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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
37/37

㉝明日へのさざ波 (天保編最終話)

(1)


 9月の末、お華は一人。

 お彼岸には少し遅れたが、深川の寺に眠っている産みの両親。そして、育ての親の墓にお参りに行った。

 特に段蔵、お里の二人には、天保の改革が終わり、無事に過ごせた。と言うのは少々妙だが、何とか苦難を躱すことが出来たと、報告した。

 お華は、墓の前で手を合わせて目を閉じ、しおらしく拝んでいるのだが、先程から妙な気配? いや叱られているような気がしてならない。

 彼女の想像では、段蔵が墓の上から見下ろし、腕を組んで首を捻っており、そして母親、お里も困った顔をしている。

 しかし、お華は、そんな圧力に負けず、屋敷も何とか平穏で大丈夫。

 と心の中で言ったのだが、どうも、二人とも心配顔をしている様に思えてならない。

 お華自身も、何故だか分からないが、おかしくなってしまう。

 最後に、まあ、何とかなっているよ。と言い残し、墓を後にした。

 それからお華は、以前の住居、深川の旧置屋に向かった。


 旧置屋は、借家ではなく、父が買った家なので、当然、浩太郎とお華が責任を持たねばならない。

 しかしながら、浩太郎は、全てお華に任せると言うから、お華が、これからどうするのか考える必要がある。

 そんな事もあって、月に一度は、見に行く。

 家は人が住まないと腐ってしまうと言うし、彼女としても少し、心配なのだろう。

 ご承知の通り、今のお華は岩本町にお屋敷があるので、こちらはサッサと売り払っても構わない。

 しかし、お華はそれには、安易に踏み込めなかった。

 大体、芸者の仕事自体、深川から柳橋に変わるのさえ、中々心が決まらなかったお華だ。

 團蔵の家を売るともなると、さらなる決意が必要だ。

 そんなお華を、浩太郎は笑っているが、内心、嬉しくも思っている様だ。

 だから、その辺のところは、とやかく言わない。


 お華は、部屋を確認し、近所の自身番にも挨拶して、さあどうしようと考えた。

 今日は、お座敷も無ければ、奉行所お手先の仕事も無い。

「まあ、ここまで来たから……」

 と、八丁堀に顔出しとくか? と考え、永代橋に向かった。


さて、この頃、いよいよ天保の改革に関する不正について、審議が行われようとしていた。

 ようやく、元・南町奉行の鳥居耀蔵が、評定所に呼び出されのだ。

 評定所は旗本以上の侍を裁く所。

 いくら鳥居でも、頭を下げて裁きを受けなければならない。

 さて、その評定所では、事件の内容にもよるが、通常、町奉行・寺社奉行・勘定奉行と、老中一名で構成され審議される。

 大きい事件、例えばお家騒動など、大きい事件になれば、これに大目付・目付などが審理に加わる。

 これらを「評定所一座」と称していた。

 今回は老中、阿部正弘が出席している。

 ただし、今回の審理には、大目付・遠山は呼ばれていない。

 後で触れるが、彼はいわゆる、利害関係者なので外されている様だ。

 ということで、詮議が始まった。


 耀蔵は、何を問われても、御改革により、老中様の指図に従い……と、自分に落ち度は無いと言い放っていたが、評定所の奉行らはそれで納得するほど甘くは無い。

 何しろ、物的証拠、上申書、さらには各裁判での供述書が山の様に集まっているからだ。

 まずは、お華が伊賀の忍び、お頭と五平に頼んだ、甲府に飛ばされた男達の上申書である。

 鳥居に頼まれ、遠山景元や、寺社奉行の松平伊賀守忠優、御書院番・土岐丹波守、北町奉行・阿部遠江守など改革反対派と目される全ての人間などに焦点を当て、追い落とすための証拠集めをしたと書かれた上申書は、鳥居本人より、審議に当たった奉行達の方が「ここまでやるのか……」と驚いたというものであった。

 遠山が評定を外された原因はこれである。

 さらには、無罪の者を有罪にしてしまうやり方などは、北町奉行所で、南の与力同心などが既に取り調べられているが、例の本庄茂平次の一件である。

 自分の罪を軽くしようと思ったのか、狙った者の家に入り込み、証拠を見つけて、あろうことか呼び出された者と一緒に縄まで自ら縛って、「旦那もういけねえ。あっしは何もかも喋っちまった」などと言って、罪に陥れるなど、あの近松門左衛門が喜びそうな芝居まで打って、罪に追いやっている事を正直に申し立てた。

 もっとも、暗殺については黙っていた様だ。

 しかし、これについては既にご存じの通り、因果応報といった結果となった。

 そして最後は、浩太郎・お華が勘定方と見つけた、後藤三右衛門からの賄賂受け取りなどの物的証拠である。

 さすがに、金座御金改役・後藤三右衛門の賄いについては、言い訳ができなかった。

 提出された三右衛門本人の手紙に、事細かに賄いの実態が書かれており、その上、実際の受取状まで出ている。言い訳の仕様が無い。

 もっとも、額自体は、水野の十六万両に比べれば、中間歳暮といった微々たるものなのだが、鳥居は勘定奉行も兼任している。

 この役職での賄賂は、たとえ一両でも許されない。


 そして最後には、一位様着物の一件だ。

 これには、老中の阿部も周りの奉行衆に些か笑って、

「これはな、それがしの妻から入った情報なのだが……」

 と、奉行連中に漏らす、例の、白洲の筵の上に、お華を座らせた事件だ。

 これは、もう無礼どころか謀反と言われても仕方が無い程であった。

「その連中は後で、同心の屋敷に討ち入ったそうじゃが、簡単に叩き潰されたそうじゃ。そりゃ、本丸火事の折、上様より褒美も頂いている女じゃ、町与力や同心じゃ太刀打ちできまい」

