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良和の時間 その1 出会いの時間

週一ペースで投稿していく予定です。

「ふう、なんとか終わりそうだな」

 メガネのレンズを拭きながら、立花良和たちばなよしかずはつぶやいた。小さなビルの中の会社のオフィスで、目の前のノートパソコンのモニターを見つめながら、開発したプログラムのチェックをしていたところだった。参加しているプロジェクトで明日から大規模なテストが始まるため、プログラムの作成は今日中に終えないといけなかった。

 良和は33歳、中小コンピュータ会社のJ社に勤務する、入社10年の中堅エンジニアだ。プログラムの作成だけではなく、小さなチームのリーダーも任されるようになっていた。プログラムの技術は優秀だが、リーダーとしての能力はそこそこの、よくいるタイプのエンジニアだった。

 時刻は夕方、窓の外も薄暗くなってきた。今日の勤務時間もあとわずかだ。良和の周りには、ぼちぼちと帰り支度を始める人も出始めていた。

「さて、他のメンバーの様子を見ておくか」

 良和は一応リーダーとして、ほかのメンバーのプログラム開発の進捗にも責任を持っている。今朝確認した限りでは皆問題なく進んでいたので、今日の仕事が順調に行っていれば、久しぶりに残業せずに帰れそうだった。週の始まりの月曜から残業するのはできれば避けたかったのだ。

 プロジェクトメンバーは四人。うち、三人分については、プログラムは問題なく完成していることが確認できた。

 残る一人、伊藤沙紀いとうさきの様子を見てみる。

 沙紀は25歳で、入社三年の初級プログラマだ。プログラム技術はまだまだだが、人懐っこい性格で周りへの気配りもうまく、何よりその可愛らしい容姿のため、社内でも人気があった。小柄で清楚で家庭的ということろもポイントが高かった。プログラムの仕方を教えると後でお礼に手作りクッキーを焼いてくれたりした。もし社内で「お嫁さんにしたい女性コンテスト」を開いたら、間違いなく彼女がナンバーワンになるだろう。

 一方の良和は少々オタクっぽい見た目で、人付き合いも苦手。33年間彼女なしの、典型的なモテない男だった。そんな良和なので、メンバーの沙紀のことはもちろん気に入っていたが、自分は釣り合わないと思っていた。仕事で会話できるだけで少しいい気分になるという、まあ器の小さい男だった。

 そんな沙紀の様子だが、傍から見ると少しおかしい。モニタを見ながら眉をしかめていた。

「伊藤さん?調子はどう?」

 良和は沙紀の席の横に立ち、様子を聞いてみた。当たり前のことだが、会社内では名字で呼び合っている。

「あ、立花さん。あの……プログラムはできたんですが、うまく動かなくて……」

 困った顔をする沙紀もやっぱりかわいいが、見とれている場合ではない。こういう時こそ良和のアピールチャンスだった。彼氏にはなれなくても、好印象は持たせたいのだ。

「どれ、ちょっと見せてみて」

 良和はモニターに目を向けながら、さりげなく沙紀に近づく。胸元のハートのネックレスがかわいい。ショートヘアからシャンプーのいい香りがする。もちろん香をかぐのが目的ではないので、モニターの中のプログラムはしっかり見る。マウスを手に取り、ホイールを指でくるっと回すと、プログラムが画面上をスーッとスクロールしていく。それを目で追って、問題がありそうなところを上か順にざっと追ってみた。

「あ、これね」

 プログラムの構造が明らかにおかしいところを発見し、ホイールを回す指を止めた。

「よくありがちなパターンだよ。ここを直せばうまくいくと思うよ。大体2時間くらいで直るから、今日中には終わりそうだね」

 あくまでリーダーとして、今日中にすべてのプログラムが完成しそうなことに良和はほっとした。

「あ、そうなんですね!よかった。……でも」

 沙紀の顔が一瞬明るくなったが、すぐに困った顔になり、壁に掛かっている時計を見上げていた。時刻は五時半。終業時刻だ。

「実は……わたし、今日は予定があって……」

 開発の締切日に予定を入れるというのもいかがなものかと思うが、良和にとってはここは先輩としての度量を見せるいい機会だった。

「あ、そうなんだ。今日中に終わらせたいんだけど……うーん、じゃあ、僕がやっておくよ」

「え、いいんですか?すみません!ありがとうございます!」

 沙紀は立ち上がり、良和に深々と頭を下げた。こういう礼儀正しいところも沙紀の人気の理由だった。良和は後日の沙紀からのお礼をちょっと期待しながら「大丈夫大丈夫」と照れくさそうに頭を掻いた。


