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お華の髪飾り  作者: 本隠坊
26/37

㉒青雲も夢の又夢

1)


 天保十四年閏九月七日、ついに上地令は、将軍の名において撤回された。

 そして、同月十二日。

 西の丸下役宅へ、明日、(あさ)(かみしも)にて登城するように、その筋から達しがあった。

 勿論、その意味は、忠邦にも既に承知の事である。

 こうした場合、大抵、代理を立てるのが慣習であるから、

親類、堀出雲守・長谷川久三郎の二人を差し出した。

 そして、月番老中・土井大炊頭から、老中罷免の宣告が行われたのである。

 それは同時に、天保の改革が、名実共に終焉した事を意味する。


 さてその天保十四年閏九月十三日、ここは八丁堀屋敷。

 お華は、浩太郎から屋敷に来るよう、連絡を受けていた。

 そして、今、おさよと二人。お茶を飲みながら話をしている。


「何でしょうね? 兄上は」

 おさよは軽く笑い、

「さあねえ? それにしても何かあったのかしらね?」

 昨夜、みんなで改革終了を祝った次の日だ。

 さすがに普段とは違う。

 お華は頷き、

「そうなのよ。まあ、月番じゃないし、急に……」

 と笑い、

「暇になっちゃったから、良いんだけどね」

「まあ、確かにね」

 と、おさよも笑って答える。

「おみよちゃんも戻って来て、おゆきの相手してくれているけどさ。あの子は、おゆき座らせて、しょっちゅう「あっち痛くない?」とか「こっちはどう?」なんて言っててね。見てると可笑しくて。もう、医者の端くれになっちゃったわよ」

 それには、おさよも頷き、

「あれ程、先生の助手やってたからね。癖になっちゃったんじゃない?」

 そしておさよは、

「で、どうするの? 深川じゃ、もう商売にならないんでしょ?」

 お華は暗い顔で、大きく頷き、

「それなのよ。折角、御改革が中止になっても、あれじゃね」

 お華の脳裏には、深川の今の様子が頭に浮かぶ。

「でもさ、柳橋の方には、みんな戻ってきてるんでしょ?」

「うん。そうなんだけどね。どうも私は、深川離れるのがさ……」

「相変わらず、それで悩んでるんだ。でもね、こればっかりはどうしようもないわよ。おさよちゃんなんかは、平気なんでしょ?」

「そう。結局私の問題なんだけどね」

「ただ、お華ちゃん。もうあなたは、おゆきちゃんだっている。姉として、せめて将来の道筋だけでも立ててあげないと。それは、おさよちゃんも同じだからね。もう諦めなさい。お父上だって、怒りゃしないわよ」

「やっぱり、そうなるんだよね~」

お華は頭を抱える。

「そう、お父上が、あなたを育て、場所を作ったように、今度はあなたが、なんとかしないと」

「うん」

 と答えたものの、きっぱりとしないようだ。

 おさよにしては、このお華が、ここまで迷っているといるのは意外でもあり、一方では、微笑ましい事だとは思っている。

 そんな話の中、浩太郎が戻ってきた。

「お華、来てたか」

「お戻りなさいませ」

 と、軽く頭を下げ、

「今日は何、何の御用なの?」

 お華は、如何にも機嫌悪そうに、浩太郎に訴える。

 浩太郎は、少し笑い、

「お見送りだよ」

 言いながら着替えず、居間に座る。

「お見送り?」

 お華は、不思議そうな顔で、

「一体、誰の」

「そりゃ、先の筆頭老中、水野様じゃ」

 苦笑いで言う浩太郎。


 水野忠邦は閏九月十三日、つまり今日。

 老中の座を追われたが、その後、同日夕、六つ時(午後6時)過ぎ迄に、西の丸の役宅を引き払い、三田の中屋敷に移って沙汰あるまで、急度謹慎しているように命ぜられていた。

 この事である。


 お華は、さらに苦い顔で、

「え? 何で私がそんなこと……」

 お華にとっては、天敵のような者。全く気が進まない。

 すると浩太郎は、

「佐久間様の仰せでな。それにお父様も一緒に行かれるから、お前も連れてけって仰るんでな」

 それには、おさよが、

「あら、お父上もご一緒なの?」

「そうなのじゃ」

 と、軽く頷き、

「もっともこれは、月番の仕事。非番の我らは手を出さんで良いのだが、佐久間様が、俺とお父上に、一応確認しとけとおっしゃるのでな。ついでにお華も、って言う事じゃ」

 浩太郎は、軽く笑う。

 そう言われてしまえばお華も、

「まあ、お父上も御一緒という事なら、嫌とは申しませんが、あまり気乗りはしないなぁ」

 と、肩を落とす。

「ふふ、まあそうだろうな。ただな。佐久間様が、あれほど力を持った老中様が、御役御免になり、去って行く所を見るのも、今後の勉強じゃと仰られてな。お華は芸者だから、きっと何かの役に立つとも仰っていたよ」

