一話
絵の具の匂いに、まだ吐き気がした。
港町のはずれにある古い木造の借家。その一室で、神島蓮は座り込んでいた。足元には、埃をかぶったキャンバスと、キャップの固まった油絵の具のチューブが散乱している。
右手を持ち上げてみる。指先を丸めようと意識しても、麻痺した神経は鈍い痺れを返すだけだった。二年前の事故。新進気鋭の画家と持て囃されていた蓮の時間は、その瞬間に止まった。ミリ単位の線を描き分け、キャンバスに生命を吹き込んでいた右腕は、今や重い肉の塊にすぎない。
「もう、終わりだ」
声に出すと、部屋の虚無がそれを飲み込んだ。蓮は外界との関わりを断ち、潮風で湿った暗い部屋で、ただ死を待つように時間を潰していた。
その日、外は激しい雨だった。
トタン屋根を叩く雨音に混じって、玄関の軒下から小さな水音が聞こえた。気になって重い腰を上げ、引き戸をわずかに開ける。
そこに、一人の少女がうずくまっていた。
泥のついた服、雨に濡れて濡れ鼠のようになった髪。抱え込んだ膝の中に顔を埋め、ガタガタと震えている。
「……おい」
蓮が声をかけると、少女は弾かれたように顔を上げた。大きな目が、怯えと警戒で揺れている。どこかで見た顔だった。近所の小学校の制服。だが、その腕には薄暗い雨の中でもわかるほど明確な、痛々しい紫色のあざがあった。
「立ち去れ。ここには何もない」
冷たく言い放とうとした蓮の耳に、グウ、と派手な腹の鳴る音が届いた。少女は耳まで赤くし、ぎゅっと唇を噛みしめた。
蓮はため息をついた。自分自身すら救えない男が、他人に関わる理由などない。そう思いながらも、なぜか引き戸を広く開けていた。
「……入れ。温かいスープならある」
それが、高木葵と蓮の、最初の出会いだった。
葵は何も語らなかった。家はどこなのか、そのあざはどうしたのか。
コンソメスープを貪るように飲み干すと、葵は小さく「ごちそうさま」とだけ呟き、雨が止むと逃げるように去っていった。
だが翌日も、その翌日も、放課後の時刻になると葵はやってきた。
蓮は追い払うこともせず、ただ部屋の隅で静かに過ごすことを許した。居場所がない者同士の、奇妙な同居生活だった。
ある日、葵が部屋の隅に転がっていたスケッチブックとデッサン用の鉛筆を見つけた。
葵は床に座り込み、夢中で鉛筆を走らせ始めた。
蓮は興味なさげにそれを眺めていたが、やがて目を奪われた。
描かれていたのは、黒い渦のような線と、その中心で小さく光る黄色い丸。技術など欠片もない、幼い落書きだ。しかし、そこには圧倒的な「切実さ」があった。言葉にできない痛むほどの感情が、紙を突き破らんばかりの筆圧で込められていた。
「……線の引き方がなってない」
蓮は思わず呟いていた。葵が振り返る。
蓮は左手で予備の鉛筆を拾い上げた。慣れない左手は震え、ぎこちない。それでも、蓮は葵のスケッチブックの余白に、すっと一本の線を引いて見せた。
「影を描くときは、黒を塗るんじゃない。光がどこから当たっているかを考えるんだ。お前が見ている世界を、そのまま置けばいい」
葵の目が丸くなった。
「蓮さん……絵、描けるの?」
「描けないよ」蓮は動かない右手をポケットに隠した。「昔、描けただけだ」
「嘘だ。すごく綺麗な線」
その日から、二人の関係が変わった。
蓮は左手で不器用ながらも絵の基本を教え、葵は貪欲にそれを吸収した。
「今日ね、学校で誰も話しかけてくれなかった」
「そうか」
「でも、グラウンドの隅に咲いてた花が、すごく綺麗だった」
「じゃあ、明日はその花を描いてみろ」
ぽつり、ぽつりと葵が漏らす言葉を、蓮は静かに拾い上げた。かつて完璧な技法に囚われていた蓮にとって、葵の描く純粋な感情のスケッチは、失われた「描く理由」を思い出させるものだった。
言葉を交わさずとも、アトリエの空気は少しずつ温かさを増していった。
悲劇は唐突に訪れた。
一ヶ月ほどが過ぎた夕暮れ、葵が顔に新しい傷を作って飛び込んできた。息を荒げ、肩を揺らしている。
「葵、どうした!?」
「……もう、家に帰りたくない。お母さんも、お母さんの友達も、私のこといらないって。学校も嫌だ。お願い、蓮さん、私をここに置いて! 弟子にして!」
葵は蓮の服の袖を必死に掴んだ。その瞳に溜まった涙がこぼれ落ちる。
その時、玄関の引き戸が激しく叩かれた。
「葵! 葵、いるんでしょ!」
ヒステリックな女性の叫び声と、複数の足音。警察官を伴った葵の母親だった。
扉が開け放たれ、薄暗いアトリエに警察官たちが踏み込んでくる。
「あなた、この子を連れ去って何をしているの!?」
「ち、違います、私はただ——」
蓮が弁明しようとした時、警察官の視線が部屋に散らばるスケッチブックや、幼い少女と二人きりで過ごしていた状況に向けられた。その冷ややかな軽蔑の目に、蓮の心が凍りついた。
自分は社会から弾き出された、壊れた人間だ。職もなく、手も動かず、世間から見れば「怪しい男」でしかない。こんな自分が、この子の救いになれるはずがないのだ。
「葵、帰りなさい」
蓮は声を絞り出した。