 と笑う。

 さすがにそれは鳥居も、

「その件につきましては、それらの者が勝手にやった事。それがしは一向に……」

 と、すぐに言い訳したが、老中阿部は厳しい顔で、

「何を申す。そなたの部下がやった事じゃ、そなたにも責任がある事は当然じゃ。この事については、大奥、姉小路様からもキツく抗議がきておる。すぐにでも切腹とな」

 鳥居も、これには黙り込む。

「そなたは以前、南の前任、矢部駿河守の部下が起こした不正を矢部の責任として祭り上げたのではないか? そうであるならば、これもそなたが責任を負うことは明白である!」

 と言い放った。

 ここまでくると、もう鳥居は全てを観念したようだ。

「誠に恐れ入り候」

 と、消え入るような声で、平伏する。

 老中阿倍など、評定所一座の判決は、

「追って沙汰する」

 の言葉。それで全てが終わった。


(2)


 

 そんな対決は知る由も無い、お華は、永代橋を目の前にしていた。

 橋を渡ろうとしたお華の目に、一人の侍が、橋の欄干にもたれ、大きな溜め息を吐いている……そんな様子の姿が飛び込んできた。

 芸者のお華とは言え、武家の娘でもあるお華は、自分から男の人に声を掛けることなどしない。

 例えば、北町の同心や、その関連。または、芸者方面のご贔屓様でもあれば別だが、ただの侍に、安易に声を掛ける事はしない。

 橋に足を掛けた所までは、そのつもりだった。

 長さ、百十間の永代橋。

 近づくにつれ、その侍が、若いというより子供? である事に気が付いた。

 こうなると、お華も、少々様子が変わる。

 何故なら、その子供? 江戸の侍では見られない、悪く言えば無粋な着物で、更に、明らかに、道に迷っている様子。

 お華は、少し微笑み、

(仕方無い……)

 と、声を掛けようと思った、その瞬間だった。


 妙な町人の男が、向こう側から、その子供と言って良い侍にぶつかり、

「ああ、ごめんなさいよ~」

 などと声を上げ、そのまま通り過ぎようとしていた。

 普通なら誰も、そして本人でさえ気付かない鮮やかな手並みなのだが、正面にいるのがお華であったのが不幸であった。

 素早く懐から、簪を二本。

 男の袖、更に頭、黒の一本元結いに素早く打ち放った。

 当然ながら、髷は爆発している。

 子供の侍は、当然驚愕し、何でこんな事が? と妙な顔をしている。

 お華は、その男に近づき、

「あんた、黒元結連だね! そのお侍さんから、ヌいた物、出しな」

目尻を上げて、その男に怒鳴るお華。

 その男も、

「何を言いやがる!」

 と、横を向いて否定するが、お華はすかさず、頭の簪で、男の胸元の着物を切り裂く。

 すると、如何にも子供用の巾着が、ストンと落ちてきた。

 若い侍が、目を大きく開け、

「あ! それ私の!」

 と、慌てて、取り上げ、自分の懐に戻す。

 掏摸の男は全てバレてしまい。観念した顔で下を向く。

 お華は厳しい眼光で、

「子供の懐狙うなんざ、許せない。本来ならこの簪で、指を全部刺してやる所だけど、今日は、同心の旦那が一緒じゃないから、見逃してやる。二度目は無いと思いな! サッサと行きなさい」

 男は、「ぎゃ~」と叫び声を上げ、着物を引きちぎって、一目散に逃げていく。 この頃、取り締まりが緩くなった江戸では、掏摸が、多発していた。

 橋の侍は、侍とは言っても子供だから、簡単な仕事と狙ったのだろう。

「あら~、簪一つ、河に行っちゃったね~」

 などと言いながら、お華は橋桁に刺さった簪を抜く。

 使うのは良いが、無くすと金が掛かるので、なるべく回収するお華であった。

 そして、その子供の顔を見たお華は、眉を寄せ、

「お侍さん? あなたもお侍なら、ぼーっとしてちゃ駄目よ」

 と、いきなり叱りつける。

 その子も、さすがにペコンと頭を下げ、

「本当にありがとうございました。でも、あなたは一体?」

 不思議そうな顔でお華を見る。

「あたしは芸者なんだけどさ、奉行所のお手先もやってるのよ」

 なんて、言われるのだが、若侍はポカンという表情だ。そして、

「その簪は、手裏剣なんですよね。江戸では、そういうのが流行っているのですか?」

 なんて言うものだから、お華は破顔しながら、

「別に流行じゃないわよ」

と、大笑いになる。

「いえね。私の里の方で、手裏剣の道場があるんですけど、そこの女子の手裏剣なんかより遙かに凄い……」

 お華は、ますます大笑いし、これで、この子が江戸の子では無い事を確信した。

「あなたも、剣の方やらないと駄目よ。掏摸にさえ負けてしまってるじゃない」

 と言うと、その子供侍は、悲しい顔で、

「兄は、もの凄く強いんですけど、私はそういう事に向いてなくて……」

 などと、橋の上で話す二人。

 この状況に、何だかおかしくなったお華は、

「あなた。道に迷ってたんでしょ。どこ行きたいの?」

 ようやく、本題に戻って、聞いてあげた。

 もう、侍というより、近所の男の子というような扱いだ。

 すると、その子は、

「八丁堀って所に行きたいんです。堀だ堀だと探していたら河に出ちゃって……」

 と頭を掻く。

 お華は頷きながら、笑って、

「なんだ。八丁堀か。私もそこに用事があるから、一緒に連れて行ってあげる」

「あ、ありがとうございます」

 子供は満面笑みになる。

 微笑むお華は、橋を歩き始めた。

 その子は、トコトコ、その後をついて行く。


 しかし、歩きながらお華の頭には、ある疑問が浮かんだ。

(この子は、どこか田舎の子。そんな子が八丁堀って……)

 確かに、八丁堀は江戸では有名な所だが、田舎の子が、観光で来て喜ぶ様な場所ではない。

「あなた。八丁堀のどこに行きたいの?」

 お華は、試しに聞いてみた。

 すると、その子は、

「はい。八丁堀の桜田様のお宅に行きたいと思ってまして……」

 これには、さすがにお華は驚愕して足が止まった。

 そして、お華の頭の中は、大回転して記憶を探る。

(こんな親戚の男の子なんかいたっけ?)