「ほう~」

 お華は少し納得出来たのか、大きく頷いた。

「偉そうに……」

 浩太郎は苦笑いだ。


 さて、そんな事言い合っていると、隣のおさよの父、吉沢甚内が玄関先で、

「お~い」

 と叫ぶので、二人は仕度を始めた。

 すると、浩太郎は、

「おさよも来るかい?」

 さすがに、おさよは驚いて、

「わたしも、ついて行っていいんですか?」

「構いやしないよ。ちょっと見物するだけだからな」

 と、佐助も含め、なんと四人で屋敷を出た。

 すると丁度、優斎が外にいたので、

「先生! 診療は終わったんだろ? 一緒に来ないか?」

 と浩太郎は、優斎まで誘う。

 優斎は笑って、

「ありがとうございます。是非」

 と、更に五人に増えた。

 すると、先程までの機嫌の悪さが、嘘のように、お華は優斎の方に回り、

「先生となら、まあ良いかな~」

 などと、調子良く言うものだから、おさよは呆れた顔で、

「何、その変わり様は?」

 と眉を潜めて文句を言う。

 すると、甚内が、

「実はの、浩太郎殿」

「はい」

「佐久間様が、少々心配なさってての」

「御心配ですか?」

「その昔、老中田沼様が御役御免の折にも、結構、人が出て、悪口雑言浴びせられて、危うく、斬り合いになる寸前だったらしい」

「はあ、あの田沼様」

 横で、優斎も頷いている。

「おや、先生も知ってるのかい?」

 それには、笑って手を振り、

「いやいや勿論、実際は知りませんけど、ただ、そう言う時って、絶好の言いたい放題できる場なんだろうなって」

「そうじゃな~。今となっては、少々お気の毒の様な気もするが」

 と、歩きながら、話し合ってると、先頭を歩く、おさよが回りを見ながら、

「お父様? ちょっと人が多いような気がしませんこと?」


 丁度、北町奉行所あたりを過ぎたところから、そう、今で言えば、東京駅から大手門の方向だ。

 おさよは、何やら同じ方向に人が、まるで引き寄せられているような動きに気付いたのだ。

「本当じゃ、これは一体……」

 五人は、急ぎ足で、西の丸下に急いだ。


(2)


