表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【10話完結オムニバス】理不尽な男を捨てたら、理想の溺愛に出会いました。〜大人のリベンジ愛短編集〜  作者: かぶんす
粘着質すぎる彼氏、洗濯機で洗ったら「好き」だけ残らないかな?

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/41

第8話:天才イラストレーターの絵から「情熱」が消えた理由

その夜、マンションの玄関を開けるのが、これほど恐ろしいと感じたことはなかった。


「ただいま……」


声を絞り出すように言うと、奥の作業部屋から粘理が出てきた。

いつものように穏やかな笑みを浮かべている。けれど、その瞳の周囲には重いクマが刻まれ、顔色は土気色だった。


「お帰り、紡ちゃん。……ご飯、作れなくてごめんね。ずっとキャンバスに向かってたんだけど……やっぱりダメなんだ」


粘理は力なく微笑み、リビングの椅子に深く腰掛けた。

彼の長くて綺麗な指先は、絵の具で汚れることもなく、無機質なほど綺麗だった。かつての彼は、締め切り前になると全身に絵の具をつけ、髪を振り乱し、まるで取り憑かれたようにキャンバスへ「私への愛と執着」を叩きつけていたというのに。


「粘理……見せて、キャンバス」


私が静かに頼むと、粘理は少し躊躇いながらも、作業部屋のドアを開けてくれた。


部屋の中央に置かれた大きなイーゼル。そこに立てかけられていたのは——荒れ果てた、けれど何も描かれていない白い画面だった。

キャンバスの端に、迷い足掻いたような細い線が数本引いてあるだけ。


「描けないんだ」


粘理がキャンバスの脇にしゃがみ込み、自分の膝を抱きしめた。その背中は驚くほど小さく見えた。


「昔はね、描きたいことが溢れて止まらなかったんだ。紡ちゃんのことを考えると、胸の奥が焼き切れるくらい熱くなって……紡ちゃんを俺だけのものにしたい、どこにも行かせたくない、俺の血と肉で包み込んでしまいたい……そういうドロドロした、汚くて重い感情が、指先からドバドバ溢れ出てきてさ」


粘理は自分の両手を見つめ、声を開かせるように呟いた。


「なのに……今は、胸の奥を覗き込んでも、何も無いんだ。空っぽなんだよ。紡ちゃんのことは今でも大好きだし、すごく大切だなって思ってる。でも……あの『狂うような熱さ』がない。描こうとしても、全部綺麗事で終わっちゃうんだ」


ポツリ、ポツリと溢れる言葉。

それは、私が彼から奪い去ったものの残骸だった。


「僕、イラストレーターとして終わりなのかな。……いや、それだけじゃないな。僕の中にあった『僕らしさ』みたいなものが、全部どこかに消えちゃった気がするんだ」


粘理が顔を上げ、私を見つめた。

その澄み切った、けれど光のない瞳に、私の罪深さが鮮明に映し出されていた。


「紡ちゃん……僕、壊れちゃったのかな?」


——違う。壊れたんじゃない。

私が、壊したんだ。


胸の奥が、鋭利な刃物でズタズタに引き裂かれるような激痛に襲われた。

喉がキュッと絞まり、息がうまく吸えない。涙が視界を遮り、粘理の顔が大きく歪む。


私は「重い」「ウザい」「不気味だ」と、彼の粘着質を嫌っていた。

彼の抱く泥のような執着を、自分にとって都合の良いように「汚れ」と決めつけ、洗剤でゴシゴシと洗い流した。


だけど。

あのドロドロとした重すぎる愛こそが、城山粘理という人間の根幹アイデンティティだったのだ。

彼が命を削って描いていたあの素晴らしい絵は、私への「病的なまでの執着」という燃料が燃え盛ることで生まれていたのだ。


私は、彼の魂の燃料を、勝手に排水溝へ流して捨てていたのだ。


「ごめん……ごめんね、粘理……っ!」


私は耐えきれず、その場に崩れ落ちた。フローリングに膝をつき、声を上げて泣いた。


「紡ちゃん!? どうしたの、なんで泣くの!?」


焦った粘理が立ち上がり、私のもとへ駆け寄ってくる。

膝をつき、私の肩を優しく抱きしめてくれた。


その手は、温かい。けれど、やっぱり「サラサラ」としている。

私を力任せに拘束し、肌と肌を密着させようとする、あの狂おしいまでの「ぬめり」がない。


「ごめんね粘理……私のせいなの……私が、君の大切なものを洗っちゃったから……!」

「え……? 洗った……? 何を言ってるの、紡ちゃん?」


粘理は困惑したように私の顔を覗き込んだ。


私は、もう隠し通すことなんてできなかった。

震える声で、すべてを白状した。


「私、君の『粘着質』が耐えられなかったの……。GPSで監視されるのも、毎分LINEが来るのも、私の髪の毛を集めるのも……全部、重くて、息が詰まりそうで……だから……」

