第7話:元彼の焦燥と、醜い下心
「……本当に、信じられない」
月曜日の午前11時。プレジール・ファニチャーの自席に戻った紬は、怒りと目眩で目頭を押さえていた。
「どうしたの、緒方さん? 顔色悪いよ」
隣の席のミカが、心配そうに声をかけてくる。
「ううん、ちょっとね。……ミカ、今週の木曜日に予定されてる、帝都設計さんとの『合同進捗会議』の出席者リストって、もう確定してる?」
「うん、役員と開発部のコアメンバーだけだけど。それがどうかした?」
「……そこに、なぜか私の元彼の会社が入ってるの」
「えっ!? 浅井拓海の会社? なんで?」
ミカが驚いて声を潜める。紬は手元の資料を見つめたまま、悔しさに唇を噛んだ。
「さっき営業部から連絡があって……。浅井のいるベンチャー企業が、うちの上層部に『プレミアムラウンジの建材とサプライヤーを、コンペ以下の破格のコストで一括提供できる』って、強引に営業をかけてきたらしいの。経営陣としては、コストが大幅に削れるなら話を聞くだけ聞いてみよう、ってことになったみたいで……」
「最悪……! あいつ、完全に仕事にかこつけて緒方さんに嫌がらせしに来てるじゃん! 瀬尾くんとの噂を嗅ぎつけたの?」
「多分、そう。会社あてに電話してきたときも、プロジェクトに噛ませろって脅し紛いのこと言ってたから」
あの休日デートの温かい余韻をぶち壊すような、元彼の執念深さに吐き気がした。
航平との大切なプロジェクトを、私怨で汚されるわけにはいかない。
紬は意を決して、スマホを手に取った。
◇
その日の昼休み。紬はオフィスの非常階段で、航平に電話をかけていた。
『――先輩! どうしたんですか、こんな時間に』
画面の向こうの航平の声は、いつも通り優しくて温かい。それだけで、張り詰めていた心が少しだけ解ける。
「航平くん、ごめんね、仕事中に。……実は、耳に入れておかなきゃいけないことがあって」
紬は、木曜日の合同会議に拓海がサプライヤーの営業として出席することになった経緯を、正直に話した。
『浅井さんが、合同会議に……』
航平の声から、一瞬で温度が消える。
「本当にごめんなさい。私がちゃんとあの人を拒絶しきれていなかったから、こんな仕事にまで迷惑をかけることに――」
『先輩、それ以上言わないでください』
航平の強い声が、紬の言葉を遮った。
『先輩が謝る必要なんて、1ミリもありません。浅井さんが狙っているのは、コストカットを餌にして僕たちのプロジェクトに無理やり泥を塗り、先輩を精神的に追い詰めることです。……でも、安心してください。僕らの作っている空間は、そんな小細工で揺らぐほど安っぽくありませんから』
「航平くん……」
『木曜日、いつも通り凛として、会議室に来てください。先輩の横には、僕がいます』
その力強い言葉に、紬の胸の奥が熱くなる。
かつては自分が守っていたはずの小さな後輩が、今では誰よりも頼もしい盾となって、自分を全肯定して守ってくれている。
チーン。
『逆境の中で見せてくれる、圧倒的な男気(+100点)』
「うん、分かった。私、負けないよ」
『はい。じゃあ、木曜日に』
◇
そして迎えた、木曜日の合同進捗会議。
プレジール・ファニチャーの本社会議室には、両社の役員やプロジェクト責任者、総勢10名ほどが重々しい空気で席についた。
紬の斜め向かいには、これ見よがしに高級そうな(けれどどこか安っぽい)スーツを着た拓海が、不敵な笑みを浮かべて座っている。
「それでは、本日のアジェンダである『ラウンジ家具のコスト最適化に関するプレゼンテーション』を始めさせていただきます」
進行役の社員の声と共に、拓海がゆっくりと立ち上がった。
「皆様、お時間をいただきありがとうございます。株式会社ネクスト・サプライの浅井拓海です。現在、帝都設計の瀬尾様と、プレジールの緒方さんが進められている家具の特注プランですが……正直に申し上げまして、非常に『無駄』が多い。見た目のおしゃれさにこだわりすぎて、コストが跳ね上がっています」
拓海はプロジェクターに、独自のコスト比較表を映し出した。
「我が社が提案する海外製の代替建材とウレタン素材を使用すれば、デザイン性をある程度維持したまま、家具の製作コストを【40%】削減できます。経営陣の皆様にとっても、これ以上の利益改善はないはずです」
プレジール側の役員たちが、ざわめきながら資料をめくる。
「4割削減は大きいな……」「検討の余地はあるか……」という声が漏れる。
拓海は勝ち誇ったような顔で紬をチラリと見やり、さらに言葉を重ねた。
「そもそも、今回の共同開発プロジェクト自体、学生時代の先輩・後輩という非常に親密な『私的な関係』からスタートしたと伺っております。仕事に個人的な感情を持ち込み、会社に高コストなプランを押し付けるのは、社会人としていかがなものかと思いますが?」
(――っ!?)
会議室の空気が、一気に凍りついた。
拓海は、暗に「紬が男を使って公私混同の不正な仕事をしている」という悪い噂を、役員たちの前で決定付けようとしたのだ。
紬が怒りで立ち上がろうとした、その瞬間。
トン、と隣の席の航平が、手元の資料をテーブルに置いた。
その仕草一つで、会議室の全員の視線が彼に集まる。
航平はゆっくりと拓海を見据えた。その瞳は、ゾッとするほど冷酷で、一切の感情を排した「プロフェッショナル」のそれだった。
「浅井さん。あなたのプレゼンは、一言で言って『時間の無駄』です」
「なんだと……?」
拓海の顔が引きつる。
「あなたが提示した海外製の代替素材ですが、我が社のデザインチームで先月すでに検証し、却下したものです。そのウレタンは耐久性が極めて低く、3年以内にへたります。プレミアムラウンジが求める『5年間の品質保証』の基準を全く満たしていない」
航平は手元のタブレットを操作し、拓海の資料の矛盾点を次々とスクリーンに叩きつけた。
「さらに、ファブリックの変更案。あなたが提案したポリエステル混紡の生地は、我が社が設計した照明の波長と干渉し、安っぽいモアレ(干渉縞)を発生させます。空間全体の価値を根本から破壊する提案です。コストを40%下げて、施設のブランド価値を80%下げる。これがあなたの言う『最適化』ですか?」
「それは……! これから調整の余地が――」
「ありません」
航平は拓海の言葉を冷徹に一蹴した。
「対して、プレジールの緒方さんが企画したプランは、我が社のミリ単位のこだわり、照明の透過率、人間工学に基づく耐久テストをすべてクリアした上で、最も高い費用対効果を弾き出している。これは我が社の利益を最大化するための、極めて論理的でビジネスライクな選択です。公私混同などという下劣な邪推で、彼女のプロとしての仕事を侮辱しないでいただきたい」
「っ……!」
完璧な、あまりにも完璧な技術的・論理的論破。
両社の役員たちは、航平の圧倒的な説得力を前に、深く頷いている。プレジール側の役員が「浅井君、君の提案は我が社の品質基準に到底達していないようだね。この話はなかったことにしてくれ」と冷たく言い放った。
「あ、いや、しかし……!」
拓海は顔面蒼白になり、ガタガタと震えながらその場に立ち尽くすしかなかった。
己の浅薄な知識と、歪んだ下心が、両社のトップたちの前で完全に白日の下に晒された、決定的な大ざまぁの瞬間だった。
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