 である。

 しかし、分かるはずも無い。

 そもそも、桜田家は、両親は勿論、祖父祖母もとっくにこの世の人ではなく、その傍系もいない。つまり親戚と称する存在は全く無いからだ。

 越前堀のほとり円覚寺のあたりで、

 お華は振り返り、男の子に、

「桜田浩太郎を訪ねて来たの?」

 と、聞いてみた。

 すると、その子は首を振った。

 さすがにそうなると、お華の頭の中は、活動停止になる。

「じゃ……」

 と、お華が更に言うと、その子は、笑顔で、

「そちらにお世話になっている、秋月裕次郎に会いに来たんです」

 それには、お華も目をパチパチして、

「秋月様?」

 まるで、聞いた事が無い名前だ。

 お華の頭の中は、混乱の頂点に達した。

 すると、その子は、

「はい。あ、ここ江戸では、優斎と名乗っております」

これには、お華、生涯一番とも行っても良い、衝撃を受けた。

「ええ~!」

 当然、悲鳴に似た叫びとなる。

 これで、疑問が一気に解決したものの、秋月という名は初めて聞いたので、

「じゃ、あなたは?」

 その子は素直に、

「はい。秋月裕三郞と申します」

 と、ちょこんと頭を下げる。

 お華は慌てて、

「私は、桜田浩太郎の妹で、お華です。でも、先生の本名初めて聞いたわ~」

 と、言うと、その子は、

「あ! お華さん。兄の手紙で、良く教えて貰ってます。いつも兄がお世話になっているようで……」

 これには、お華は手を振り、

「いやいや、お世話になってるのはこちらの方よ。でも、あなたが弟さんとはね~」

 大笑いだ。

 しかし、すぐ頭を捻り、

「でもさ、先生の亡くなった妹様の話は聞いているんだけど、弟様がいらっしゃるなんて初めて聞いたわ」

 と言うと、その子は「あ~」とニコニコ頷き、

「実は私。一番上の兄の養子になっているんです。だから、表向きには、叔父と甥になるんです」

 それで、ようやくお華にも全貌が分かった。

「なるほど、お兄様の……。ん? じゃ今日は参勤交代のお供で江戸に?」

 その子は大きく頷いた。

「はい。裕次郎兄の診療所を早く見たくて、一人で飛び出してきてしまいました」

 お華は、微笑み、

「あらあら……」

 と頷いたが、途端に気の毒そうな顔に変わり、

「でもね。先生は、最近引っ越ししたのよ。それは聞いてる?」

 それには、裕三郞もえらく動揺して、

「ほ、本当ですか?」

 と、如何にも困ったような顔で声を上げる。

 しかし、それにはお華が、

「大丈夫よ。私の屋敷の隣に移っただけだから、私が案内してあげる。でもさ、先生の引っ越し知らないのだったら、先生、あなたを捜しに来るかもよ。たぶん八丁堀に来ると思うから、やっぱり先に行って待っているしかないわね」

「はい。申し訳ありません。どうかよろしくお願いします」

 頭を下げる裕三郞を見て、何だか嬉しくなったお華は、

「じゃ、急いで行きましょ」


 八丁堀の屋敷に着き、玄関を開けて、

「お華で~す」

 と声を上げると、おきみがサッとやって来て、座る。

「お華姉さん。いらっしゃいませ。今日は大丈夫ですか?」

 少し笑って迎える。もう、こんなこと言えるようになっている。

 お華は、おきみの頬を少し突いて、

「ほう、行ってくれるじゃない、おきみちゃん」

 と笑いながら、

「姉上に言って、お客さん連れてきたから……」

 すると後ろから侍が現れた。

 でも、おきみと同じ位の若侍だから、おきみも目を丸くした。

「はい」と言って、おさよに伝えにいくと、おさよが、

「どうしたの」

 と出てきたが、同じく初めて見る顔に、慌てて正座して挨拶した。

 お華は、ニコニコして、

「こちらはなんと、優斎先生の弟さんよ!」

 などと言うから、おさよも驚いた。

 おさよにしても、認識はお華と一緒だからだ。

「弟様?……」

 と首を捻るが、お華は、

「一番上のお兄様の御養子に入ってらっしゃるんだって、つまり今は甥御さんよ」

 この言葉で、おさよも納得した。

 裕三郞も、所在なげに俯いている。

「あら~こんな弟様がいらっしゃるなんて、初めて聞いたわ」

 と、こちらも突然の事ながら、笑顔で迎える。

 裕三郞も、

「初めまして、裕次郎……いや優斎の弟にございます。突然お邪魔をして誠に申し訳ありません」

 と、チョコンと頭を下げる。

 お華は、おさよに、

「こちらは、仙台からお見えになったばかりなのよ。上がっていいかしら」

 それにはおさよも、

「あ! そうよね。さ、どうぞどうぞ」

 と、居間に招き入れた。

 座ったお華は、

「昨日、江戸に着いたらしいわよ。一番上のお兄様の御養子になられたんだって、だから正式には甥御様って事になるけど、本当は三番目の弟様なんだって。私も永代でひょんな事で知り合いになって、驚いちゃったわよ」

