第8話:雨降って、恋固まる
最終日までお付き合いいただきありがとうございます。
投稿は残すところ後 17:10 19:10となります。
ブックマーク・評価・感想よろしくお願いします!
「浅井さん、もう結構です。本日の会議はこれで終了とします。お引き取りください」
プレジール側の役員の冷徹な一言が、静まり返った会議室に響いた。
拓海は顔を真っ赤にし、握りしめた資料をくしゃくしゃにしながら、逃げるように会議室を飛び出していった。その背中には、かつて紬が縋り付いていた「エリートで優秀な男」の面影など、1ミリも残っていなかった。
「……ふぅ」
役員たちが退室し、ようやく2人きりになった会議室。紬は大きく息を吐きながら、椅子の背もたれに体を預けた。緊張が解けたせいで、手足が少し震えている。
「先輩。大丈夫ですか?」
隣から、さっきまでの氷のような冷徹さが嘘のように消え去った、いつもの優しい声が聞こえた。航平が心配そうに、紬の顔を覗き込んでいる。
「うん……大丈夫。ありがとう、航平くん。本当に、凄かった……。私、圧倒されちゃった」
「当然のことを言ったまでです。あんな奴に、先輩のこれまでの努力を汚されてたまるかって、それだけでしたから。……あ、でも、ちょっと生意気すぎましたか?」
航平は少し照れくさそうに頭を掻いた。そのギャップが、紬の硬直していた心をじんわりと溶かしていく。
チーン。
『私のためにすべてを敵に回して戦ってくれた、圧倒的な王子様(+250点)』
「ううん、全然生意気なんかじゃない。最高にカッコよかったよ」
「……! 先輩、そういうこと急に言うの、心臓に悪いです」
航平は耳まで真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。その姿が愛おしくて、紬の口元に自然と笑みがこぼれる。
◇
会議のあった日の夜。
オフィスを出ると、外は予報通りの激しい土砂降りになっていた。
「うわ、すごい雨……。航平くん、傘持ってる?」
「あ、すみません。折りたたみ傘、車に置いてきちゃいました。先輩は?」
「私も、置き傘オフィスに忘れてきちゃった。……あ、あそこにちょうどいい雨宿りスポットがあるよ」
紬が指差したのは、会社のビルから少し歩いたところにある、古い高架下の小さなスペースだった。2人はカバンを頭の上に乗せ、走ってそこへ滑り込む。
「冷たっ、結構濡れちゃいましたね」
航平は自分のジャケットを脱ぐと、迷わず紬の肩にかけた。
「あ、待って、航平くんの服も濡れてるのに!」
「男はこれくらい平気です。先輩、風邪ひいたら困りますから。……それに、こうしてると」
航平は、ジャケットの上から紬の肩を、少しだけ強く引き寄せた。
高架下、激しい雨の音。すぐ近くを走る車のヘッドライトが、アスファルトに反射して2人を淡く照らしている。狭い空間の中で、航平の体温がジャケットを通じて伝わってきて、紬の鼓動がドクドクと跳ね上がった。
「こうしてると……?」
紬が小さく問い返すと、航平は真っ直ぐに彼女の目を見つめた。その瞳には、昼間の会議室での鋭さはなく、ただ一途な熱情だけが揺れている。
「こうしてると、世界に僕と先輩の2人だけしかいないみたいだなって。……すみません、また子供みたいなこと言って」
「ううん。私も、おんなじこと思ってた」
紬は、肩にかかったジャケットの襟をぎゅっと握りしめる。
「私ね、拓海と別れた時、もう自分の人生には何も残ってないって思ってたの。28歳で、仕事も中途半端で、男の人を見る目もなくて……100点だったはずの自分が、あの日、完全に0点になったんだって、本気で絶望してた」
雨の音が、紬の告白を優しく包み込む。航平は何も言わず、ただ真剣に耳を傾けていた。
