第9話:綺麗じゃなくていい。ドロドロのままの君が好き
「店主さん!! お願いです、彼を……粘理を元に戻す方法を教えてください!!」
翌朝の一番。会社に全休の連絡を入れ、私は弾かれたように『泡影堂』へと駆け込んでいた。
ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、薄暗い店内にはいつもの甘酸っぱい香りが漂っていた。カウンターの奥から現れた老店主は、私の必死すぎる形相を見ても驚く様子もなく、眼鏡を静かにかけ直した。
「……おやおや。洗剤をゴミ箱へお捨てになり、今度は『元に戻したい』と。人間の欲望とは、実に複雑で身勝手なものですね」
店主の静かな言葉が、胸に突き刺さる。
ぐっと言葉を詰まらせながらも、私はカウンターに両手を叩きつけた。
「分かってます! 私が自分勝手で、愚かで、最低な人間だってことは! 彼の粘着質を勝手に汚れ扱いして、自分の都合の良いように洗って……結果的に、彼の大切な情熱も、才能も、魂も奪っちゃったんです!」
視界が涙で滲む。それでも店主の瞳から目を逸らさずに、私は叫んだ。
「綺麗さっぱりした理想の彼氏なんて、いりません! 束縛されてもいい、重くてもいい! 泥だらけで、ドロドロで、狂うほど私を愛してくれていた、あの『粘着質な城山粘理』を返してください!!」
店内を、重い静寂が包み込む。
店主はしばらくの間、私をじっと見つめていたが、やがて「ふぅ」と小さな溜め息を吐き、カウンターの下から一つの古びた帳面を取り出した。
「お嬢さん。最初にお伝えしたはずです。『一度排水溝へ流れた汚れは、元には戻らない』と」
「そんな……! じゃあ、粘理は一生あのままなんですか!?」
絶望で膝が崩れそうになる私に、店主は淡々とした声で続けた。
「ですがね、お嬢さん。服についた汚れと、人間の心についた“汚れ”には、一つだけ決定的な違いがあります」
「違い……?」
「服は一度洗えば綺麗になり、それ以上自ら汚れることはありません。……しかし、人間は生きている限り、また汚れることができる生き物です」
店主は静かに帳面を閉じ、私の目をまっすぐに見据えた。
「彼の執着を洗い流したのは、概念洗剤ではありませんよ。あなたが彼を拒絶し、『重い』と遠ざけたからです。……彼が執着を失ったのは、洗剤の力ではなく、『これ以上粘着したら、あなたに完全に嫌われて捨てられてしまう』という無意識の恐怖が、彼の心に蓋をしたからに過ぎません」
「……あ……」
衝撃で、息が止まった。
洗剤は、ただのきっかけに過ぎなかったのだ。
「洗われた」のではない。粘理は、私が「綺麗なお前が好きだ」と言わんばかりの態度をとったから、私に嫌われないために、自分の「粘着質」という一番大切な根幹を自ら押し殺し、死に行かせていたのだ。
「彼に芽生える執着とは、あなたという存在への『渇望』そのものです。……あなたが彼のすべてを受け止める覚悟を持ち、彼に圧倒的な『拒絶されない安心感』を与えれば、蓋は外れ、汚れは再び内側から溢れ出すでしょう」
店主はふっと柔らかく笑い、奥の棚へ下がっていった。
「洗うのは簡単ですが、もう一度泥だらけになるには相応の覚悟がいりますよ。……いってらっしゃいませ」
***
『泡影堂』を飛び出した私は、なりふり構わず自宅へと走った。
呼吸が浅くなり、足がもつれそうになる。
脳裏を駆け巡るのは、私が粘理に向けてきた冷たい言葉や、ウザそうにした態度、そして何より「洗剤で洗ってやろう」という最低な傲慢さだ。
嫌われるのが怖くて、必死に「良い彼氏」を演じていた粘理。
自分の才能が死んでいく恐怖と戦いながら、それでも私に笑いかけていた粘理。
(バカ……! 私のバカ……!!)