「……うん」

「裏通りの怪しいお店で……人の感情を洗う『概念洗剤』を買ってきたの。お風呂にそれを混ぜて、君の粘着質を……重すぎる執着だけを、洗い流そうとしたの……っ!」


言葉を吐き出すたびに、自分の浅はかさと愚かさに嘔吐感がこみ上げてくる。


「最初は……すごく嬉しかった。君が爽やかになって、私のプライベートを尊重してくれて、理想の彼氏になってくれたから……。でも、洗剤の量を調整しているうちに……君の描く絵から情熱が消えて、君の心から熱がなくなっちゃったことに気づいたの……!」


粘理は、黙って私の話を聞いていた。

怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ静かに、私の言葉を一つひとつ受け止めるように。


「私、自分の都合だけで君を変えようとした……。君の『粘着質』が、君の才能で、君そのものだったのに……それを勝手に汚れ扱いして、削り取っちゃったの……! ごめんなさい……ごめんなさい粘理……っ!!」


私は床に額をこすりつけるようにして、涙を流し続けた。

振られる覚悟はできていた。蔑まれ、嫌われ、捨てられても文句は言えない。私は彼の人生と才能を蹂躙した最低な人間なのだから。


静寂が、作業部屋を包み込む。


やがて。

頭の上から、ふわっと柔らかい手が降ってきた。


粘理が、私の頭を撫でていた。


「……そっか」


粘理の声は、不思議なほど穏やかだった。


「だから、あのお風呂に入ると、頭がすっきりして……胸のドロドロが消えてたんだね」

「粘理……怒ってよ……! 私を責めてよ……! 私、最低なことしたんだよ!?」


顔を上げた私に、粘理はどこか切ない、寂しげな笑顔を向けた。


「怒るわけないよ。……だって、僕が紡ちゃんを追い詰めちゃってたんでしょう? 紡ちゃんが『洗いたい』って思うくらい、僕の愛し方は重くて、気持ち悪くて、苦しかったんだよね」

「違う……! 私が、君の愛を受け止める覚悟がなかっただけ——」

「ううん。紡ちゃんを苦しめてたのは事実だよ。……でもさ」


粘理は自分の胸に手を当て、ぽつりと呟いた。


「僕……やっぱり、スカスカなのは嫌だな」

「え……?」

「今の僕は、紡ちゃんを困らせない『良い彼氏』かもしれない。でも……紡ちゃんを抱きしめても、胸が締め付けられるような愛おしさが湧いてこないんだ。絵を描こうとしても、キャンバスにぶつける情熱がない。……これじゃ、生きているのか死んでいるのか分からないよ」


粘理の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。


「僕、やっぱり……ドロドロした僕に戻りたいよ。紡ちゃんに『重い!』って嫌がられてもいいから……紡ちゃんを狂うほど好きで、絵を狂うほど描いていた、あの頃の僕に戻りたい……」


その言葉は、私の胸を深く、強く撃ち抜いた。


彼は、ありのままの自分を取り戻したがっている。

私が「汚れ」と呼んで削ぎ落とした、あの泥だらけの、けれど最高に熱い自分自身を。


「……戻すよ」


私は涙を拭い、粘理の手を両手で強く握り返した。


「私が洗っちゃったんだから、私が責任を持って、君を元の『ドロドロの粘理』に戻す! どんなことをしてでも……絶対に戻してみせるから!」

「紡ちゃん……」


私は立ち上がった。

脱衣所へ走り、洗面台の棚の奥に隠してあった【愛執脱脂剤】と【愛執柔軟剤】の小瓶を取り出す。


そして、迷うことなく——ふたつの小瓶をゴミ箱へ叩きつけた。


ガシャン! とガラスが割れる乾いた音が響く。

ピンクと青の液体が混ざり合い、泡となって床に広がっていく。


もう、洗剤なんかに頼らない。

コントロールしようだなんて、二度と思わない。


私は粘理のもとへ戻り、彼の胸へと飛び込んだ。


「粘理、明日……あのクリーニング屋さんに行く。店主に頼んで、君を元に戻す方法を聞いてくる!」

「紡ちゃん……ありがとう。でも、大丈夫なの? 僕が元に戻ったら、またすごく粘着質になるよ? GPSもつけるし、毎日100回LINEするし、紡ちゃんの匂いがないと眠れなくなっちゃうよ?」


粘理が、少し不安そうに私を見つめる。


私は彼の頬を両手で挟み込み、まっすぐその瞳を見つめ返した。


「いいよ! 受け止める! 100回でも200回でもLINEしなさい! 髪の毛でも何でも差し出すから!」

「紡ちゃん……っ」


私は彼の首に腕を回し、力いっぱい抱きしめた。


サラサラとした今の彼の体温。

これを、もう一度あの「ドロドロとした熱い愛」で満たしてみせる。


汚れなんて、最初からなかったのだ。

あれは全部、彼が私を愛してくれた「証」だったのだから。


私は明日、彼のすべてを取り戻すために、再び『泡影堂』のドアを叩くことを心に誓った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