第6話:休日デートはリサーチの顔をして
「――は? 拓海、あんた何言ってるの?」
夜のオフィス。紬の声は怒りで微かに震えていた。
受話器の向こうの拓海は、相変わらず上から目線の、ひどく軽い口調で言葉を続ける。
『だからさ、お前が帝都設計の瀬尾とデカいプロジェクトやってるって噂、こっちまで回ってきてんだよ。お前、俺と別れて寂しいからって、女の武器を使って昔の後輩をたぶらかしやがったな?』
「……最低。そんなわけないでしょ。これは仕事のオファーで――」
『まあまあ、そう硬くなるなって。お前がその気なら、俺の会社もそのプレミアムラウンジのプロジェクトに噛ませろよ。建材とかサプライヤーのツテならあるしさ。上手くいったら、元サヤに戻ってやってもいいぜ?』
怒りで頭がどうにかなりそうだった。
その時、紬の手からそっとスマホが抜き取られる。
「浅井さん」
航平の声だった。いつの間に立ち上がったのか、彼の表情からは一切の感情が消え失せ、底冷えするような声でスマホに向かって言い放つ。
「僕たちのプロジェクトに、あなたのような浅薄な人間が介入する余地はありません。二度と、彼女の仕事の邪魔をしないでください」
『あ? 瀬尾かお前――』
ピッ、と航平は通話終了ボタンを押し、そのまま拓海の番号を会社支給の端末側でも着信拒否に設定した。
「……先輩。大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。ごめんね、航平くん。せっかくいい雰囲気で仕事してたのに……」
深くため息をつく紬の肩を、航平は大きな手で優しく包み込んだ。
「先輩が謝ることじゃありません。あんな奴の言葉、1ミリも気にしないでください。……よし、今日の居残り練習はここまでです。明日は土曜日ですし、気分転換に行きましょう」
「えっ? どこに?」
「僕の特権を使って、先輩を『秘密のリサーチ』に連れ出します」
そう言って悪戯っぽく笑う航平の瞳に、紬の心は少しだけ軽くなるのを感じていた。
◇
翌週の土曜日。雲一つない青空が広がる表参道。
「先輩、お待たせしました!」
人混みの中から現れた航平の姿に、紬は思わず目を丸くした。
普段のタイトなスーツ姿やセットアップとは違い、ゆったりとした上質な白シャツにチャコールグレーのスラックス。ラフなのに、育ちの良さと洗練された大人の色気が滲み出ている。
「ううん、今来たところ。……航平くん、私服もすごくオシャレだね」
「本当ですか? 先輩にダサいって思われたくなくて、昨日の夜、クローゼットの前で30分くらい悩んだ甲斐がありました」
照れくさそうに頭を掻く姿は、完全に年下の男の子だ。
「さあ、行きましょう。今日は、今月オープンしたばかりの会員制ブックカフェと、僕が注目している北欧のヴィンテージ家具のギャラリーを回ります。プレミアムラウンジのファブリックのヒントになるはずです」
歩き出してすぐ、航平は自然な動作で紬の左側に回り、車道側を歩いた。
「あ、ありがとう」
「当然です。大学のときは、僕がドジして先輩を車道側に歩かせちゃうこともありましたけど……もう二度と、あんな危なっかしい真似はしません(+50点)」
「ふふ、頼もしいね」
ギャラリーに入ると、2人はすぐにプロの顔に戻った。
職人が手作業で仕上げた美しい一人がけのチェアを前に、航平が真剣な目で木目をなぞる。
「紬先輩、この背もたれの傾斜、先輩が言っていた『光を逃がす曲線』に近いと思いませんか?」
「本当だ……! 面を少し削ってアールをつけるだけで、影の落ち方がこんなに柔らかくなるんだね。航平くんのパースにこれを落とし込んだら、絶対に綺麗だよ」
「さすが先輩、話が早くて助かります。……やっぱり、僕の目に狂いはなかったな(+100点)」
「え?」
ふいに顔を上げた航平と、至近距離で目が合う。
「仕事への熱量も、見落としがちな美しさに気づける感性も、やっぱり僕が一番尊敬するクリエイターは、紬先輩です」
ギャラリーの静かな空間の中、航平のストレートな言葉が、紬の心に心地よく響く。
拓海といた5年間は、常に「自分をすり減らす日々」だった。けれど、航平といる時間は、仕事も、プライベートも、自分の存在そのものがどんどん全肯定されて、輝きを取り戻していくのが分かる。
チーン、と心の中のカウンターが小気味よく鳴り響いた。
ギャラリーを出た後、2人は航平が予約してくれていたテラス席のあるカフェに入った。
運ばれてきたタルトを見つめながら、紬はふと、ずっと気になっていたことを口にする。
「ねえ、航平くん。なんで……そんなに私のこと、良く言ってくれるの? 私はもう28歳だし、一度恋愛にも大失敗して、ボロボロだったのに」
航平は、カップを持つ手を止めて、ゆっくりと紬を見つめた。その瞳には、一抹の真剣さと、深い愛おしさが宿っている。
「ボロボロなんかじゃないです。さっきも言いましたけど、大学時代、周りが僕を雑用係としてしか見ていなかったとき、先輩だけが僕の描く線の良さに気づいてくれた。僕を、一人の人間として、クリエイターとして『加点』し続けてくれたんです」
航平はテーブルを挟んで、紬の手の近くにそっと自分の手を置いた。
「浅井さんは、最初から先輩を100点満点にして、そこから減点していった。それは、先輩の本当の価値を見ていなかったからです。でも、僕は違います。僕は、不器用で、一生懸命で、誰よりも優しい先輩の素敵なところを、出会った日から今日まで、ずっと見つけて、足し算し続けてるんです(+200点)」
「航平くん……」
「だから、過去の恋愛なんて関係ありません。今の先輩は、僕にとって満点どころか、測定不能なくらい魅力的です」
真っ直ぐな、あまりにも熱い告白。
紬の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。悲しい涙ではない。自分のこれまでの人生が、すべて報われたような、そんな温かい涙だった。
「あ、嘘、ごめんなさい! 僕、また偉そうなこと言って泣かせちゃって――」
「ううん、違うの。嬉しくて……」
紬は涙を拭いながら、航平の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
「私の心の中の点数もね、今、航平くんでいっぱいだよ」
「先輩……」
航平の顔が、一気に真っ赤に染まる。2人は手を繋いだまま、どちらからともなく微笑み合った。
だが、そんな幸せな時間の裏で。
表参道の並木道の陰から、2人の姿を忌々しげに睨みつけている男がいた。
スマホを片手に、2人が手を重ねる瞬間を盗撮した拓海だ。
「やっぱりデキてんじゃねぇか、クソが……。仕事にかこつけて男をハメやがって。週明けの合同会議、タダじゃ済まさないからな。会社中に言いふらして、その気取った面を引き摺り下ろしてやる」
復讐の炎を燃やす元彼の執念が、すぐそこまで迫っていた。