「嫌だ! 蓮さん、助けて! 嫌だ!」
警察官に抱え上げられた葵が、必死に手を伸ばす。
蓮はその手を握り返すことができなかった。動かない右手を固く握りしめ、ただ目を伏せた。
引き剥がされる悲鳴。遠ざかる足音。
そして、アトリエには再び、耐えがたい静寂だけが残された。
蓮は床に崩れ落ちた。
「……結局、俺は誰も救えない。絵すら描けない、ただの廃人だ」
数日が過ぎた。蓮は水すら飲むのを忘れ、真っ暗な部屋で横たわっていた。
風が吹き込み、部屋の隅に溜まっていたゴミがカサリと音を立てた。
その中に、一枚の紙くずが混ざっていた。葵が連れ去られた日、破れて落ちたスケッチブックの切れ端だった。
蓮は這い寄るようにして、その紙を拾い上げた。
そこに描かれていたのは、一人の男の姿だった。
動かない右手で顔を覆い、暗闇の中で佇む蓮の姿。そして、その男の背後から、小さな手が二つ、優しくその背中を抱きしめていた。
絵の端に、震える文字でメッセージが添えられていた。
『れんさんの絵が、わたしの暗い世界をあかるくしてくれた。ありがと』
「……あ」
蓮の喉から、掠れた声が漏れた。
胸の奥で、カチリと音がした。塞ぎ込んでいた感情の堤防が崩壊し、熱い涙がボロボロと溢れ出した。
救われていたのは、自分の方だったのだ。
彼女は自分の描く絵に、自分の存在に、光を見出してくれていた。それなのに、自分は傷つくのを恐れて、また逃げ出したのか。
「まだ……終わってない」
蓮は震える左手を伸ばし、埃をかぶったパレットを掴んだ。
固まった絵の具を削り落とし、新しい絵の具を絞り出す。赤、黄、青、白。
左手に筆を握る。手が激しく震える。恐怖が全身を駆け巡る。うまく描けないかもしれない。無様な線しか引けないかもしれない。
だが、そんなプライドはどうでもよかった。
「描け……動け……!」
蓮は叫びながら、キャンバスに筆を叩きつけた。
右手で描いていた頃の繊細なテクニックはない。線は太く、歪み、絵の具は飛び散った。だが、そこには蓮の魂のすべてが叩きつけられていた。夜を徹して、左手一本で、キャンバスに命を削り出していった。
翌朝。児童相談所の職員に伴われ、遠くの施設へ移送されるための車に乗せられようとしていた葵は、虚ろな目で地面を見つめていた。
「葵!」
朝もやを切り裂いて、叫び声が響いた。
振り返った葵の目が大きく見開かれる。
そこにいたのは、全身絵の具まみれになり、息を荒げた蓮だった。
手には、まだ乾いていない大きなキャンバスを抱えている。
「な、なんですかあなた! 邪魔をしないでください!」
職員が立ちはだかろうとする。蓮はそれを押し切り、車の窓越しに、葵の目の前へキャンバスを突きつけた。
「葵! 見ろ!」
そこに描かれていたのは、圧倒的な「光」だった。
泥臭く、荒々しい左手の筆致で描かれた、嵐の中で力強く咲き誇る一輪の青い花。周りの暗闇を切り裂くように、鮮烈な色彩がキャンバス全体から放たれていた。
過去の繊細な神島蓮の絵ではなかった。傷つき、絶望を知った男が、左手だけで辿り着いた「本当の絵」だった。
「俺は逃げた! お前を庇うこともできなかった情けない奴だ!」
蓮は涙と絵の具でぐちゃぐちゃになった顔で、叫んだ。
「でもな、お前がくれた言葉は本物だった! 俺の絵は、まだ死んでない! お前が教えてくれたんだ!」
葵は車の中から、食い入るようにその絵を見つめた。ぼろぼろと大粒の涙が目からこぼれ落ちる。
「お前がどこへ行こうと、どんな暗闇に落とされようと関係ない! お前は自分の世界を、自分の手で描ける! 俺が証明してやる! だから——絶対に諦めるな!!」
職員に阻まれ、蓮は地面に押し伏せられた。
ゆっくりと走り出す車。窓から身を乗り出した葵が、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、必死に手を振っていた。
「蓮さん! 私、描くよ! ずっと描くからね!!」
その声は、朝の港町に高く響き渡った。
地面に伏せたまま、蓮は走り去る車を見送った。麻痺した右手が、心なしか温かかった。
それから、五年が経った。
都内の小さなギャラリーで、一人の画家の個展が開かれていた。
壁に並ぶ作品群は、どれもダイナミックで荒々しく、しかし見る者の心を激しく揺さぶる圧倒的な光に満ちていた。
「左手の画家」として、再び歩み始めた神島蓮の個展だった。
会場は多くの人々で賑わっていたが、蓮は入口の近くで立ち止まり、ある一枚の絵の前に立っている人物を見つめていた。
制服を着た15歳の少女。
背が伸び、少し大人びたその少女は、新品のスケッチブックを大切そうに抱えていた。
少女が振り向く。
二人の視線が交差した。
言葉はなかった。長い年月と離れていた距離を埋めるような会話は、今の二人には必要なかった。
少女は抱えていたスケッチブックを少しだけ掲げて見せ、胸を張って、最高の笑顔を浮かべた。
蓮もまた、静かに微笑み返し、力強く頷いた。
窓から差し込むやわらかな光が、二人の未来を明るく照らしていた。




