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良和の時間 その2 記憶の時間

「あなた、眠れないの?」

 良和の横で寝ていた沙紀が目を覚まし、話しかけてきた。「うん」と良和は答えたが、君のせいだ、とは言えなかった。

 そんな良和の気持ちを沙紀は見抜いたようだった。

「もしかして、ムラムラしてるの?」

 良和は答えられなかったが、沙紀は肯定と受け取ったようだ。クスッと笑って良和の耳元で囁いた。

「しょうがない人ね。じゃあ……わたしが、スッキリさせてあげるね」

「え?え?」と戸惑う良和に構わず、沙紀がシーツの中に顔を埋め、良和の体に近づいてきた。良和の下半身に沙紀の生暖かい吐息が伝わる。

「あ、え、そんな…………」

 思わず変な声が出る。今まで感じたことのない快感だった。

「沙紀さん……ごめん、もう……ああぁ!!!」


 良和は目が覚めた。夢だった。汗をぐっしょり掻いている。上半身と下半身がバクバク言っていた。

 部屋を見渡すと、沙紀はもう起きて、朝食を作っていた。良和が起きたことに気付いた沙紀がベッドに近づいてきた。あんな夢を見てしまったことが良和には後ろめたく、沙紀の顔をまともに見れなかった。

「あなた、おはよう!どう? 調子は」

「うん、まあまあかな」

 と言いつつも良和にはベッドから起き上がれない事情があった。

「記憶はどう?」

 良和は自分が記憶喪失になっていることを思い出した。昨夜、沙紀と結婚していたことを覚えていなかったのだ。その記憶は……まだ戻らないままだった。

「そっか。じゃあ、今日は会社休んで、病院に行こうね。もうすぐ朝ごはんができるから、今のうちに顔を洗ってきてね」

 沙紀がキッチンに向かうのを見送り、良和はゆっくりと起き上がった。洗面所に向かい、汚れたパンツを脱いで手洗いする。

(こんなこと中学生以来だな……)

 洗ったパンツを風呂の中に干し、着替えると、良和は朝食が待っているテーブルに向かった。朝食のメニューはトースト、目玉焼き、コーヒーとありきたりのものだったが、二人分並べられているのが良和には新鮮だった。


 朝食を済ませると、会社に休みの連絡を入れ、二人は病院に向かった。近所の町医者のようなところだったが、先生の腕はよい。ただ、良和の診察結果はありきたりの「疲労からくる記憶喪失」だった。おそらく一時的なもので、時間が経てば自然と治るでしょうと言われた。昨晩の帰宅中の頭痛のことも伝えてみたが、それも疲労からのものだと一蹴されてしまった。一応精神安定剤のようなものはもらったが、基本的に普段どおり生活していくしかなかった。

 病院の会計時、何故か良和の財布と携帯がなくなっていた。家に忘れてきたようだ。

「いつもならこんなミスしないのに……やっぱ疲れてるんだな」

 とりあえず診察料は沙紀が代わりに清算し、二人はアパートに戻った。

 昼食のパスタを食べながら、良和と沙紀はこれからのことを話し合った。疲れはまだ取れていないが、良和は明日から会社に行くことにした。最近の仕事の内容は覚えてないけど、自分が普段接しているものに触れることで何か思い出せるような気がしたからだ。

「ところで……お風呂に干してあるあなたのパンツだけど……どうしたの?」

良和は返答に窮した。


***


 翌朝。「あなた、気を付けて行ってらっしゃい」と、沙紀がお弁当を持たせてくれて、良和の頬にキスしてくれた。頬にキスされるのもこれが初めてだったので、良和は頬をなでながら通勤電車に乗り込んだ。途中、またあの頭痛が良和を襲ったが、すぐ治まったので、気にせず会社に向かった。


 良和が会社のオフィスに入ると、最初に聞こえたのは「おいコラ!立花!」という課長の怒鳴り声だった。中年でメタボ体形で頭の毛が薄くなっている課長だが、部下の面倒見は意外とよく、理由もなく怒鳴るようなことはしない人だった。