 おさよは正面に座り、

「これはこれは、参勤でおいでとは。誠にご苦労様にございます」

 と、きちっと、幕臣の妻らしく、頭を下げた。

 しかし、裕三郞は、そこまで考えていなかったから、

「いえ、こんなつもりは無かったんですけど、誠に申し訳ございません」

 慌てて、頭を下げる。

 すると、おさよは、

「失礼ですけど、今、お幾つなんですか?」

 と聞くと、

「はい。十一でございます」

 お華は、首を上げて、

「ひや~、おきみちゃんと一緒じゃない」

 そのおきみも、次の間で目を丸くしている。

 おさよは、微笑み、

「その若さで、仙台なんぞ遠い所から、わざわざ、かたじけない事に存じます」

 と再び、頭を下げる。

 裕三郞は、少々困った様子で、

「いえいえ、そんな。ただ父に付いてきただけですから~」

 それにはみんな、微笑む。

 するとお華が、

「なんかね、黙ってここまで来ちゃったんだって。先生の診療所見に。ところが、もう引っ越してるでしょ。たぶんここに、探しに来るんじゃないかと思うのよ」

 おさよも頷いて、

「そういうことなんだ。じゃ、慌ててやって来るんじゃない?」

 と笑う。

 すると、玄関の戸が開く音がした。

「帰ったぞ~」

 の声に、

「あら、旦那様が先に帰って来たわね~」

 と、座を立ち、玄関へ。

 さすがに裕三郞は、正面を向いて若干緊張している。


「旦那様、佐助さん、お戻りなさいませ」

 との声を聞きながら、浩太郎は玄関の履き物を見て、

「なんだ、お客さんか?」

 と、刀を渡しながら聞くと、おさよが、詳細を話した。

 さすがに浩太郎も、「え?」と声を上げ、驚いた。

 長兄の養子という事自体は、武家には珍しい事ではないから、それほど気にはならない。

 しかし、何より、それがあの、優斎先生の所というのだから、その意外性に驚いたのだ。

 浩太郎も何だか嬉しくなり、着物も変えず、居間に向かった。

「これは、いらっしゃい」

 と、笑顔で言うと、

 裕三郞は、緊張の頂点の顔で、

「これはこれは、浩太郎様。お留守の所、不躾ながら押しかけまして、誠に申し訳ありません。秋月裕三郞にございます」

 と、畳に頭をぶつけるように、平伏した。

 座った浩太郎は、笑顔で、

「誠にご立派なご挨拶。十一と聞いたが誠か?」

「はい。当年とって十一にございます」

 おみよと同じ年に、浩太郎も微笑んでしまう。

「いいよいいよ、そんなに固くならず。優斎先生には、こちらもただならぬお世話になっているのだから、ご家族にお礼を言わねばならぬのは、こちらの方だ」

 と、おさよ、お華と一緒に頭を下げる。

 それには裕三郞もどうして良いか分からず、困った顔をしている。

 すると浩太郎は、

「先生から妹様の話は前に聞いてたが、弟様がいるなんて、一度も聞いて無いよ。確かに、兄様の御養子もあるだろうけど、言ってくれれば良いのに」

 腕を組んで、少し文句を言うと、裕三郞が、

「たぶん兄は、恥ずかしかったのだと思いますよ」

「え? 恥ずかしい?」

 首を捻った浩太郎の言葉に、裕三郞は少し笑い気味で、

「あまりに離れていて、恥かきっ子だから……」

 それには、浩太郎も驚き、そして大笑いした。

「へ~あんた、そんな言葉知ってるんだ」

 と言うと、おさよが微笑み、

「言われてる本人が一番分かってしまうんですよ。ねえ?」

 と、裕三郞も笑いながら頷く。

 そして、ここに来た理由を聞くと、

「なんだって? 黙ってここに来た?」

 浩太郎は、その無謀さというか、若さに驚いた。

「ええ。早く、兄上の診療所を見たいと思いまして、兄が迎えに来る前に上屋敷を出てしまいました」

 と幾分、頭を下げながら、話すが、浩太郎は、些か呆れて、

「だって、新橋だろ? 上は。さすが、先生の弟というか、度胸有るなあ~。で、結局、お華に拾われたって訳か?」

 お華も笑って、

「私だって、全く知らなかったから。この子、永代の橋の上で、掏摸に狙われたのよ」

 それには、一同驚いた。浩太郎は、目を鋭くして、

「お前がそれを見ていたと言う事は……」

 お華も笑って頷き、

「頭爆発させて、見逃してやったわよ」

 浩太郎は、笑って首を捻りながら、

「裕三郞さん。あんた、江戸に来た早々、お華の簪見た訳だ」

 さすがに裕三郞も笑い、

「その通りです。あんなの見たのは初めてです。初めて、江戸って怖いなと思いました」

 それには、浩太郎もおさよも大笑いだ。

「擦りより、簪に驚いたか、そりゃ災難だ」

 と、浩太郎は言うのだが、お華は少し不機嫌だ。

「でも、やっぱり縁があるんだな~。来て早々、お華に関わるなんて」

 との浩太郎の言葉には、おさよも大きく頷く。


 すると、同時に大きな足音が、浩太郎とお華の耳に入ってきた。

「来たよ~」

 のお華の言葉に、浩太郎も頷いた。

 優斎は、玄関を通らず、いつもの様に、庭先に掛け入って来た。

 息を切らし、

「こ、浩太郎さん」

 と言って、横を見た途端、

「三郞! やっぱりお前!」

 と、縁側に手を着き、息を整えながら、怒鳴るが、声になっていない。

 さすがに、その優斎の動揺の様子は、全くいつもと違うから、おさよもお華も笑ってしまう。

「先生。もうご挨拶しちゃったぞ」

 優斎は居間に刷り上がり、

「誠に、誠に申し訳ありません。こいつがご迷惑お掛けして……」

 浩太郎は笑って、

「迷惑なんてとんでも無いよ。むしろ、お華の簪見せつけられて、折角江戸に来たのに怖い思いさせたと、こちらこそ申し訳無いよ」

「げ!」

 優斎は、さすがに驚いた。

 するとお華が、

「裕三郞さんが、永代で迷子になってたから、連れて来てあげたの」

 それには、優斎もお華に頭を下げ、

「本当に申し訳ない」

 と、また頭を下げる。

 裕三郞を除いた皆は、大慌ての優斎に大笑いした。

 すると、浩太郎は優斎に、 

「それじゃ、兄上様は、何もご存じないのだろう。お知らせした方が安心なさるのではないか?」

 それには、優斎も、

「本当ですよ。私が上屋敷に行ったら、大騒ぎになってました。ところが、来たばかりのこいつの事、誰も知る訳がありません。仕方無いので、私が探しに出たという次第。まあ、行き先は想像出来ていたのですが、あなたに申す迄も無く、江戸は分かり難い所。きっと迷っているんだろうなと思っておりましたから」

