第10話(最終話):減点なし、加点だらけの恋人たち
「うわぁ……凄い。本当に、できちゃったんだね」
落成式を翌日に控えた、グランドオープン直前の複合商業施設。最上階に位置する『プレミアム・コワーキングラウンジ』の中央で、紬は呆然とその空間を見上げていた。
大きなガラス窓から差し込む夕日が、柔らかなグラデーションを描いて床に落ちている。その光の中に整然と、けれど温かみを持って並んでいるのは、紬が血の滲むような思いで型を起こし、航平と共にミリ単位の修正を重ねてきた特注のチェアたちだった。
「はい。僕たちの最高の作品です、紬先輩」
背後からかけられた愛おしい声。振り返ると、仕立ての良いスリーピーススーツに身を包んだ航平が、かつてないほど誇らしげな笑みを浮かべて立っていた。
「航平くん、本当に綺麗。ファブリックの織り目を粗くしたおかげで、夕日が椅子の背もたれを綺麗に透過して、影が全然カチッとしてない。床に落ちる影まで、本当に木漏れ日みたい」
「先輩が僕のワガママに付き合って、工場と何度も掛け合ってくれたおかげです。見てくださいよ、さっきプレジールの部長さんもここに来て、『うちの緒方がここまで完璧な仕事を仕上げるとはね』って、すごく鼻を高くしてましたよ」
「ふふ、部長が? 嬉しいな」
紬が愛おしそうにチェアの肘掛けを撫でていると、航平がその隣にすっと寄り添い、ポケットから1通の封筒を取り出した。
「あ、そうだ。先輩、これ。帝都設計の受付に届いてたみたいなんですけど、プレジールさんの方にも同じものが届いてますよね?」
「え? なにこれ」
受け取った封筒の差出人の名を見て、紬は思わず眉をひそめた。
『浅井拓海』――あの合同会議で完全論破され、会社を追い出された元彼の名前だった。
「……浅井さんからの、直筆の謝罪文です。どうやらあの後、うちの役員とプレジールさんの上層部から、彼の会社に正式な抗議文が入ったらしくて。会社での立場が完全になくなって、地方の営業所に左遷されることが決まったそうです。それで、最後に僕たちに許しを乞うために、これを……」
紬は封筒を開けることもせず、近くのゴミ箱の上で手を止めた。
「読まなくていいよね」
「え?」
「あの人の言葉は、もう私の心には1音も響かないから。点数はとっくに0点。ううん、もうカウンターごと消えちゃった。だから、読む時間すらもったいないよ」
ぽい、と紬が封筒をゴミ箱に落とすと、航平は一瞬驚いたように目を見開き、それから心底嬉しそうにクシャッと顔を綻ばせた。
「……最高です。やっぱり先輩は、格好いいな」
「もう、からかわないでよ」
2人は顔を見合わせて笑った。かつて5年間という時間を費やし、自分をすり減らし続けた過去の男への未練は、この美しい空間の中に跡形もなく消え去っていた。
◇
数時間後、関係者向けのレセプションパーティーも無事に終了し、夜の11時を回った。
静まり返った施設のロビーを抜け、2人は大学時代によく歩いた、あの懐かしい並木道を歩いていた。
街灯の光がアスファルトに長い影を落とす中、航平は当然のように紬の左側、車道側を歩いている。
「ねえ、航平くん。今日で本当に、ひと段落だね」
「そうですね。明日からはもう、一般のお客さんがここを埋め尽くします。僕たちの手が離れて、あの空間が動き出すんです」
航平は少し寂しそうに、けれど満足そうに夜空を見上げた。
「なんだか不思議。数ヶ月前までは、結婚式で最悪な再会をして、この先どうなるんだろうって不安だったのに。航平くんが私の前に現れて、強引に仕事のパートナーにされて……気づいたら、こんなに素敵な場所に連れてきてもらっちゃった」
「強引だなんて人聞きが悪いですよ。僕はいつだって命懸けで、大真面目に先輩を口説きに……じゃなくて、商談に行ってたんですから」
「ふふ、知ってるよ。会議室での交際宣言、今思い出しても心臓がバクバクしちゃう。あんな筋の通し方する人、世界中で航平くんだけだよ」
紬が微笑みながら横顔を見つめると、航平は不意に足を止め、紬の前に回り込んでその両肩を優しく掴んだ。
「先輩。並木道の真ん中で言うのもなんですけど……仕事のパートナーとしての義務は、今日で完璧に果たしましたよね?」
「うん。100点満点、うつって120点満点の成果だったよ」
「じゃあ、ここからは、プライベートの話をさせてください」
航平の目が、すっと真剣な大人の男のそれへと変わる。
彼は上着の内ポケットから、小さな、上品なリボンがかかったネイビーの箱を取り出した。
「航平くん、これ……」
「大学時代からずっと、先輩の後ろ姿を見ていました。他の誰かの隣で、少しずつ笑顔をすり減らしていく先輩を、何もできずに見ているのが本当に悔しかった。……だから、あの日、結婚式で先輩の手を引いた時から、僕の心は決まってたんです」
航平は箱を開けた。街灯の光を浴びて、繊細なデザインのゴールドのリングがキラリと輝く。
「もう、先輩に自分を『減点』するような寂しい思いは絶対にさせません。これからは、僕が毎日、先輩の素敵なところを見つけて、一生かけて加点し続けます。……僕の、一生のパートナーになってくれませんか?」
真っ直ぐな、一点の曇りもないプロポーズ。
「付き合ってください」を飛び越えて、これからの人生すべてを共にと誓う彼の熱量に、紬の目からじわりと温かい涙が溢れた。
「……もう、航平くんってば、本当に極端なんだから。普通は、お付き合いからでしょ?」
「気が早いのは建築家の職業病なんです。これからの人生の設計図、もう先輩との分しか描けないので」
泣きながら笑う紬の手を取り、航平は薬指にゆっくりと指輪を滑り込ませた。サイズは、驚くほどぴったりだった。
「どうしてサイズまで分かるの?」
「仕事柄、ミリ単位の目測には自信があるんです。……なんて、嘘です。先輩と手を繋いだ時の感覚を、忘れるわけないじゃないですか」
航平は指輪のはまった紬の手を、自分の両手でそっと包み込み、そのまま引き寄せて強く抱きしめた。
「……紬先輩。大好きです。世界中の誰よりも、僕があなたを幸せにします」
「うん。ありがとう、航平くん。私も、あなたのことが大好き。これからはずっと、隣で一緒に歩かせてね」
もう、紬の心の中に減点カウンターはない。
あるのは、目の前の愛おしい恋人が、これから毎日積み上げてくれる、無限の、愛の加点だけ。
街灯の光に包まれた並木道で、2人は誰に遠慮することもなく、深く、甘い誓いのキスを交わした。100点満点から始まった2人の新しい物語は、これから先、どこまでも、いつまでも、加点され続けていく。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
「減点方式の君と加点方式の僕」 という単純なフレーズを思い付き、現代恋愛を書いてみました。いかがでしたでしょうか。
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