「さーて、さくさくっと片付けますか」

 良和は自分の席に戻り、沙紀が担当していたプログラムをモニターに映してみた。「お先に失礼します」と沙紀が良和に声を掻けて部屋から出て行ったところだ。

 しかし、良和がプログラムをもう一度見てみたら、予想外に問題の根は深そうだった。

「うーん、しくじったかな。こりゃ本腰を入れてかからないといけないな」

 しょうがない、まずはコーヒーを一杯飲んでから取り掛かるか、と、良和は給湯室に向かって行った。

 ここのオフィスの給湯室にはお茶やコーヒーが用意されていて、自由に飲むことができるようになっている。良和が給湯室でコーヒーを注いでいると、壁の向こう、隣の女子トイレの出口付近だろうか、女性同士の会話が聞こえてきた。

「あーら沙紀、メイクに気合が入ってるね。今日はデート?」

 沙紀の同僚の高木美樹の声だ。沙紀はトイレでメイクを直していたらしい。良和はデートという単語が気になって、耳をすませた。

「えへへ、まあね」

「お相手はあのイケメンエリート君でしょ?いいなぁ。まあ、がんばってね!ところで仕事は片付いたの?」

「立花さんにお願いしてきちゃった」

「人のいい先輩を利用するなんて、あなたも中々悪女ねぇ」

「違いますー!先輩へのお礼はちゃんと後でしますから!あ、もう行かなくちゃ」

 会話を聞いた良和はしばらく給湯室にたたずんでいた。沙紀くらいの女の子に彼がいても何も不思議ではないが、良和はそれを知ってちょっとショックだった。しかもイケメンエリートとくれば良和にははなから勝ち目はなかった。もしろん彼がいなかったとしても良和が沙紀と付き合える訳ではないのだが。

「あの子はデートで僕は残業か……」

 良和はやる気がそがれたが、ここが沙紀に恩を売るチャンスであることと、リーダーとしての責任感から、ぽつぽつとプログラムの修正にとりかかった。


***


 良和がオフィスを出たのは夜の10時過ぎだった。近くの軽食店で軽く夕食を済ませたためということもあるが、結局いつも通りの帰宅時間になってしまった。こんな時間でもまだ混雑している電車に揺られながら、片道30分ほどの読書時間を過ごしていた。

 良和のオフィスはA市にあり、自宅はB市にある。A市とB市の間には大きな山があるが、トンネルが通っているので、行き来に問題はなかった。A市は都心から電車で1時間ほどのところにあり、中小企業のオフィスが多い。一方、B市は公園や商店街が充実していて、A市のベッドタウンとなっていた。

「イテ!」

 帰宅途中、良和を頭痛が襲った。最近頭が痛くなることがよくあったが、さっきのはいつもよりひどかった。

「……今度医者に行くかな」

 と思いつつも、痛みが治まると結局医者に行くことを忘れてしまう良和だった。


 良和の住んでいるアパートは駅から5分。2LDKと一人暮らしにしては十分広いアパートだが、事情があって格安で借りることができた。そんなアパートの部屋の入口まで来た良和だが、いつもと様子が違っていることに気が付いた。

「あれ?部屋の電気がついている。朝、消し忘れたのかな?」

 窓から部屋の明かりが漏れていた。良和は几帳面な性格なので電気を消し忘れることはあまりないのだが、このごろ仕事で疲れているのでうっかりしていたのかも、と自分で納得して部屋のドアを開けた。