「でもね、航平くんが私の前に現れて、私の小さなこだわりとか、頑張りを見つけて、ずっと足し算し続けてくれた。……さっきの会議もそう。あの人は私の過去を減点しに来たのに、航平くんはそれ以上の熱量で、私の今を『加点』して守ってくれたでしょ?」
紬は顔を上げ、航平の濡れた髪、引き締まった輪郭、そして自分だけを映している優しい瞳を真っ直ぐに見つめた。
「気づいたらね、私の中の『航平くんへのメーター』が、もうとっくに満点を超えて、壊れちゃいそうなくらいなんだよ。……私、航平くんのことが好き。年下とか、後輩とか、そういうの関係なく、一人の男の人として、あなたのことが大好きなの」
生まれて初めて、自分から進んで伝える、剥き出しの恋心。
航平は目を見開いたまま、しばらく固まっていた。激しい雨の音が、一瞬だけ遠ざかったような気がした。
「……先輩。それ、本当ですか」
「うん。本当だよ」
次の瞬間、紬の体がふわりと宙に浮くような感覚に襲われた。
航平の大きな腕が、紬の腰を力強く抱き寄せ、自分の胸の中に強く閉じ込めたのだ。
「っ……! 航平くん、苦しい――」
「離しません。絶対に離しませんから」
航平の声は、微かに震えていた。紬の肩に顔を埋めたまま、彼は子供のように、けれど大人の男の独占欲を滲ませて呟く。
「ずっと、ずっと待ってたんです。大学時代から、先輩の後ろ姿ばかり追いかけてた。他の男の人の隣で笑う先輩を見るのが、死ぬほど悔しかった……。僕がもっと大人だったら、僕がもっと仕事のできる男だったら、最初から僕が先輩を幸せにできたのにって、毎日そればかり考えてました」
航平はゆっくりと体を離すと、紬の両頬を大きな手で挟み込んだ。彼の目には、微かに涙が浮かんでいた。
「ボロボロの先輩を救ったなんて、そんな大層なこと思ってません。ただ、僕は、僕の命が続く限り、先輩のことを加点し続けるって決めてるんです。世界中が先輩を否定しても、僕だけは毎日、1万点でも100万点でも足し続けます(+10000点)」
そのあまりにも巨大で、歪なほどに純粋な愛の言葉に、紬の胸の奥がキュンと、甘く切なく締め付けられる。
「だから……もう、僕の隣からどこにも行かないでください。僕だけの、紬先輩でいてください」
「うん。もう、どこにも行かないよ。ずっと、航平くんの隣にいる」
どちらからともなく、ゆっくりと顔が近づいていく。
雨のカーテンに隠された高架下で、2人は深く、互いの体温を確かめ合うように、初めての唇を重ね合わせた。
激しい雨の音さえも、2人を祝福する心地よい音楽のように聞こえていた。
◇
数日後。
プレミアムラウンジのプロジェクトは、拓海の妨害を跳ね除けたことでさらに結束が強まり、いよいよ最終段階へと入っていた。
「緒方さん、これ、帝都設計の瀬尾くんから『最終サンプルの確認をお願いします』って」
ミカがニヤニヤしながら、デスクに資料を置いていく。
「あ、ありがとう、ミカ」
「もう、隠さなくてもいいのに。2人、付き合い始めたんでしょ? 瀬尾くん、最近オフィスに来るたびに、緒方さんのこと見る目が完全に『僕の最愛の人』って顔になってるよ」
「えっ!? そ、そんなに分かりやすい……?」
紬が慌てて顔を赤くしていると、スマホにメッセージが届いた。
『紬先輩、今日の夜、新しくできたインテリアショップのレセプションの招待券が手に入ったんです。一緒に行きませんか? その後、僕の家で……進捗の、居残り練習しませんか?』
「居残り練習」という言葉に、あの高架下での熱いキスを思い出して、紬の心臓がまた大きく跳ねる。
「……もう、本当に加点が止まらないんだから」
紬は幸せに満ちた笑顔で、キーボードを叩き始めた。
元彼にすべてを否定されたどん底の28歳。けれど今の紬は、世界で一番愛され、世界で一番輝いている、満点以上の幸福の中にいた。




