第5話:深夜のオフィス、あるいは二人だけの居残り練習
「うーん……やっぱり、ここの収まりがほんの少しだけ気になる、かな」
夜の10時。プレジール・ファニチャーの企画開発部フロアは、すでにほとんどの社員が退社し、静まり返っていた。
紬のデスクの後ろから覗き込むようにして、航平がパソコンの画面を凝視している。2人の距離は、肩が触れ合いそうなほどに近い。
「あ、やっぱり先輩もそう思いますか? 3Dパースで見ると綺麗なんですけど、実際のラウンジの照明設計を重ねると、この背もたれの影が床に強く落ちすぎるんですよね」
「そうそう。せっかく航平くんが『木漏れ日のような温かさ』をコンセプトにしてるのに、家具の影が男らしくカチッとしすぎちゃう。ファブリックの織り目を少し粗くして、光を透過させるか、それとも――」
紬が言いかけたところで、ぐぅ、と小さく情けない音がフロアに響いた。
「……あ」
航平が、自分の腹部を押さえて真っ赤になる。
「ふふ、お腹空いたね。そういえば、夕方に打ち合わせを始めてからノンストップだったもん」
「すみません……。集中すると、つい時間を忘れちゃって。先輩もお腹空きましたよね」
「うん。じゃあ、ちょっと休憩にしよ。お茶でも淹れるね」
紬が給湯室へ向かおうと立ち上がると、航平が慌ててそれを制した。
「あ、僕が淹れます! 先輩は座っててください」
「もう、仕事中は対等のパートナーなんだから、そんなに気を使わなくていいのに。大学の部活じゃないんだからさ」
「いえ、これは僕のこだわりです。……それに、先輩にコーヒーを淹れるの、実は僕の隠れたモチベーションなんです」
そう言って、航平はいたずらっぽく笑うと、手際よく給湯室へと消えていった。
デスクに残された紬は、ふぅ、と小さく息を吐いて背もたれに体重を預ける。
心地よい疲労感だった。
拓海と同棲していた頃の深夜の残業は、いつも「早く帰って飯作らなきゃ」「また小言を言われるのかな」という焦燥感と義務感に満ちていた。
けれど、今こうして航平と過ごす深夜のオフィスは、信じられないほど居心地が良い。お互いのこだわりをぶつけ合い、一つの作品を高めていく時間が、ただただ純粋に楽しかった。
「お待たせしました。今日はちょっと、甘めのカフェオレにしてみました。糖分補給です」
戻ってきた航平が、マグカップを紬の前に置く。ふわっと、ミルクとエスプレッソの優しい香りが広がった。
「わあ、ありがとう。……おいしい! 絶妙な甘さ」
「良かった。先輩、疲れてくると無意識に眉間にシワが寄るクセがあるんですよ。大学のとき、コンクール前の居残り練習でもよくその顔になってました」
「えっ、嘘。私、そんな顔してた?」
「してました。だから、そういうときは僕がすかさず差し入れを持っていくって決めてたんです。当時は自販機の缶コーヒーでしたけど、今はちょっとだけ進化しました」
航平は自分のマグカップを両手で包みながら、懐かしそうに目を細める。
「航平くんは、本当に私のことよく見てくれてたんだね。……私、部活のとき、周りをフォローできてるつもりで、実は空回りしてないかずっと不安だったの。初心者で入ってきた航平くんに雑用ばっかり回っちゃって、申し訳ないな、って」
「何言ってるんですか。先輩のフォローがなかったら、僕はあのとき絶対に部活を辞めてました」
航平のトーンが、すっと真剣なものに変わる。
「あの頃の僕は不器用で、先輩たちの足を引っ張ってばかりで……。周りの目が怖くて、毎日ビクビクしてました。でも、紬先輩だけは違った。僕が片付け忘れた図面を黙ってファイリングしてくれたり、他の先輩に怒られないように『瀬尾くんにこれ頼んどいたから』って、先回りして役割をくれたり」
航平はマグカップをデスクに置き、紬の目を真っ直ぐに見つめた。
「『瀬尾くんの描く線は、丁寧で温かみがあるね』って、先輩が言ってくれたあの日の言葉。あれが、僕が建築家を目指したきっかけなんです。周りが僕を『使えない雑用係(0点)』扱いする中で、先輩だけが、僕の小さな努力に気づいて点数を足し続けてくれた(+100点)」
「航平くん……」
「だから、今度は僕の番です。先輩がどれだけ素晴らしいクリエイターで、どれだけ満点以上の魅力がある人なのか、僕が世界中に証明してみせますから(+150点)」
熱を帯びた航平の言葉が、深夜の静かなオフィスに真っ直ぐに響く。
元彼に「楽な仕事」「見た目を整えるだけ」と100点から0点まで減点され続けた紬の心が、航平の「加点」によって、信じられないほどの熱量で満たされていく。
チーン。
心の中のカウンターが、また大きく音を立てた。
「ありがとう。……私、航平くんに出会えて、本当に良かった」
「僕の方こそです。……あ、そうだ。このファブリックの修正なんですけど」
航平は急に照れたように視線を画面に戻すと、少し耳を赤くしながらペンを動かし始めた。
プロとしての真剣な顔と、時折見せる年下の可愛らしい顔。そのギャップに、紬の胸の鼓動はどんどん速くなっていく。
「ここを、こうして……あ、先輩、ちょっと画面見てもらえますか?」
「うん? どうしたの?」
画面を覗き込もうと、紬が顔を近づけた、その瞬間。
予想以上に2人の距離が近くなり、お互いの吐息が触れ合うほどの位置で、ぴたりと動きが止まった。
街灯の光が優しく差し込むオフィスで、航平の瞳が、じっと紬の唇へと向けられる。
彼の手が、ゆっくりとデスクの上にある紬の手のひらに重なった。大きくて、少し熱い手。
「……紬先輩。あの、僕――」
その時だった。
ビーーー、ビーーー。
静寂を切り裂くように、紬のスマホがデスクの上で激しく振動した。
液晶画面に表示されたのは、ブロックしているはずの、見覚えのある11桁の電話番号――ではなく、会社の『代表電話の転送』だった。
「えっ……? こんな時間に、会社宛ての電話……?」
現実に引き戻された紬は、慌ててスマホを手に取る。
「はい、企画開発部の緒方です」
『あ、やっと出た。おい、紬。冷てぇなぁ、個人の携帯ブロックするなんてさ。会社の代表にかけたら、お前の部署に転送してくれたわ』
受話器から聞こえてきたのは、粘りつくような、不快極まるあの男の声だった。
「……拓海? なんで、ここに……」
紬の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
隣にいる航平の目が、一瞬で冷徹なプロの、いや、大切な人を守ろうとする男の鋭い目へと変わった。




