二話
潮風が吹くと、錆びたトタン屋根が乾いた音を立てた。
アトリエに葵が通うようになって、半月が過ぎていた。放課後になると、葵はランドセルを部屋の隅に放り出し、慣れた手つきでスケッチブックを開く。蓮は部屋の端で文庫本を広げながら、耳だけでその鉛筆の音を聞いていた。
サッ、サッ、と規則的な音が部屋に満ちる。
「蓮さん、見て」
声に顔を上げると、葵がスケッチブックを掲げていた。そこに描かれていたのは、歪な楕円と、そこから伸びる不揃いな線。
「……なんだ、これは。じゃがいもか?」
「パンだよ。今日、給食で出たの」
「パンにしては固そうだな。もっと柔らかいものは、線を優しく丸く引くんだ」
蓮は吐息をつき、文庫本を置いた。床に膝をつき、葵の隣に座り込む。左手に鉛筆を持ち、紙の端に小さな円を描いてみせる。
「ほら、端の影を少しだけ濃くすると、そこに空気と重みができる」
「ほんとだ。ふっくらした」
葵の瞳が小さく輝く。その表情を見るたび、蓮の胸の奥で固まっていた冷たい塊が、少しずつ溶けていく感覚があった。
右手は相変わらず動かない。指先を曲げようとすると、肘のあたりに鈍いシビれが走るだけだ。だが、左手で引く拙い線に対して、蓮は以前ほどの強い拒絶を感じなくなっていた。
「蓮さんは、どうして絵を描かなくなったの?」
唐突な問いだった。葵は鉛筆を動かしたまま、なにげない風を装って尋ねてきた。
蓮の左手が止まる。部屋の空気が一瞬だけ重く沈んだ。
「……手が、壊れたからだ」
「事故?」
「そうだ。大事な手が動かなくなって、描きたいものが描けなくなった」
葵は描く手を止め、自分の小さくて少し汚れた手を見つめた。それから、蓮の動かない右手にそっと視線を落とす。
「……手、痛むの?」
「痛くはない。ただ、思い通りにならないだけだ。描けないなら、画家でいる意味もない」
突き放すような言い方になった。だが、葵は怯える風もなく、静かに 首を横に振った。
「私、蓮さんの描く線、好きだけどな。右手じゃなくても、すごく優しい」
そう言って、葵は自分のスケッチブックの余白に、小さな小さな蓮の顔の落書きを描き足した。眉間にしわを寄せた、不機嫌そうな男の顔だ。
「似てない」
「そっくりだよ」
葵が初めて、くすりと小さく笑った。その笑顔を見たとき、蓮は彼女の頬にうっすらと残る、黄色く変色した古いあざに気づいた。
「葵」
「なに?」
「……お前は、どうして家に帰りたくないんだ」
踏み込んではいけないラインだと分かっていた。だが、問いかけずにはいられなかった。
葵の笑顔がすっと消え、鉛筆を握る指にギュッと力が入った。紙に不自然な濃い線が残る。
「……お母さんね、新しいお父さんになるかもしれない人と、ずっと喧嘩してるの」
「……」
「私が部屋にいると、『鬱陶しい』って言われる。外にいる方が、お母さんたちも都合がいいみたいだから」
葵は淡々と、まるで他人の話をするように語った。怒るでもなく、泣くでもなく、ただ諦めきった声だった。
「だから、ここにいるときだけが、呼吸できる感じがするの」
蓮は言葉を失った。自分は右手を失った絶望で、世間から逃げ出していた。だが目の前の少女は、帰るべき場所そのものを奪われ、追い詰められていた。
蓮は震える左手を伸ばし、葵の頭の上にそっと置いた。無骨で、なんの慰めにもならないかもしれない手。それでも、撫でるようにゆっくりと動かした。
葵は驚いたように目を見開き、やがてゆっくりと目を閉じて、蓮の手に頭を預けてきた。
「……明日も、来ていい?」
「……ああ。絵の具の溶かし方くらいは、教えられる」
その日の帰り際、夕暮れの街並みへ戻っていく葵の背中は、いつもより少しだけしゃんと伸びているように見えた。
蓮は部屋に戻り、部屋の隅に追いやっていた古いパレットを引き寄せた。
埃を払い、キャップが固まった絵の具チューブを左手で固く握りしめる。
自分にできることなど、何もないのかもしれない。この少女を救う力も、未来を与える力もない。
だが、このアトリエにいる時間だけは、彼女にとっての「光」でいたい。
蓮は左手に筆を持ち、誰もいないキャンバスに向かって、一筋の力強い線を引いた。