 浩太郎とお華は二人とも頷いて笑っている。

 浩太郎は、次室で、笑顔で話を聞いていた佐助に、

「佐助すまん。聞いての通りじゃ。遠回りで悪いが、ばあさんの所に行く前に、伊達様に寄って、この事、先生の兄上にお伝えしてくれんか。合わなくても良い、伝言で構わないから、ひとっ走り頼む」

 佐助も、大きく頷き、

「承知致しました」

 と、頭を下げると優斎も、

「申し訳無い佐助さん。一晩預かると、門番にでも伝えてくれれば良いから……」

 こちらも頭を下げる。

「いえいえ」

 と笑う佐助に、浩太郎は、

「ばあさんに、おきみもしっかりやってるから、心配要らぬと伝えてくれ」

 するとお華が、

「最近じゃ、あたしもからかわれる位だから、全然大丈夫よ」

 すると、おさよが、

「お華ちゃんに戦いを挑む位なら、何も問題ないわね」

 と大笑いし、おきみも照れ笑いしている。

 浩太郎は懐から金を出して、

「佐助。これでばあさんに何か買ってやってくれ。じゃ悪いが頼む」

 それを受け取った佐助は、感謝の言葉を述べながら立ち上がった。

 おきみもその後をついて行く、見送りをするのだろう。


「さて、先生。せっかくここまで来たんだ。裕三郞さんに新しい診療所見せてやったらどうだい? お華も一緒に行ってあげなさい」

 はいと承諾し、お華は裕三郞を誘い、玄関へと。

 優斎は、浩太郎に、

「実は浩太郎さん。我が兄が、一言御礼申し上げたいと、申して降ります。こちらに連れてきてもよろしいですか?」

 それには浩太郎も驚き、

「え? 兄上様かい?」

「ええ。我が母にも、言われておりまして、亡き妹の事もございますし、是非一言お礼をと申しております」

「そうか……。母上様と言われると、否も応もござりますまい。俺は今月非番だから、そちらの都合の良い時で構いません。お知らせ下されば、お待ちしております」

 と、さすがに伊達も勘定方のお偉いさんを迎えるとなると、浩太郎も言葉が丁寧になる。

 しかし、

「でもさ、先生。ここは同心の屋敷で、狭い所だから、その辺、重々申し上げておいてくれないかい?」

 それには、優斎も笑って、

「いや。我が家も大して変わりませんからご心配なく。それに、今のお華さんの所に連れて行ったら、兄はひっくり返って驚いてしまいます」

「確かにな~。よろしく頼むよ。三郎さんだって、診療所、いやお華の屋敷を見たら、かなり驚くんじゃないか?」

 それには、おさよも、

「あれは、江戸に居る者だって驚きますからね」

 優斎は笑って、

「実は、そう思って黙ってたんですよ。驚かせてやろうと」

 浩太郎は、何度も頷き、

「はは、こりゃ、言い土産話になるよ」

 と、三人とも大笑いとなった。

 思った通り、お華の屋敷前に行った裕三郞の第一声は、

「からかってるんですか? 兄上!」

 だった。



(3)

 


 後日知らせがあり、優斎の兄、秋月裕一郎が、八丁堀の浩太郎の屋敷にやって来た。

 浩太郎は、

「江戸へ御参勤で起こしになり、大変お忙しい所、わざわざ我が拙宅などにおいで下さいまして、誠にありがとう存じます」

 浩太郎とおさよ、そしてお華も、礼服に着替え、平伏して迎えた。

 長兄らしく、威厳もあるが、人当たりの良さそうな裕一郎は、

「いえいえ、いつもお礼に参らねばと思っておりましたが、何分遠い。此度は良い機会。是非と考えておりました。我が母も必ずと申しておりまして。さらには先日はこの裕三郞まで、お世話になったとか。なんとお詫びしてよいものやらと取り急ぎ参りました。二郎、三郎。そして亡き妹と度々のご親切、お礼の言葉もございません」

 身分を超えて、深く頭を下げる。同時に、優斎、裕三郞も一緒に頭を下げる。

 浩太郎も、

「何をおっしゃいます。私共のほうこそ、亡き父、存命のころから、二郎……いや普段、優斎先生とお呼びしているのですが、わが妻、そして妹までひとかたならぬお世話をお掛けしております。お礼を申し上げるのはこちらの方でございます。誠にありがとうございます」

 こちらも三人とも平伏する。

 すると浩太郎は、

「さて、堅い話はここまでで、どうかお寛ぎ下さい。おさよ、用意の膳を」

 おさよはおきみを呼び、台所に向かう。


 すると裕一郎は、

「いや、お華様には、なんと我が殿の昇進のお口添えをしていただいたとか。これには家族は勿論、仙台の者達も驚いております。誠にありがたい事だと」

 それには、お華も笑って、

「いえいえ、お兄様。たまたま、優斎先生と大奥の姉小路様、お手伝いをしていたので、それならと申し上げた事にございます」

 それは裕一郎も聞いてはいたものの、本人から言われると、

「お、大奥にございますか……」

 絶句してしまう。

 すると浩太郎は、

「こいつは、あちこちにまでお願いするものだから、姉小路様に、帰って遅くなってしまうとか、叱られると言った次第で。かえってご迷惑になったんではと、私などは恐縮しております」

