第9話:不器用な男の、100点満点の筋の通し方
「――それでは、本日の定例会は以上とさせていただきます。皆様、本当にお疲れ様でした」
プレジール・ファニチャーの本社会議室。
プロジェクト発足から数ヶ月、ついに「プレミアムラウンジ」に配置するすべての特注家具の最終モックアップ(試作品)の承認が下りた。
あとは来月のオープンに向けて量産と搬入を進めるだけという、プロジェクトの最大の山場を越えた瞬間だった。
「いやあ、素晴らしい出来栄えだ。帝都設計さんの空間デザインと、我が社の家具の強みがこれ以上ない形で融合している」
プレジール側の役員が、満足そうに資料を閉じながら笑顔を見せる。
会議室の空気が一気に弛緩し、両社のスタッフたちが「お疲れ様でした!」と言い合いながら片付けを始める中、瀬尾航平はすっと背筋を伸ばしたまま、立ち上がらなかった。
「……プレジール、帝都設計、両社の責任者の皆様。本日、プロジェクトが大きな一区切りを迎えたこのタイミングで、私から一つ、個人的なご報告と謝罪がございます。少しだけ、お時間をいただけないでしょうか」
航平の低く、よく通る声が会議室に響く。
その引き締まった表情に、退室しようとしていた両社の役員や部長たちが足を止め、再び席に戻った。
紬は隣の席で、思わず息を呑む。
(航平くん……まさか、ここで……?)
会議室に残ったのは、プレジール側の開発部長と担当役員、そして帝都設計側の統括責任者の計5名。
航平は一同を見回すと、椅子から立ち上がり、これ以上ないほど綺麗に、深く頭を下げた。
「皆様にご報告があります。私、瀬尾航平は、プレジール・ファニチャーの緒方紬さんと、数日前から個人的なお付き合いを始めさせていただきました」
「え……っ!?」
プレジールの女性部長が驚きの声をあげる。会議室が一瞬にして、張り詰めた沈寂に包まれた。
数日前、あの合同会議の場で元彼・浅井拓海が放った「私的な関係からスタートした公私混同の不正」という言葉が、一瞬だけ大人たちの脳裏をよぎったのが分かった。
航平は頭を上げると、真っ直ぐに大人たちの目を見据えた。その瞳には、一瞬の揺らぎも、やましさもなかった。
「……浅井氏に指摘されるまでもなく、僕と緒方先輩――緒方さんが大学時代の先輩後輩であることは事実です。そして、僕が彼女に、学生時代から個人的な好意を抱き続けていたことも、事実です」
「瀬尾くん、それは……」
帝都設計の統括責任者が、苦言を呈しようと口を開きかける。しかし、航平はそれを毅然とした態度で制した。
「ですが、これだけはプロのプライドを懸けて誓います。僕が今回のプロジェクトのパートナーにプレジール・ファニチャーを選び、緒方さんを指名したのは、付き合いたいからというような不純な理由では決してありません。一人の建築デザイナーとして、彼女の仕事に対する誠実さ、そして『シルフィ・シリーズ』を生み出した圧倒的なプランニング能力をリスペクトし、このプロジェクトの成功に『絶対に不可欠だ』と判断したからです」
航平の言葉には、部屋の空気を震わせるほどの凄まじい熱量と、論理的な説得力があった。
「事実、本日承認された最終プランは、僕のチームの要求をすべて満たし、予算内での最高クオリティを実現しています。これは、緒方さんがプロとして僕の妥協のないデザインに正面から応え、時にそれ以上の価値を提案してくれたからこそ、辿り着いた結果です。僕たちの間に、仕事上の甘えや公私混同による手抜きは、ただの1ミリも存在しません」
航平は一呼吸置き、今度は紬の方を優しく、けれど誇らしげに見つめた。
「僕は、プロとしての緒方紬を心から尊敬しています。だからこそ、浅井氏のような下劣な邪推によって、彼女の血の滲むような努力と、プレジールさんの誇りが傷つけられることが、どうしても許せなかった。公私の順序を違え、プロジェクトに不義理を働くような真似は、絶対にいたしません。それを証明するために、本日、すべての仕様が公式に承認されるこの瞬間まで、自分の気持ちを伝えることも、交際を申し込むことも、一切を断ってきました」
そこまで一気に言い切ると、航平はもう一度、深く深く頭を下げた。
「筋を通すのが遅くなり、大変申し訳ありませんでした。仕事としての責任は、必ずオープン当日まで完璧に全うします。……ですから、どうか、僕が彼女の恋人になることを、認めていただけないでしょうか」
不器用なほどに真っ直ぐで、あまりにも誠実な交際宣言。
会議室は、数秒間、水を打ったように静まり返った。
やがて、プレジール側の厳しい女性部長が、ふっと小さく吹き出した。
「ふふ……本当に、不器用で、熱い男の子ね、瀬尾さんは」
「部長……」
紬が恐る恐る顔を上げると、部長は優しい目で紬と航平を見ていた。
「浅井君が騒ぎ立てたとき、私も少しだけ心配したわ。でもね、瀬尾さん。この数ヶ月、あなたがどれだけミリ単位の修正を我が社に求め、緒方さんがそれに対してどれだけ夜遅くまで図面とにらみ合っていたか、私は一番近くで見てきたのよ」
部長は隣の担当役員に視線を送る。役員もまた、穏やかな笑顔で頷いた。
「これだけお互いに容赦なくクオリティをぶつけ合っておいて、公私混同なんて言う奴がいたら、それこそ節穴だよ。上がってきたモックアップが、何よりの証明だ。帝都設計さん、うちの優秀な社員を、ずいぶんと高く評価してくれているようだね?」
帝都設計の統括責任者も、肩をすくめて笑った。
「まったく、うちの若手エースがこれほど熱弁を振るう姿は初めて見ましたよ。瀬尾くん、君がそれほどまでにリスペクトするお相手なら、我々としても文句のつけようがない。……仕事でこれだけの完璧な結果を出したんだ。プライベートくらい、大手を振って応援させてくれ」
「皆様……ありがとうございます!」
航平の顔に、今日一番の、少年のような眩しい笑顔が咲いた。
横に座る紬の目から、じんわりと涙が溢れそうになる。
元彼には「見た目を整えるだけの楽な仕事」だと、自分の存在価値ごとすり減らされ続けた。だけど今の彼女の隣には、自分の仕事を、自分の生き方を、大人の社会のど真ん中で、ここまで堂々と誇ってくれる人がいる。
チーン、と心の中のカウンターが、鼓動が止まるほどの音を立てて跳ね上がった。
『大人の男としての、100点満点以上の筋の通し方(+1000000点)』
会議室を出た後、誰もいないエレベーターホールで、航平がホッとしたように壁に寄りかかった。
「……あー、死ぬほど緊張した。コンペのプレゼンより心臓がバクバクしました……」
「ふふ、お疲れ様。航平くん、すっごく格好よかったよ。ありがとう」
紬がそっと手を伸ばすと、航平はその手をぎゅっと、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。
「これで、もう誰にも文句は言わせません。仕事が終わったら、堂々と先輩をデートに誘えます」
「うん。もう『居残り練習』じゃなくて、本当のデートだね」
見つめ合う2人の前に、いよいよプロジェクトの集大成、そして2人の未来の幕開けとなる「オープン当日」が迫っていた。




