三話
トタン屋根を叩く雨音が、アトリエの静寂を際立たせていた。
葵が部屋に通うようになって、一ヶ月が経とうとしている。しかし、二人の間に交わされる言葉は驚くほど少なかった。
蓮は決して葵のプライベートに踏み込もうとせず、葵もまた、蓮の失われた右手について深く尋ねることはしない。互いに重い傷を抱えていることを察しているからこそ、触れ合えば相手を傷つけてしまうかもしれないという、ガラス細工を扱うような慎重な距離を保っていた。
その日、葵はスケッチブックに向かったまま、一度も鉛筆を動かしていなかった。
膝の上にスケッチブックを広げ、ただ白紙をじっと見つめている。蓮は離れた場所で不器用な左手で木炭を握り、デッサンの練習をしながら、視線だけを葵に向けた。
「……描かないのか」
蓮が低く問いかけると、葵はハッとしたように肩を跳ねさせた。
「……うん。何を描けばいいのか、わからなくなっちゃって」
葵の声は、雨音に消えてしまいそうなほど小さかった。その横顔には、いつも以上に濃い影が落ちている。制服の袖口から覗く手首には、新しく作られた小さな赤い痕があった。
蓮は胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
問い詰めたい衝動が走る。『その傷はどうした』『家で何があった』と。
だが、蓮は踏みとどまった。社会から逃げ出し、自分一人すら救えない男が、軽率に彼女の絶望に踏み込む権利などない。自分が伸ばした手が、彼女にとって本当の救いになるのかという恐怖が、蓮の足をすくませていた。
蓮は無言のまま立ち上がり、部屋の隅の棚から、固くなりかけた古い絵の具のチューブをいくつか引っ張り出した。そして、葵の前に腰を下ろす。
「描くものが決まらないなら、色だけ混ぜてみろ」
蓮は左手でパレットを持ち、青と黄色の絵の具を落とした。慣れない左手は細かく震え、筆の先がパレットの上で泳ぐ。
「……蓮さん、手が震えてる」
「左手だからな。うまく扱えない」
蓮は苦笑混じりに呟いた。
「昔は、ミリ単位の線も完璧にコントロールできた。でも今は、自分の手なのに遠い場所にあるみたいだ。……本当は、描くのが怖い」
初めて、蓮は葵に自分の内にある「恐怖」を口にした。
葵は目を丸くし、それからそっと自分の小さな手を伸ばした。だが、蓮の手に触れる手前で、ピタリと動きを止めた。
『私なんかが触れていいのだろうか』という迷いが、少女の指先に表れていた。
二人の手が、わずか数センチの距離を挟んで空中にとどまる。
互いを傷つけたくないという優しさが、目に見えない壁となって二人を隔てていた。
「……私も、怖いよ」
葵は伸ばしかけた手を静かに自分の膝の上に戻し、視線を落とした。
「家に帰るのも怖いし、明日が来るのも怖い。でも……ここに来ると、蓮さんが静かに絵を描いているのを見ると、少しだけ息ができるの。蓮さんが無理して私の秘密を聞こうとしないのも……分かってる」
葵の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ち、パレットの上の青い絵の具に落ちた。
「……だから、約束して。私がここに来られなくなっても、私のために怒ったりしないで。蓮さんは、蓮さんの絵を描いて」
それは、もうすぐ破綻を迎えるであろう自分の日常を予感しているかのような言葉だった。自分に関わることで、蓮に迷惑をかけたくないという葵なりの健気で切ない「線引き」だった。
蓮は固く唇を噛みしめた。
本当は、葵の小さな肩を抱きしめて「ここにいていい」と言いたかった。しかし、自分が与えられる気休めの優しさが、彼女の過酷な現実を何も変えられないことも分かっていた。
「……馬鹿野郎」
蓮は掠れた声で呟き、パレットの上の絵の具を、左手の筆で力強く混ぜ合わせた。
黄色と青が混ざり合い、鮮やかな深い緑色へと変わっていく。
「お前が来なくなったら、俺は困る。……教えた絵の続きを、誰に見せればいい」
不器用な、あまりにも遠回りな言葉。
それが、蓮にできる限界の歩み寄りだった。
葵は涙を拭い、小さく、本当に小さく頷いた。
二人の距離は、まだ縮まりきらない。互いの傷に直接触れることもできない。
しかし、その絶妙な距離感の中にだけ存在する、静かで確固たる「信頼」が、確かにアトリエの中に満ちていた。
その直後——静寂を切り裂くように、アトリエの古い扉が外側から激しく叩かれた。
二人の保っていた微かな平穏が、一瞬にして打ち砕かれる音が響き渡った。