 と、お華以外、大笑いとなる。


 酒なども運ばれ、小さな宴となった。

 裕一郎は、その役職から、

「いや、私としましては、米の市場価格や、大店の売り上げ状況までお教え頂いて、本当に驚きました」

 浩太郎は、

「あの折は、皆様、本当にご苦労なさったのではないかと、お察し致します。あれにしても、調べよと上から申し付けられました一件ですが、特にお世話になっている伊達様には、米の価格は重要と思いましてな。お知らせした方が良いと考えての事にございます。優斎先生も勘定方の兄上様にはこれ以上の知らせは無いと言っておられたので、お華に調べさせたのです。ちなみに、あれから上が変わりまして、どうかと思いましたが、まだ組合も無くなったままですから、しばらくは厳しい状態が続くのではと思われます」

 裕一郎も大きく頷き、

「あれは助かりました。しかし、お華様には驚いてしまいます。この子が凄いお屋敷だと騒ぐものですから、私もこちらに来る前に拝見しましたが、なんとお上からのご褒美とか。そんな方に私共の用事などお願いしても良いのかと恐縮してしまいます」

 と、酒を口にしながら、笑顔でお華を褒める。

 浩太郎は手を振って、

「こいつは芸者もやってますから、そういう情報は早いのです。まあ、それだけが取り柄みたいなものですから、これからも何か有りましたら遠慮無く申し付けて下さい」

 喜んでいたお華だが、途端に非難の目を浩太郎に向ける。

 さて、暫くすると、お華の馬鹿話で、皆打ち解けた雰囲気になった。

 裕一郎も酒が入り、安心したのか、浩太郎に、

「実は、江戸にいらっしゃる、あなた様にご相談があるのですよ」

と、些か困った顔で言う。

「はい。どういった事でしょう」

浩太郎も突然の事に驚いた。

 裕一郎は、困った顔のままで、

「実は、この子が江戸で医学を学びたいなどと申します」

 と裕三郞を見ながら、浩太郎に訴える。

 さすがに浩太郎もおさよも、そんな内々の話には驚いた。

「医者ですか? しかしもう……」

 と、優斎に顔を向ける。

 優斎もその話は知っていたらしく、苦い顔をしている。

「しかし、一家に医者は二人も要らないでしょう。お兄さまが医療で仕えてらっしゃるならともかく、勘定方では、お家が続かない」

 裕一郎も、大きく頷き、

「そうなんじゃ。でもこれからは医者だなどと申し、江戸で学びたいと申し、私も妻も、そして母さえも困っております」

 それには浩太郎が大笑いし、

「要するに」と指差し、「この人が悪いのですな?」

 裕一郎も頷き、

「そうなんじゃ。こいつが勝手に江戸に来て医者なんぞやるものだから、この子もやりたいなどと……」

 優斎にしても、いかにも困った様子で両手で頭を抱え、言葉が出ない。

 それには、浩太郎と、おさよ、お華も笑いが止まらない。

 しかし、浩太郎は裕三郞に、

「そなたの気持ちは分からぬでも無い。私だって幼い頃は、学びたいと思った事があったからな」

 それには、お華が驚き、

「え~そうだったっけ?」

 という言葉に、浩太郎は、

「お前は、自分の事しか考えていないから、憶えてないのじゃ」

 と、言われるとお華は、ブツブツ文句を言いながら、首を傾げる。

 そして浩太郎は、

「裕三郞さん。残念だが、あなたは秋月家の嫡子じゃ。私と同じ、それからは逃げる事は出来ない。でないと、お母上、そして亡くなられた父上も大変お悲しみになるだろう。そして、あなた自身、それは既に分かっている筈じゃ」

 それには、裕三郞は、ガックリと肩を落とす。その通りだったのだろう。加えて他人からの意見は、さらに心に響く。

 しかしと言いながら、浩太郎は微笑み、

「あなたは実に幸運だ。勘定方の父上、そしてそれを継ぐというあなたの立場がじゃ」

 それには、裕三郞は勿論、裕一郎も、不思議な顔をしている。

「裕三郞さん。新しい事は何も医者だけではありませんぞ。例えば、江戸の方でも勘定方の代官が、新しい大砲の製造など学んでいるらしい」

 浩太郎は、韮山代官・江川太郎左衛門英龍について話している。

 江川は勘定方で、韮山の代官を勤める。

 彼は、反射炉を築き、西洋砲術を日本に普及させた。

 残念ながら、この後、勘定奉行就任直前で病死してしまうのだが、新しい道を開いたという功績は現在でも有名だ。

浩太郎は、

「いいかい? 結局の所、勘定方の知識が無いと、これからは、お上も伊達様も非常に困った事態が起こると言う事じゃ。なあ、優斎先生」

 優斎も、それには頷く。

 そして、浩太郎は続けて、

「お父上様。近頃は、各お大名から、それらの秀才達が、江戸に勉強をと、続々来ておるようです。大藩、伊達様もこれには遅れを取る訳にいきますまい」

「そ、そうなのですか。医者としてではなく?」

「はい。伊達様も近頃、海岸警備など、老中様からお話があったと存じます。回りの、いえ、九州、四国まで、これには真剣にお考えの様です」

「それは確かに」

 さすがに現役の勘定方。当然それは耳に入っている。

 浩太郎は笑い、

「まあ、それを。と言う訳ではございませんが、裕三郞さんも、勘定方として江戸で学ばれるのは、伊達様にとっても大変良い事の様に思えます」

 そして、浩太郎は裕三郞に目をやり、

「あなたはまず、お父上に学ばれ、勘定方の仕事を身につける事をお考えなされ。

まずは基本じゃ。これを充分に身体に入れ、数年後、それでも江戸で学びたいと仰るなら、こちらとしても歓迎致します。またそれでも遅くはありません」 

 と頭を下げる。

 それには、裕三郞も目を大きくして笑顔になり、聞いているおさよ、お華も微笑む。

裕三郞は、目を輝かせて、

「かまいませんか? お父上」

 それには、もう裕一郎も、不承不承頷くしかない。

 優斎は、口に手を当て、感謝している様子だ。

 浩太郎は更に、

「でもね。裕三郞さん。あなたは、この裕次郎さんが気楽に医者やってると思ってるかも知れないが、ここ数年、もしかしたら私は、先生をお縄にしていたかも知れない」

 優斎も、それには真面目な顔で頷き、二人は、その話には少々驚いた。

「ご存じかも知れませんが、一時、西洋の勉強をした医者は、次々標的にされる弾圧があったんだ。ご覧の通り、結局は無事だったが、新しい事をやると、その時のお上によっては、同時に危険も伴う。お父上様のお仕事を継ぐ様にいったのは、一つには、これを避ける為と言うこともあるんだ。これは北町奉行所同心の意見だと思って下さい」

