第7話:週一回の「彼氏洗濯」ルーティン
「よし……今日のコンディションはバッチリ」
日曜日の夜十時。私は洗面台の前で、まるで精密機器の調合を行う研究者のような目つきで二つの小瓶を見つめていた。
青い擦りガラスの【愛執脱脂剤】。
ピンクの擦りガラスの【愛執柔軟剤】。
この数週間、私は血のにじむような試行錯誤を重ねてきた。
脱脂剤が多すぎれば、彼は一切の執着を失い、冷たい氷のような無関心男に成り果てる。
逆に柔軟剤を入れすぎれば、全骨格が溶け去ったかのような甘々ドロドロの赤ん坊と化し、私の生活に壊滅的な支障をきたす。
だが、今の私は違う。
試行錯誤の末に辿り着いたのだ。城山粘理という人間を、人間として最も魅力的に機能させる『黄金の配合比率』に!
「脱脂剤、キャップ三分の二。柔軟剤、キャップ三分の一。お湯の温度は39.5度、入浴時間はぴったり12分……!」
完璧な処方箋である。
この「週一回の洗濯ルーティン」を導入してからというもの、私たちの生活は劇的に改善されていた。
平日の粘理は、GPS共有をねだることもなく、仕事中の私に20件の連続LINEを送ることもない。けれど、夜帰宅すれば「紡ちゃん、今日もお疲れ様」と愛おしそうに抱きしめてくれ、適度な束縛と甘いキスで私をキュンとさせてくれる。
束縛しすぎず、放任しすぎず。
ドロドロすぎず、サッパリすぎない。
例えるなら「上質なシルクのような程よいしっとり感」。
「私って……天才かもしれない」
自画自賛の笑みを浮かべ、私は調合した薬液をお風呂場へと運び入れた。
湯船からは、ミントとフローラルが絶妙に混ざり合った、爽やかでほんのり甘い香りが漂っている。
「粘理ー! お風呂沸いたよー!」
「はーい、今行くね!」
リビングから聞こえる粘理の声は、以前のような湿度100%の重苦しさもなく、かといって色落ちした時の冷たさもない。耳に心地よい、大好きな彼の声だ。
脱衣所に現れた粘理は、服を脱ぎながら楽しそうに微笑んだ。
「ねえ紡ちゃん、今週もこの入浴剤使ってくれるんだ。これに入ると、すごく頭がスッキリして、紡ちゃんのことがもっと愛おしく思えるんだよね」
「ふふ、気に入ってくれて何よりだよ。はい、12分しっかり浸かってね」
「うん! 紡ちゃん、上がったらアイス一緒に食べようね」
そう言って、無邪気に湯船に浸かる粘理。
水面から立ち上る泡とともに、彼から滲み出た余分な「粘着質」が優しく分解され、代わりに程よい「愛着」が彼の肌にしみ込んでいく。
私は時計の針をチラリと見ながら、心の中でガッツポーズを作った。
完璧だ。何もかもが、私のコントロール下にある。
彼の愛を、私の手で心地よい形に裁断し、縫い合わせ、メンテナンスしているのだ。
これぞまさに、究極の相思相愛。私と粘理のハッピーライフである。
……その時の私は、完全に調子に乗っていた。
彼の心を「洗濯」することで失われていくものの大きさに、まだ何一つ気づいていなかったのだ。
***
翌日。月曜日の昼下がり。
私は文房具メーカーの自席で、パソコンに向かいながらふと粘理のSNS(X・旧Twitter)を開いた。
粘理はフリーのイラストレーターだ。彼の独特な世界観——ドロドロとした情念、狂気的な描き込み、人間の醜さと美しさが混ざり合った濃密なイラストは、一部の熱狂的なファンや装丁家から絶大な支持を得ていた。
そろそろ、彼が数か月前から心血を注いでいた新作『黒い愛の檻』が完成し、SNSに投稿される頃だった。
(今回の絵も、きっとすごいんだろうな。あのドロドロした質感描かせたら、粘理の右に出る人はいないもんね)
画面を更新する。
タイムラインの最上部に、粘理の新しいポストが表示された。
『新作出来ました。【青空と透明な君】』
(……え?)
タイトルを見て、一瞬首を傾げた。
『黒い愛の檻』じゃなかったっけ?
画像をクリックして、拡大表示する。
画面に表示されたのは——雲一つない青空の下、爽やかな笑みを浮かべて立つ少女の絵だった。
線は綺麗だ。デッサンも狂っていない。構図も構想も整っている。
けれど。
(なに……これ……?)