 が、そこには良和の想像していない光景が待っていた。

「お帰りなさい!今日もお疲れさま!」

 良和の目の前に、エプロンをした伊藤沙紀が立っていた。満面の笑顔がまぶしい。良和は自分の目を疑った。

「え?あれ?なんで伊藤さん?何でいるの?」

 良和はキョトンとして沙紀を見ていた。

「え?何でって、ここが私の家だからだけど。何かおかしいの?」

 沙紀の表情が曇る。

「いや、ここは僕の家だけど……」

「だから、わたしたちの家でしょ!あなた何言っているの?」

「わたしたち?」

 良和は訳がわからずに沙紀の顔を見つめた。沙紀も良和の言動に困惑しているようだ。

「あ、分かった!これってドッキリでしょ!加藤の仕業かな?おーい、見ているだろ!」

 加藤というのは良和の同僚で悪友なのだが、この手のいたずらが好きだった。良和は部屋に上がり、部屋中を見まわしながら声を掛けてみた。だが加藤からの返事はなかった。

「伊藤さんも加藤に付き合うことないのに。今日はデートだったんじゃないの?」

「あなた、本当にどうしちゃったの?」

 不安そうな顔で沙紀が良和を見ている。どうも沙紀が良和をだましているようには見えなかった。

 沙紀はサイドボードに飾ってあった写真立てを手に取り、良和に見せた。

「私たち、結婚して一緒に住んでいるでしょ、忘れちゃったの?」

 写真には、黒いタキシードの良和と、純白のウェディングドレスの沙紀が映っていた。幸せそうな表情の写真の中の二人。

 結婚?ぼくと伊藤さんが結婚?良和は写真を見つめながらしばらく考えていた。コラージュには見えない。もし結婚が本当ならこれほどうれしいことはないのだが、やはり良和には信じられなかった。

 ふと、良和は写真に書かれている数字に気付いた。そこには写真を撮った日付が記載されいた。

「2016年……9月??」

 良和は驚いた。良和が知っている今日の日付は2016年4月11日だった。慌ててポケットから携帯電話を取り出し、カレンダーを開くと、そこには2017年4月10日の日付が表示されていた。

「なんで?どういうこと?」

 良和は部屋の真ん中のソファーに座り込んだ。沙紀が水が入ったコップをローテーブルに置いてくれたので、一口飲んだ。

「ねえ、あなた」

 沙紀に声を掛けられても黙っていた良和だが、やがて少し落ち着いたようで、ようやく沙紀に自分のことを話した。

「あのね伊藤さん……沙紀さんって呼ぶほうがいいのかな?正直に話すね。」

 沙紀はこくりとうなずいた。

「僕は今まで今日は2016年4月で、僕は独身だと思っていた。今、今日は2017年4月で、僕たちが去年結婚したことを知った。その間の記憶が…… 僕には全くないんだ。」

「覚えていないの?」

「これって……記憶喪失なのかもしれない。」

 沙紀は少し考えていたが、やがて事情を理解したようだ。

「そうなんだ……あなたこのところ仕事で疲れていたから、そのせいかも。明日になっても記憶が戻らないのなら、お医者さんに行きましょうか」

 沙紀は僕の手を取って、握りしめてくれた。良和の記憶では沙紀と手を繋ぐのは初めてなので、なんだか照れくさかった。握られた手と涙ぐんだ沙紀の顔を交互に見ながら、「うん」と言うのがやっとだった。

「じゃあ、お風呂に入って、今日はゆっくり寝てね」

 沙紀がやさしい顔に戻った。落ち着いて部屋の中を見ると、良和の部屋ではあるのだが、綺麗に整頓されていたり、窓にカフェカーテンが飾られていたり、やっぱり結婚していたというのは本当らしかった。


***


「僕がいつの間にか結婚していたのか……ムフフ」

 湯船に浸かりながら、良和は自分の状況を実感していた。結婚なんてまだまだ先だと思っていたし、女性と付き合う機会もなかったのだが、女性とのラブラブな生活にはずっとあこがれていた。しかもその相手があの伊藤沙紀さんとは!この僕にいったい何があったんだ?と不思議に思いながらも、自然と顔がにやけてしまう良和だった。