 優斎も頷き、

「そうでしたね~。今考えると、私も、良く乗り切ったと思っていますよ」

 それには、お華と裕三郞が真剣な顔で聞いている。

「とにかく、伊達様御家中という立場を早急に作りなされ、黙って飛び出されると、先生の様に、剣が強くても取り囲まれてしまうかも知れぬ。少なくとも伊達様家中であれば、簡単には手を出せませんからな」

 何回も頷く裕一郎は、裕三郞に、

「確かに、桜田様の仰る通りだ。まず、そこから始めなさい」

 裕三郞も、道筋を立ててくれると、明日への希望も湧く。

 とは言え優斎は、何とか良い方に納まったと、胸に手をやり、ホッとしている。


 すると、お華が、

「江戸では、伊達様のお屋敷にお住まいになるの?」

 それには優斎が、

「いや、参勤での江戸ではないから、屋敷には住めないでしょう……」

 すると浩太郎が、

「なに。そこに住めば良い」

 と、庭を離れを指差す。

「ああ、そうですね~」

 おさよもお華も、和やかに頷く。優斎も苦笑する。

「お父様」

 と浩太郎は裕一郎に、

「あそこは、先生が、つい最近まで医者をしていた所。回りは静かですから、お一人で勉学に励むなら絶好の場所です。しかもここは八丁堀ですから、危険な事は殆どありません」

 するとお華が、

「殆ど? 全く安心でしょう~」

 と言うのだが、浩太郎は苦笑いで、

「何を言っておる。八丁堀で一番危険な場所と皆に言われてんだぞ。どこかの嫁と妹のお陰で!」

 それには、優斎も手を叩き、大笑いだ。

 嫁と妹は、見合わせて恥ずかしそうな顔をしている。

「まあ、それでも後ろに隠れてれば、武道の勉強になるかも知れないけどな」

 と笑い。

「さらに、普段の生活は、おさよもおきみもおりますから、何とかなります。そして恐らく、お母上様などは江戸で遊んでしまうのではないかと御心配になるでしょうが、この妹は、柳橋の芸者。若様が隠れて遊ばれても、すぐ耳に入ってきます。そして、こいつはすぐ、そちらの先生に耳打ちし、先生は木刀持って叱りに来るでしょう」

 これには、裕三郞以外、大笑いになった。

「大変だね~若様。覚悟して来ないと」

 などとお華に言われ、更に腹を抱えて笑ってしまう。

 そんなこんなで、裕三郞の件も一段落する。

その夜は、そんな話で、和やかに過ぎていった。



(4)


 しばらく経って、お華は、浩太郎に朝から呼び出された。

 弘化二年十月の事である。

 眠い目を擦りながら一緒に歩くお華は、浩太郎に、

「今朝は、何なんです? 何の御用です?」

 と聞くと、しっかり整った姿の浩太郎は、静かに、

「お見送りじゃ」

 と一言。

 首を捻るお華は、

「お見送り? 一体誰の?」

 すると、浩太郎は、

「先の南町奉行、鳥居様じゃ!」

 と言い放った。それにはお華は、驚き、

「何、何、何でお見送りなんぞ……」

 浩太郎は頷き、語り始めた。

「さすがの妖怪も、姉小路様とお華には勝てなかった。お前が集めた証拠や、上申書などで、手も足も出なくなった様で、家禄没収、終身禁固が決まったのだ。お前もこれには、関わっているのだ。最後までやるべきじゃ」

 そう言われると、お華も、

「まあ……そう言われればそうだけど。見送るって、どこに行くの?」

 それには浩太郎もおかしそうな顔で、

「普通は、お上が決めれば、それにすぐ従うものなのじゃが、これには、命じられた各家中が嫌がってな~」

 と、苦笑いになる。

「そりゃ、妖怪なんて嫌でしょうよ」

 お華の言葉に頷きながら、

「ようやく、四国丸亀藩となった様じゃ」

「四国! こりゃまた遠国ね」

 浩太郎は、幾分、静かな口調で、

「本人は当然だから良いのだが、ご家族はこれからどうなさるのだろうか。まあ、鳥居家は名門であるから、ご実家から援助は受けようが、これからは大変じゃ、家禄も無くなり、周りの目も厳しいからな」

 そう、妖怪に対する判決は、

「家禄没収、終身禁固」

 そして、家族、特に息子は改易となった。

 お華も、それには悲しそうな目で、

「全くお子様などは良い迷惑よ。本当にお気の毒……」


 二人の前を、丸亀藩江戸詰め五十二名の大人数に囲まれ、妖怪は駕籠の中に押し込められ、進んでいく。

 お華は、帯から扇子を抜き出した。

 そして、その駕籠が横を通る一瞬、右手を振り上げた。

 するとその扇子は、簪手裏剣のように駕籠の間に、スパッと入り込んだ。

 鳥居は驚き、慌てて左右を見たが、もうお華と浩太郎はそこには居ない。

 浩太郎は、些か呆れた顔で、

「なんだ、あれは」

 と少々叱りつけた様に言うと、お華は、微かな笑みと共に空を見上げ、

「まあ、扇子から始まったからね~。ちょっとした御餞別よ。吹かれて飛んで行きなってもんよ」

 と笑う。

 浩太郎もそれには、

「なるほどな……」

 と、複雑な表情で笑った。


 そして、鳥居の裁きが決まると、水野も処分された。

 さすがに、これもお華が見つけた、十六万両の後藤三右衛門、賄賂の件は、将軍家慶も激怒した様だ。

 姉小路の読みの通りの結果となり、家禄二万石、屋敷などを没収され、隠居と共に、下屋敷に、永の謹慎処分となった。

 嫡子忠精は、水野家、長年の功績により特に許されたものの、家禄五万石で出羽山形への国替えが命じられた。

 これにて、天保の改革と、その首謀者らは、政治の表舞台から全て消え去った。

 