 良和は「課長、どうしたんですか?」と返事をしながら課長の席へを向かった。

「どうしたもこうしたもあるか!昨日、無断欠勤しただろ!」

「いや、ちゃんと会社に連絡しましたけど。課長が電話に出ましたよね?」

「わしゃ知らんぞ」

 事情が呑み込めないまま、良和は昨日のことを課長に話した。記憶喪失になったこと、会社を休んで病院に行ったこと、記憶を取り戻すために今日から出社したこと。記憶がない良和には周りの人の協力が不可欠だった。

「そうか、お前も苦労してるんだな。まあ、できる範囲で自分の仕事を続けてみなさい」

 もの分かりのよい課長に感謝しつつ、良和は自分の席に着いた。ノートパソコンの電源を入れ、まずはメールを見る。それで何か思い出せるかもしれない。最新のメール一覧を表示したところで「あ、あの」と話しかけられたので、良和はその声に振り向いた。

 良和は目を丸くした。

 そこには、伊藤沙紀が立っていた。

「あ、あれー?沙紀さん?」

 良和は思わず立ち上がり、沙紀を指さしながら思わず声を漏らした。

「どうしてここに?今朝まで一緒にいたのに……」

 その言葉にオフィスが一瞬ざわめき、同時に良和を痛烈なビンタが襲った。

 バシン!という音がオフィスに響く。

「失礼ね!わたしはそんなふしだらじゃありません!」

 沙紀はプンプン怒りながら行ってしまった。良和は、痛む頬を左手で押さえながら、訳も分からず席に座り直した。

「お前、すごいこと言うな。昨日伊藤さんと一夜を共にしたのかよ」

 悪友の加藤が机越しに話しかけてくる。

 良和は(共にしたっちゃあしたんだけど)と心の中で思いつつ、加藤のことはとりあえず無視してメールを読み続ける。

 うーん、どうもおかしい。良和に届いているメールの内容は、昨年まで仕事していた内容のものだった。一年間仕事が進んでいないのだろうか、と最新のメールの日付を確認すると、2016年4月11日。2016年??たしか良和と沙紀の結婚写真の日付は2016年9月だった。パソコンや携帯電話のカレンダーを確認しても、今日は2016年4月になっている。

 日付が戻っている?

 念のため送信メールも確認すると、良和が最後に送ったのは、沙紀に頼まれ残業してプログラムを直した時の完了を連絡するメールだった。

「そうだ、お弁当!」

 良和は鞄を開けてみたが、沙紀に渡された筈の弁当箱が入っていなかった。

「どういうこと?……伊藤さんと結婚してたこと自体が……僕の夢か妄想だったってこと?」

 良和は呆然とした。独身に戻ったことに気付き、がっくりと肩を落とし、ため息をついた。

「やっぱりそうだよね……半年後に結婚だなんて、そんな都合がいい話がある訳ないし。やけにリアルな妄想だったけど。やっぱ疲れているんだな、僕」

 良和は、とにかく元の仕事に取り掛かることにした。予定では昨日からテストが始まっているはずだ。僕がいなくても進んでいるんだろうか。メールを再確認しようとして、良和は横に立っている沙紀に気が付いた。手には濡れタオルを持っていた。

「あの……さっきはすみませんでした。急にあんなことを言われたからびっくりしちゃって。これ、使ってください」

 良和は差し出されたタオルを左頬に当てた。少し腫れていたようで、タオルの冷たさが気持ちいい。さっきの良和の暴言については、沙紀はどちらかというと被害者だと思うのだが、こういう沙紀の優しさも良和はうれしかった。

