第8話:天才イラストレーターの絵から「情熱」が消えた理由
その夜、マンションの玄関を開けるのが、これほど恐ろしいと感じたことはなかった。
「ただいま……」
声を絞り出すように言うと、奥の作業部屋から粘理が出てきた。
いつものように穏やかな笑みを浮かべている。けれど、その瞳の周囲には重いクマが刻まれ、顔色は土気色だった。
「お帰り、紡ちゃん。……ご飯、作れなくてごめんね。ずっとキャンバスに向かってたんだけど……やっぱりダメなんだ」
粘理は力なく微笑み、リビングの椅子に深く腰掛けた。
彼の長くて綺麗な指先は、絵の具で汚れることもなく、無機質なほど綺麗だった。かつての彼は、締め切り前になると全身に絵の具をつけ、髪を振り乱し、まるで取り憑かれたようにキャンバスへ「私への愛と執着」を叩きつけていたというのに。
「粘理……見せて、キャンバス」
私が静かに頼むと、粘理は少し躊躇いながらも、作業部屋のドアを開けてくれた。
部屋の中央に置かれた大きなイーゼル。そこに立てかけられていたのは——荒れ果てた、けれど何も描かれていない白い画面だった。
キャンバスの端に、迷い足掻いたような細い線が数本引いてあるだけ。
「描けないんだ」
粘理がキャンバスの脇にしゃがみ込み、自分の膝を抱きしめた。その背中は驚くほど小さく見えた。
「昔はね、描きたいことが溢れて止まらなかったんだ。紡ちゃんのことを考えると、胸の奥が焼き切れるくらい熱くなって……紡ちゃんを俺だけのものにしたい、どこにも行かせたくない、俺の血と肉で包み込んでしまいたい……そういうドロドロした、汚くて重い感情が、指先からドバドバ溢れ出てきてさ」
粘理は自分の両手を見つめ、声を開かせるように呟いた。
「なのに……今は、胸の奥を覗き込んでも、何も無いんだ。空っぽなんだよ。紡ちゃんのことは今でも大好きだし、すごく大切だなって思ってる。でも……あの『狂うような熱さ』がない。描こうとしても、全部綺麗事で終わっちゃうんだ」
ポツリ、ポツリと溢れる言葉。
それは、私が彼から奪い去ったものの残骸だった。
「僕、イラストレーターとして終わりなのかな。……いや、それだけじゃないな。僕の中にあった『僕らしさ』みたいなものが、全部どこかに消えちゃった気がするんだ」
粘理が顔を上げ、私を見つめた。
その澄み切った、けれど光のない瞳に、私の罪深さが鮮明に映し出されていた。
「紡ちゃん……僕、壊れちゃったのかな?」
——違う。壊れたんじゃない。
私が、壊したんだ。
胸の奥が、鋭利な刃物でズタズタに引き裂かれるような激痛に襲われた。
喉がキュッと絞まり、息がうまく吸えない。涙が視界を遮り、粘理の顔が大きく歪む。
私は「重い」「ウザい」「不気味だ」と、彼の粘着質を嫌っていた。
彼の抱く泥のような執着を、自分にとって都合の良いように「汚れ」と決めつけ、洗剤でゴシゴシと洗い流した。
だけど。
あのドロドロとした重すぎる愛こそが、城山粘理という人間の根幹だったのだ。
彼が命を削って描いていたあの素晴らしい絵は、私への「病的なまでの執着」という燃料が燃え盛ることで生まれていたのだ。
私は、彼の魂の燃料を、勝手に排水溝へ流して捨てていたのだ。
「ごめん……ごめんね、粘理……っ!」
私は耐えきれず、その場に崩れ落ちた。フローリングに膝をつき、声を上げて泣いた。
「紡ちゃん!? どうしたの、なんで泣くの!?」
焦った粘理が立ち上がり、私のもとへ駆け寄ってくる。
膝をつき、私の肩を優しく抱きしめてくれた。
その手は、温かい。けれど、やっぱり「サラサラ」としている。
私を力任せに拘束し、肌と肌を密着させようとする、あの狂おしいまでの「ぬめり」がない。
「ごめんね粘理……私のせいなの……私が、君の大切なものを洗っちゃったから……!」
「え……? 洗った……? 何を言ってるの、紡ちゃん?」
粘理は困惑したように私の顔を覗き込んだ。
私は、もう隠し通すことなんてできなかった。
震える声で、すべてを白状した。
「私、君の『粘着質』が耐えられなかったの……。GPSで監視されるのも、毎分LINEが来るのも、私の髪の毛を集めるのも……全部、重くて、息が詰まりそうで……だから……」
「……うん」
「裏通りの怪しいお店で……人の感情を洗う『概念洗剤』を買ってきたの。お風呂にそれを混ぜて、君の粘着質を……重すぎる執着だけを、洗い流そうとしたの……っ!」
言葉を吐き出すたびに、自分の浅はかさと愚かさに嘔吐感がこみ上げてくる。