 風呂を上がると、脱衣所に洗ったばかりのパジャマが用意されていた。洗面台の歯ブラシも二人分あった。こういう細かいところにも夫婦の証が刻まれているだな、と良和は歯ブラシを握りしめながら感涙していた。

 パジャマに着替え、ベッドへと向かう。このベッドは良和が独身のころから使用していたもので、寝ながらテレビが見られるようにリビングの隅に置いていた。ベッドからキッチンやバスルームのドアまで見渡すことができる。大きめに作られたベッドなので、二人で寝るのにも十分だ。他にベッドのようなものはない……ということは、やっぱり二人で一緒に寝ていたのだろうか。

 良和はふと気になった。実のところ、独身時代の良和は女性との交際経験がなく、風俗にも行ったことがなかった。つまり女性との行為が未経験だった。キスすらしたとこがなかった。沙紀と結婚していたということは、やはり夫婦生活があり、良和は知らないうちに経験済みになっていたということだろうか?

「あの……沙紀さん?聞いてもいいかな?」

「なあに、あなた」

 沙紀は洗い物をしていた手を休めて、タオルで手を拭きながら、良和のそばに寄ってきた。改めて見ると、エプロン姿の沙紀は新鮮で、良和をドキッとさせた。

 良和は思い切って沙紀に聞いてみた。

「僕たち……夫婦なんだよね。ということは、やっぱ……夫婦の営みは……あったのかしらん?」

 たちまち沙紀の顔が赤くなった。

「やだぁ、あなた!……あの……その……」

 照れながら答える沙紀の言葉はだんだん小さくなっていったが、末尾の言葉を良和は聞き逃さなかった。

「……当たり前じゃない」

 良和は感動で涙が出そうになった。苦節33年、ついに女性を経験することができたのだ。記憶はなかったが、結婚しているのだからこれから何度でも体験することができる。良和はここぞとばかりに踏み込んだ。

「じゃぁ、あの……その……今日も……いいかな?もしかしたらそれで記憶が戻るかも……」

 最後の取って付けたような理由は照れ隠しだった。女性をそういう行為に誘うのは良和にはもちろん初めてだったので、これでも勇気を振り絞って出した言葉だった。沙紀は頬を赤らめて、照れくさそうに答えた。

「あなた、疲れているんじゃないの?でも……」

「……でも?」

「……いいよ」

 最後の「いいよ」は良和の耳元で囁かれた。沙紀は「待っててね」と言って、洗い物を片付けると、バスルームへ消えていった。

 良和は緊張でコチンコチンになっていた。うまくできるだろうか……シーツにくるまりながら、良和の心臓のバクバクが止まらなかった。風呂からシャワーの音がする。扉の奥にに一糸まとわない沙紀がいて、やがてこちらにやってくるのだ。

 良和にはたぶん、1時間後くらいに感じられたが、実際は10分後くらいだろうか。沙紀がバスルームのドアを開けて出てきた。かわいいオレンジのパジャマを着ていた。どうせ脱ぐなら着なくてもいいのに、と良和は思ったが、脱がせる楽しみもあるかもといいように解釈した。沙紀の肌は湯気立っており、とても色っぽかった。

 ただ、沙紀の口から良和に発せられた言葉はとてもがっかりするものだった。

「ごめんね……あの日になっちゃった。また今度ね」

 肩透かしを食らった良和は、硬直してしばらく動けなかった。

 沙紀は申し訳なさそうな顔をしつつ良和のいるベッドに入り、「じゃ、おやすみ」とシーツをかぶってしまった。

(このもやもや……どうしたらいいの?)

 蛇の生殺しとはまさにこのことだ。初めての経験を待っていた良和のすぐ横に沙紀が寝ている。自分で発散……も考えたが、沙紀に気付かれたら非常に気まずい。とにかく、その夜良和は寝ることができなかった。


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