは思い切り足がもつれて転んでしまったのだった。しかも転んだ先に大きなゴミ箱があったせいで、アルミ製のそれを派手に蹴っ飛ばすことになってしまったのである。
ガラガラどっしゃん、という大きな音が鳴った。普段なら恥ずかしいだけだっただろう。でも、今は。
「ローラ!」
アンディの悲鳴が聞こえる。そう、今は、大きな音そのものが致命的なのだ。
クマの目が明らかにこちらを向いたのがわかった。完全に、音によって気を引いてしまったのである。
「あ、ああ、あ」
――何やってるの、私!
もっと早くこの場を離脱していれば。こんなところで転ばなければ。
自分で自分の首を絞めて、あまりにも馬鹿らしいことではないか。
「や、やだっ」
びりびりくるようなクマの殺気に当てられ、再び体が硬直してしまった。這うようにして逃げようとするものの、それよりもクマが駆けだしてくる方が早い。
こっちに向かってくる。自分も、あの女性と同じ目に遭うというのか。あるいはもっと、もっと酷い目に?
――い、いやだ、いやだ……!
己の体が、クマの手でバラバラに引きちぎられていくのを妄想した。肉を噛み千切られ、生きたままま骨から引きはがされ、腹からはみ出した内臓を食われて地獄の苦しみを味わう様を。
――や、や、やだ、やだ、やだやだやだ!
死にたくない。
そう思えば思うほど、足が震えて動けない。
「嫌ああああああああああああああああ!!」
次の瞬間。
目の前の景色が、真っ赤に染まったのだった。