「いや、僕こそゴメン。変なこと言っちゃって。何だか最近疲れているみたい」

 良和は頭を抱えて沙紀に謝った。

「それと、おととい、私のために遅くまで残業していただいたみたいで……どうもありがとうございました!よかったら、これ食べて下さい!」

 沙紀は良和に深々と頭を下げると、小さな袋を差し出した。良和が「ありがとう」と言って袋を受け取ると、沙紀は自分の席に戻って行った。

 袋の中身はチョコレートだった。どうも手作りのようだ。バレンタインデーで義理チョコは貰っているが、良和はそのチョコレートが特別なもののように感じた。

 良和はチョコを食べつつ、モニタを見ながら、チラチラと遠くの席に座っている沙紀の様子を見ていた。あのかわいい子が……ぼくと結婚していただんて……実にいい夢だったなぁ。良和は、自分の妄想に満足しつつ、今日こそはと早めに仕事を切り上げて帰途についた。


***


 良和が自宅に戻ると、おかしいことにまた部屋の電気が付いていた。

「あれれ?あれれ?まさか」と慌ててドアを開ける。待っていたのは「お帰りなさい!」という沙紀の声だった。

「え?え?え?」良和は本当に訳が分からなくなっていた。携帯のカレンダーを再度見ると、2017年4月になっていた。今が妄想中なのだろうか?そんな困惑している良和を、沙紀が不思議そうに見ていた。

「あなた、どうしたの?会社はどうだった?記憶は戻ったの?」

 沙紀の言動は、今朝見送ってもらったときの続きのままだった。姿も声もはっきりしている。良和にはどうしてもこれが妄想のようには思えなかった。2016年の会社、2017年の自宅、どちらも現実なのだろうか?

 そして、良和は一つの仮説にたどり着いた。良和はソファーに腰掛けると、自分の考えを整理しながら、少しずつ沙紀に語りだした。

「沙紀さん、きっと信じられないと思うし、僕も信じられないんだけど、一つ分かったことがある。」

 沙紀は良和と向かいのソファーに座り、うなずいた。

「僕が今日会社に行くと、そこに沙紀さんがいたんだ。去年の、結婚する前の。携帯とかの時計も2016年になっていた。そして、自宅に帰ると、時計が2017年なっていて、結婚した後の沙紀さんがいる。つまり……」

「つまり……?」

 沙紀はゴクリと唾を呑み込んだ。

「僕は……自宅に帰ると、1年後にタイムスリップするみたいなんだ。それで会社に行くと、1年前に戻るんだ」

 案の定、沙紀は信じられないという顔をしていた。良和は構わず話を続けた。

「会社に行く途中、電車がトンネルを通るんだけど、いつもそこで頭痛がするんだ。きっとそのときにタイムスリップしているんだと思う。僕は記憶喪失なんかじゃなくて、1年前の世界からやってきた、タイムトラベラーなんだ。」

「そんな……」

 沙紀は良和の言葉に戸惑っている。こんなSFチックな話を信じられないのも無理はなかった。

「ほら、これを見てごらん」

 良和は少し腫れが残っている左頬を沙紀に見せた。

「これ、一年前の君に叩かれたんだ。会社で」

 沙紀は少し考え込んだが、やがて「思い出した!」と叫んだ。

「一年前、わたし、確かにあなたのこと叩いたわ!」

「でしょ、結構痛かったよ」

「でもそれはあなたが変なこと言うから……じゃあ、タイムスリップって、本当なの?」

「分からない。明日確認するよ。トンネルを通るときに頭痛かするから、その前後で携帯のカレンダーを確認すれば……」

「わたしも一緒に行く!」

「え?沙紀さんも?」

「だって、わたしも確認したいもの。久しぶりに会社にも行ってみたいし」

「よし、じゃあ一緒に行こうか」

 良和は、自分がタイムトラベラーかもしれないという事実にワクワクしていたが、それよりも、結婚が妄想でなかった!という事実が良和の心を躍らせた。

 良和には一つ気になることがあった。2016年の良和がここにいるということは、2017年の良和はどこにいるのだろうか?2016年の、結婚前の良和の家に居るのだろうか?だとすると、2017年の良和は家でも会社でも沙紀に会えないことになるので、少し可哀想な気がした。

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