マンションの鍵を開け、ドアを勢いよく押し開ける。
「粘理……っ!!」
リビングには、ソファーにぽつんと座り、力なくスケッチブックを見つめている粘理がいた。
私の荒い息遣いに驚いたように顔を上げる。
「紡ちゃん……? 会社は……? クリーニング屋さん、行ってきたの……?」
「行ってきた……! 行ってきたよ粘理……っ!」
私は靴も脱がずに玄関からリビングへ駆け寄り、ソファーに座る粘理の上に、自分からドスンと飛び乗った。
「うわっ!? 紡ちゃん!?」
粘理の膝の上に跨がり、彼の両肩を力任せに掴む。
粘理は驚いて目を丸くしていた。いつもなら私からこんな乱暴な触れ合い方をすることなんて、一度もなかったからだ。
「粘理、聞いて!! 私、大嘘つきだった!!」
「え……? え?」
「私、『粘着質が嫌だ』なんて言ったけど、大嘘!! 爽やかで物分りの良い彼氏なんて、全然好きじゃなかった!!」
私は粘理の頬を両手で強く挟み込み、彼の顔を至近距離で固定した。
鼻先が触れ合いそうなほどの距離。粘理の瞳に、私の必死な顔が大きく映り込む。
「私ね、君に毎日50回LINEされてた時、本当は愛されてるなって思ってたの! GPS共有されてた時、私から目が離せないくらい好きなんだなって、内心ちょっと優越感浸ってたの! 私の寝顔100枚撮られた時も、キモいって言いながら全部保存してあったの!!」
「つ、紡ちゃん……!?」
「私はね、重くて、鬱陶しくて、泥みたいにしつこくて、私なしじゃ生きていけない城山粘理が……大好きなの!!」
私の叫びに、粘理の体がビクッと跳ね上がった。
粘理の瞳の奥で、カサカサに乾いていた「何か」が、ゆっくりと、けれど確実に揺らぎ始める。
「でも……僕が粘着質になったら、紡ちゃん、また『重い』って……嫌がるでしょう……? 僕のこと、嫌いになっちゃうでしょう……?」
粘理の声が震えていた。
幼い子供が、捨てられるのを恐れるような、哀切に満ちた声。
やっぱりそうだったんだ。店主の言った通りだった。
彼は洗剤で洗われたんじゃない。私が彼に「嫌うぞ」と脅迫していたのだ。
「嫌いにならない!! 絶対に嫌いにならない!!」
私は粘理の首に力いっぱい腕を回し、自分の体をこれでもかと押し付けた。
肌と肌の接地面を最大にし、彼の胸に私の体温を全重量で叩きつける。
「粘理のドロドロした愛、全部よこしなさいよ!! 私が全部、一滴残らず受け止めてあげる!! 逃げない! 拒絶しない! 泥だらけになって、一生私に粘着し続けなさい!!」
「好きだよ粘理!! 大好き!! 愛してる!!」
何度も、何度も、彼の耳元で叫んだ。
言葉と一緒に、溢れる涙と熱い吐息を、彼の肌に叩きつけ続けた。
その瞬間だった。
じわ、と。
粘理の体から、信じられないほどの「熱」が溢れ出してきた。
彼の腕が、私の背中に回される。
ポンポンとあやすような優しい手つきなんかじゃない。
骨が鳴るほどの強靭な力で、私を自分の体の中に引きずり込もうとするような、狂気的な抱擁。
「あぐ……っ、粘理、力……っ!」
「紡ちゃん……紡ちゃんっ……!!」
粘理の呼吸が荒くなる。
彼の胸の奥で、固く閉ざされていた蓋が、ドカンと音を立てて吹き飛んだのが分かった。
首筋に、粘理の唇が食い込むように押し当てられる。
ズルリ、と。
久しく感じていなかった、あの湿度100%の「ぬめり」とした執着のオーラが、彼の全身から爆発的に分泌され始めた。
「紡ちゃん……本当……? 本当に俺のこと嫌いにならない……? 逃げない……? 俺の全部を受け止めてくれる……!?」
「うんっ……! 逃げない……逃げないよ!!」
「あはっ……あははっ……! 紡ちゃん、紡ちゃん、ツムちゃんっ!!」
粘理の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
けれどその瞳は、もう空っぽじゃなかった。
私への異常なまでの愛と、強烈な情熱と、狂おしい執着の炎が、ボウボウと真っ赤に燃え盛っていた。
「俺、紡ちゃんが好き……! 好き好き好き大好き!! 骨まで愛してる! 誰にもあげない! 誰の目にも触れさせたくない! 紡ちゃんの細胞一つまで俺の絵の具で塗り潰したい!!」
ねっとりと、しつこく、重たく。
私の全身を覆い尽くしていく、城山粘理の「粘着質」。
痛いくらいに抱きしめられながら、私は涙を流して笑った。
帰ってきた。
私が愛した、世界で一番重くて、世界で一番愛おしい、私の彼氏が。
「ん、粘理……苦しい……っ」
「離さない! もう二度と離さないからね紡ちゃん!! スマホの待ち受け、今日から200枚スライドショーにするからね!!」
「増えてるじゃん!!」
叫びながらも、私は彼の頭を強く抱きしめ返した。
綺麗なだけの恋なんて、くそくらえだ。
泥だらけで、重くて、息が詰まるような、この汚くて美しい愛こそが、私たちの真実なのだから。