二人は、過ぎ去る一行を何とも言えぬ顔で見送っている。

 浩太郎は、

「本来なら、すみやにでも行って、皆で祝うところじゃが、こう、見送ってしまうとな。何というか、それもバカバカしく思ってしまう」

 お華も、頷いて、

「まあ、本当にそうだね……」

 浩太郎は、踵を返し、

「問題はこれからじゃ、お上はどう立て直しなさるのか、俺たちも出来ることはやらなければならない……」

 と、兄妹は、その場を後にした。


 さて、それから一ヶ月後である。

 またもやお見送りをしなければならない。

「え~今度は誰?」

 などと文句を言っていたお華だが、今度は、裕一郎、裕三郞親子と聞いて、

「それは、それは」

 と、慌てて仕度する。

 彼らは、参勤の共でやって来たが、裕一郎は、勘定方の要職を務める者。

 早めに帰らなければならないようだ。

 優斎、浩太郎は勿論、おさよ、お華まで伊達上屋敷に通じる道で、二人を待っていた。

 皆で、千住辺りまで、送る積もりであった。

 割と大勢で、江戸を抜ける道すがら、浩太郎は、

「裕三郞さん。勘定の見習いも大変だろうが、仙台に帰って、もう一度江戸に来るのだったら、一つ、身につけなければならない事がある」

 それには、旅装の裕三郞も驚き、

「え? まだ他に、何か学ばねばなりませんか?」

 と、真剣に浩太郎に言うのだが、浩太郎はニコニコし出し、

「そう。こうやって話していても、殺気を感じたら、一挙に三間は、身体を移動させなければならないんだ」

 と含み笑いで、裕三郞に話す。

 裕三郞親子は、何の事だか分からず、ポカーンとした顔だが、後ろの優斎は、

「ああ!」

 と大笑いしている。

 浩太郎は、その横のおさよに、

「おさよ。三間離れただけじゃ駄目か?」

 と笑って聞くと、おさよも気づいたようで、これも笑いながら、

「はい。離れたと同時に身体一つ分は横に移動しなければなりません」

 と、口を押さえながら言っている。

 優斎は、笑いが止まらない。

 浩太郎は、裕三郞に、

「この前は、色々言ったが、あなたが江戸に来たら、本当に一番警戒しなきゃいけないのはここだ。おそらく、あなたが江戸に来たら、どこかのお姉ちゃんが喜んで、一緒に来なさいとか言って、勘定方だって言ってんのに、町廻だとか、荷物持ちとか言って、必ずこき使われる。本当に気を付けなきゃいけないのはこれだ!」

 すると、横のお姉ちゃんもようやく気が付いた様だ。

「ち、ちょっと! そこの人?」

 と言うのだが、それには返事もせず、浩太郎は、

「例えばな、今日は勉学が……なんて断ろうとすると、いきなり頭から簪抜くから、それに備えるため、三間の移動は必要なんだ」

 浩太郎と優斎は大笑いする。

 さすがに、裕一郎親子もそれには大笑いしている。

「ちょっと。あたしがこの子にそんな事する訳ないでしょ!」

 と浩太郎に抗議するのだが、おさよが笑顔で、

「いやいや、それはありそうよね~」

 などと言うから、

「姉上!」

 と怒っている。

 浩太郎は、笑いながら、

「まあ、そんときは、この先生に助けを求めなさい。この人がいたら、そのお姉ちゃんはスゴスゴ引き下がるから……」

 それには優斎が、

「え! 私ですか? 私も三間飛ばなきゃいけないじゃないですか」

 と大笑いとなる。


 千住大橋に付くと、浩太郎達は、裕一郎親子に手を振って、別れを告げる。

「また、いらして下さいね」

 と、お華とおさよは微笑み頭を下げる。

 浩太郎も、

「その内、私と先生が、あなたが学ぶべき所を探しておくから、知らせを待っていて下さい」

 優斎も頷く。

 裕一郎も、笑顔で礼を返し、二人は仙台へと旅立っていった。

 

 何時までも見送っていたお華は、

「やっぱり、お見送りは、こういうのが一番よね」

 心から誰にとも無く言った。

 浩太郎も、優斎、おさよも笑顔で頷く。

 すると、浩太郎は、

「さて、帰ろうか」

 との言葉に、お華も笑顔で、

「そうね。帰りは船にしましょ」

 と、皆、大川の船宿目指して、歩いて行った。



 ~天保編・終了~ 


 ありがとうございました。

 これにて、天保改革編、終了となります。

 いかがだったでしょうか。

 これにて、一旦お休みさせて頂きますが、しばらくおいて次は「幕末編」を予定しております。 

 しばらくは、別の小説をアップしたいと思っております。

 よろしければ、そちらもご覧頂ければありがたいですm(__)m


 しかし、お華の物語をここまで書けるなんて、自分自身驚いております。

 また、見て頂いて下さる方もいらっしゃるなんて、二重の喜びです。


 さて、お華は、これからとうとう幕末に向かって行きます。

 何とか、最後まで書ければと思っています。


 さて、次回は江戸と言えば吉原です。

 これを扱ったものになります。

 但し、年齢制限はありません(笑)

 ただ、お華と同じ様に、女だから……といった制限の中、生きていった人の話です。

 短編ですので、お気軽にお読み頂ければ……と考えております。


では、今回もお読み頂き、ありがとうございました。

 ご意見ご感想、お待ちしております。

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