 西の丸下、堀沿いの端に着いた一行は驚愕した。

 水野屋敷の周辺からこちらまで、人で一杯なのだ。

「これは……」

 と、甚内も言葉が出ない。

 優斎が、

「吉沢様、田沼様の時にもこんな感じで?」

 甚内は大きく首を振り、

「とても、とても。こんな人数見たこと無いわ、いや信じられん」

「なんか、盆踊りでもはじめそうねぇ」

 などと、笑って言うお華に、おさよも、

「お華ちゃん、面白いこと言うわね」

 ニコニコしている。

 浩太郎は、

「冗談じゃないぞ。こんな所で騒ぎになったら、大変な事になっちまう」


 そう、ここは大名小路と言われ、今でもある馬場先御門あたりから日比谷交差点手前の範囲である。

 集まった人々、その数、数千とも言われる。

 通常ならこれほど人が集まる場所ではない。

 普段はさすがに警備も厳しく、江戸の庶民もそうそう立ち止まって見物出来る所ではない。

 しかし、この時はその様な事気にもせず、民衆が、ぞくぞくと詰めかけている。

 それに加え、先まで到着すると、既に先程から、水野越前守に対する、悪口暴言が飛び交っている。

 その内、その辺の石まで、どんどん屋敷に向かって、投げ込まれる有様になっていた。

 まさに、暴徒化と言ってもよい。

 浩太郎は、

「おい、お華。石投げるの辞めさせろ! 大声でな」

 と、指示を出す。

 すると、お華は、ひょこひょこ人波に入り込み、

「え~、皆さん。石を投げるのお止め下さい、~駄目ですよ~」

 などと、止めるどころか、囃し立てている様にも聞こえる。

「あいつ! やる気無いな!」

 浩太郎は怒るが、優斎は、

「いや~、さすがにお華さんでも無理ですよ。この人数じゃ」

 と、大笑いだ。

 おさよも、

「お華ちゃんが、何本、簪持ってても、どうしようも無いでしょ」

 などと言うから、みんなで笑ってしまう。

 すると甚内が、

「田沼様の時も、結構、騒がれたそうだが、これは、もっと酷い」

「やはりそうですか、父上」

「うむ。あの時は賄賂での御役御免だからな。どちらかと言うと、ざまあみろと、幾らか妬みのような気分も入っていた様に聞いてるが、今回のこれは、まさに憎しみじゃ」

 優斎も、大きく頷き、

「そうでしょうね。田沼様は賄賂政治として、批判を受けましたが、水野様は、民衆を押さえつける事のみ目立ってしまって、まさに敵でしたからな」

近所の武家屋敷は、既に大門を固く閉めており、表には誰も居ない。

 恐らく、屋敷の二階などで、様子を伺っているに違いない。

 さすがに、触らぬ神に祟りなしというところか。


 暫くすると、側の佐助が、向こうを指を指しながら叫ぶ、

「旦那様! 番屋が!」

 なんと集まった民衆は、水野家横にある辻番所を壊し始めたのだ。

 辻番というのは、武家屋敷周辺の辻々に置かれた、今で言う、交番の様なものである。

 さらには、水野邸の不浄門を蹴りつけ、踏み割ってしまった。

 

 さすがに浩太郎は、

「ばかやろう、そんなことしたら、自分たちも罪になるぞ!」

 と叫ぶのだが、そんな言葉は全く届かない。

 やがて、壊した辻番屋は、すべて、横の堀に投げ込まれてしまった。

「あらら……」

 お華も、あまりの事に驚きの顔だ。


 そんな時だった、ようやく、奉行所の連中が民衆鎮撫の為、南の旗を揚げてやって来た。

「ようやく来たか……」

 甚内は、些か安堵したように言うと、お華が、小悪魔の様な笑顔で、

「あいつがきたよ~! 妖怪がとうとう来たよ~!」

 などと叫ぶ。

 浩太郎が慌てて、

「これ! 火に油を注いでどうする!」

 と、叱りつけたが、すでに油が注がれてしまったようで、

「悪党! 悪魔だ! 妖怪だ! あいつが一番の悪党だ!」

 との罵声と共に、更なる石が四方八方から飛ぶ。

「あの馬鹿!」

 浩太郎は言うのだが、他のみんなは腹を抱えて大笑いである。


 そして、おさよが、

「父上。もう戻りましょう。これ以上居ても、お華が喜ぶだけだし」

 さすがに甚内も笑って頷き、一行は、その場から屋敷に戻り始めた。

 浩太郎が、甚内に向かって、

「お父上、私が佐久間様にご報告して参ります」

 そう言って一行から離れると、甚内は、お華達に、

「今夜は、我が家で夕食としよう。先生もお華達も来なさい」

 優斎が、「ありがとうございます」と、深く頭を下げると、お華が嬉しそうに、

「そりゃ良いわ。そうしましょそうしましょ」

 と優斎の袖を引っ張って、ズンズン歩いて行く、

 おさよは呆れながら、

「母上に申し訳無いわね」

 などと言いながら、お華達について行く。


 結局、この騒ぎは九つ(24時)頃、やっと落ち着いた。

 逮捕者66名である。

 番屋など、壊した連中の内、21名が、水野家の中間だというから驚かされる。

 この様な騒ぎの後、水野忠邦など家の者は、数日後の25日頃、こっそり引き上げたらしい。

 あれほど、全てを駆けて筆頭老中になり、念願の改革を発令し、江戸時代、最強の老中になったのに、最後は何とも、空しい幕引きであった。


 しかし、この顛末はこれで終わりではない。

 いや、むしろこれからが本番であった。


 ~つづく~


「白川の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」


 田沼意次は、賄賂政治。と言う批難の中、弾劾を受け、失脚しました。

 しかし、現在では、経済における先進性を評価する意見も出ています。

「賄賂」となるので、悪評がどうしても先行してしまいますが、ただ、この頃の賄賂などは、他にもいくらでもあり、そもそも、政敵、松平定信でさえ、田沼に贈賄していると言われています。

 政治的な批難はあっても、江戸時代の文化を向上させ、あれは駄目、これは禁止と庶民の生活を追い込んだことが殆どない。

 結局、あとあと庶民も気づいたのでしょう。その本質に。


 家宣の政治を変革しようとした水野忠邦の場合、根本は正しかったと言われますが、やはり、やり過ぎた。

 そして、人も悪かった。

 締め付けは、寛政の改革より、さらに過酷だったというから、そりゃ石も投げられます。


 そう、その騒ぎ、そして投石は、本当に大変だった様です。

 町方が、(小説ではお華ですが)投石を止めようとすると、囲んだ連中から、

「石を投げてるんじゃねえ! 俺ら、意趣投げてるんだ!」

 と言われたそうな。

 大したもんです。この時代にまで伝わる言葉を残すなんて。


 さて、これで天保は終わりか?

 と思われているかも知れませんが、とんでもございません。これからが本番。  もう少し、お付き合い願えると嬉しいです。

 よろしくお願いします。

 ありがとうございました。

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