私の背筋に、サァーッと冷たい汗が吹き出した。
つまらない。
あまりにも、無難で、退屈で、どこかで見たような絵。
かつて粘理の絵にあった、見た者の心をぐちゃぐちゃに掻き乱すような強烈なエネルギーが、影も形も消え失せていた。
まるで、大手メーカーの広告に使われるフリー素材のような、毒にも薬にもならない「綺麗なだけの絵」。
タイムラインのコメント欄を覗いてみる。
『粘理先生、なんか作風変わりました?』
『前のねっとりした描き込みが好きだったんだけどな……』
『綺麗だけど、なんか普通になっちゃったね』
『スランプですか?』
ファンたちの戸惑う声が並んでいた。
いいねの数も、いつもの十分の一にも満たない。
私は生きた心地がしなかった。
すぐさまスマホを掴み、会社の給湯室へ駆け込んだ。
震える指で粘理に電話をかける。
数回のコール音の後、カチリと音がして、粘理の落ち着いた声が繋がった。
『あ、紡ちゃん? どうしたの、お昼休みに電話なんて珍しいね』
「粘……粘理! 新作、見たよ! Twitterの……!」
『あはは、見た? どうかな……自分でも、なんだかよく分からないんだ』
電話の奥で、粘理が力なく苦笑する気配がした。
『本当はね、もっと狂おしくて、苦しくて、紡ちゃんへの執着を全部ぶつけるような……泥みたいな絵を描くつもりだったんだ。ずっと前から温めてたキャンバスでさ』
「うん……っ」
『でもね……筆を持ったら、なんだか全然描けなくなっちゃって。描こうとすると、頭の中がすーすーして、そういうドロドロした感情がどこを探しても見つからないんだ。だから……仕方なく、思いつくままにサッサと描ける絵を描いたんだけど……なんか、退屈な絵になっちゃったよね』
粘理の声は、泣き出しそうなほど寂しげだった。
『僕、どうしちゃったんだろう。絵を描いてる時の、あの胸が焼け付くような熱さが……全然なくなっちゃったんだ。大切なものを、どこかに置き忘れてきたみたいで……すごく、怖いんだよ』
ドクン、と胸が大きく跳ね上がった。
私は手に持っていたスマホを落としそうになった。
違う……。
そうじゃない……!
彼の描くあの絵の「狂気」も「情熱」も「濃密な世界観」も……すべて、私への「ドロドロした粘着質」から生まれていたのだ。
彼が私を好きすぎるあまりに抱え込んでいた、ドロドロとした愛のエネルギー。
それこそが、城山粘理というイラストレーターの「才能」そのものだったのだ。
それを、私は。
「重いから」「鬱陶しいから」「自分が快適に付き合いたいから」という自分勝手な理由で。
毎週毎週、洗剤で綺麗サッパリと洗い流していたのだ。
彼の才能を。彼の魂を。彼そのものを。
私が自分の手で、削り取り、捨て去っていたのだ。
『紡ちゃん? 聞こえてる?……ごめんね、変なこと言って。せっかく電話くれたのに。……僕、もう少し描いてみるよ。昔の感覚を取り戻せるように』
「粘……理……っ」
『じゃあね、仕事がんばってね』
プチッ、と通話が切れた。
給湯室の冷たいタイルの上に、私はへたり込んだ。
「黄金の比率」なんて、嘘だった。
私は彼の都合なんて一切考えていなかった。
ただ自分にとって「都合の良い彼氏」を作り上げるために、彼の魂を少しずつ殺していたのだ。
頭の中に、先ほど見た彼の絵が焼き付いて離れない。
色鮮やかな青空の下で笑う、毒の抜けた少女。
あれは、粘理の心そのものだ。
洗われ、磨かれ、綺麗になりすぎた結果、大切な輝きを完全に失ってしまった、ただの空っぽのキャンバス。
「私……なんてことを……」
自分の両手を見つめる。
この手で、彼の「一番大切なもの」を排水溝に流してしまっていた。
罪悪感が、毒のように全身を駆け巡る。
私は震える膝を押し立て、脱衣所に隠してある二つの小瓶を思い浮かべた。
もう、洗っちゃダメだ。
彼を「綺麗」にしようとしちゃダメなんだ。
だが、一度洗い落としてしまった彼の才能と情熱は、一体どうすれば取り戻せるのだろうか?
私は答えの出ない問いに胸を締め付けられながら、ただ青ざめた顔で立ち尽くすことしかできなかった。
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