「最初は……すごく嬉しかった。君が爽やかになって、私のプライベートを尊重してくれて、理想の彼氏になってくれたから……。でも、洗剤の量を調整しているうちに……君の描く絵から情熱が消えて、君の心から熱がなくなっちゃったことに気づいたの……!」
粘理は、黙って私の話を聞いていた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに、私の言葉を一つひとつ受け止めるように。
「私、自分の都合だけで君を変えようとした……。君の『粘着質』が、君の才能で、君そのものだったのに……それを勝手に汚れ扱いして、削り取っちゃったの……! ごめんなさい……ごめんなさい粘理……っ!!」
私は床に額をこすりつけるようにして、涙を流し続けた。
振られる覚悟はできていた。蔑まれ、嫌われ、捨てられても文句は言えない。私は彼の人生と才能を蹂躙した最低な人間なのだから。
静寂が、作業部屋を包み込む。
やがて。
頭の上から、ふわっと柔らかい手が降ってきた。
粘理が、私の頭を撫でていた。
「……そっか」
粘理の声は、不思議なほど穏やかだった。
「だから、あのお風呂に入ると、頭がすっきりして……胸のドロドロが消えてたんだね」
「粘理……怒ってよ……! 私を責めてよ……! 私、最低なことしたんだよ!?」
顔を上げた私に、粘理はどこか切ない、寂しげな笑顔を向けた。
「怒るわけないよ。……だって、僕が紡ちゃんを追い詰めちゃってたんでしょう? 紡ちゃんが『洗いたい』って思うくらい、僕の愛し方は重くて、気持ち悪くて、苦しかったんだよね」
「違う……! 私が、君の愛を受け止める覚悟がなかっただけ——」
「ううん。紡ちゃんを苦しめてたのは事実だよ。……でもさ」
粘理は自分の胸に手を当て、ぽつりと呟いた。
「僕……やっぱり、スカスカなのは嫌だな」
「え……?」
「今の僕は、紡ちゃんを困らせない『良い彼氏』かもしれない。でも……紡ちゃんを抱きしめても、胸が締め付けられるような愛おしさが湧いてこないんだ。絵を描こうとしても、キャンバスにぶつける情熱がない。……これじゃ、生きているのか死んでいるのか分からないよ」
粘理の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「僕、やっぱり……ドロドロした僕に戻りたいよ。紡ちゃんに『重い!』って嫌がられてもいいから……紡ちゃんを狂うほど好きで、絵を狂うほど描いていた、あの頃の僕に戻りたい……」
その言葉は、私の胸を深く、強く撃ち抜いた。
彼は、ありのままの自分を取り戻したがっている。
私が「汚れ」と呼んで削ぎ落とした、あの泥だらけの、けれど最高に熱い自分自身を。
「……戻すよ」
私は涙を拭い、粘理の手を両手で強く握り返した。
「私が洗っちゃったんだから、私が責任を持って、君を元の『ドロドロの粘理』に戻す! どんなことをしてでも……絶対に戻してみせるから!」
「紡ちゃん……」
私は立ち上がった。
脱衣所へ走り、洗面台の棚の奥に隠してあった【愛執脱脂剤】と【愛執柔軟剤】の小瓶を取り出す。
そして、迷うことなく——ふたつの小瓶をゴミ箱へ叩きつけた。
ガシャン! とガラスが割れる乾いた音が響く。
ピンクと青の液体が混ざり合い、泡となって床に広がっていく。
もう、洗剤なんかに頼らない。
コントロールしようだなんて、二度と思わない。
私は粘理のもとへ戻り、彼の胸へと飛び込んだ。
「粘理、明日……あのクリーニング屋さんに行く。店主に頼んで、君を元に戻す方法を聞いてくる!」
「紡ちゃん……ありがとう。でも、大丈夫なの? 僕が元に戻ったら、またすごく粘着質になるよ? GPSもつけるし、毎日100回LINEするし、紡ちゃんの匂いがないと眠れなくなっちゃうよ?」
粘理が、少し不安そうに私を見つめる。
私は彼の頬を両手で挟み込み、まっすぐその瞳を見つめ返した。
「いいよ! 受け止める! 100回でも200回でもLINEしなさい! 髪の毛でも何でも差し出すから!」
「紡ちゃん……っ」
私は彼の首に腕を回し、力いっぱい抱きしめた。
サラサラとした今の彼の体温。
これを、もう一度あの「ドロドロとした熱い愛」で満たしてみせる。
汚れなんて、最初からなかったのだ。
あれは全部、彼が私を愛してくれた「証」だったのだから。
私は明日、彼のすべてを取り戻すために、再び『泡影堂』のドアを叩くことを心に誓った。




