第6話:愛執柔軟剤で、ほどよい甘さに仕上げます
「店主さん!! たすけてください!!」
ガラガラと音を立てて『泡影堂』の引き戸を開け放ち、私は叫ぶように飛び込んだ。
薄暗い店内、独特の薬品めいた甘酸っぱい香り。カウンターの奥から、先日の老店主がゆっくりと姿を現す。眼鏡の奥の目を細め、私のみっともなく乱れた前髪と青ざめた顔を見つめると、彼は深くため息をついた。
「……おやおや、お嬢さん。やはり、洗いすぎてしまいましたか」
「はい……! 粘着質は綺麗に落ちたんです! でも、彼から情熱も嫉妬も何もかもが消えて、スカスカの雑巾みたいになっちゃって……! 私のこと、好きかすら分からないくらい無関心になっちゃったんです!」
私はカウンターに両手をつき、必死の思いで詰め寄った。
「元に戻してください! 彼の『重さ』を……あのぬめぬめした粘着質を、もう一度彼に戻したいんです!」
店主は静かに首を振った。
「お嬢さん、一度排水溝へ流れてしまった汚れを、そのまま元に戻すことはできません。落ちたものは、落ちたのです」
「そんな……じゃあ、粘理はあのまま……!?」
「ですが」
店主はカウンターの下から、今度はピンク色の擦りガラスでできた小さな小瓶を取り出した。
中には、とろりとしたミルキーピンクの液体が満たされている。甘く、どこかすこし重たい、花のような香りが微かに漂った。
「洗いすぎて固く干からびた生地には、何が必要かお分かりですね?……【愛執柔軟剤】です」
「柔軟剤……!」
「ええ。これは彼自身の感情を復活させるものではありません。あなたの注ぐ『愛』を吸収しやすくし、彼の心を柔らかく解ぐすための仕上げ剤です。これをキャップ半分、ぬるま湯に溶かして彼に含ませなさい」
店主は静かな声で、しかし厳重に警告を付け加えた。
「ただし、今度の塩梅は非常に難しい。与えすぎれば、今度は甘やかしすぎて骨抜きになり、逆に少なすぎればカサカサのままです。……あなたの『さじ加減』にかかっていますよ」
私はピンクの小瓶を胸に抱きしめ、何度も頭を下げて店を飛び出した。
***
その日の夜。
私はリビングで、念入りに準備を進めていた。
テーブルの上には、粘理の大好物である手作りのハンバーグ(チーズのせ)と、彼が好きな濃厚なココア。
そしてお風呂場には、指定通りキャップ半分の『愛執柔軟剤』を溶かした、ほんのりピンク色の温かいお湯が張られている。
「粘理、お風呂沸いたよ」
「あ、ありがとう紡ちゃん。じゃあ、入ってくるね」
相変わらず起伏のない、澄み切った声で粘理が脱衣所へ向かう。
私は彼の後ろ姿を、祈るような心地で見送った。
(お願い……! ほんの少しでいいから、彼に『甘さ』と『熱』を……!)
お風呂から聞こえる静かな湯音。
10分後、湯上がりで髪を拭きながら出てきた粘理の様子は——一見すると、まだ変化がないように見えた。
「さっぱりしたよ、紡ちゃん」
「……うん。あのね、粘理。夕飯、作っておいたから食べよう?」
ダイニングテーブルにつき、二人でハンバーグを口に運ぶ。
粘理は静かにナイフとフォークを動かし、一口食べると、ふっと手を止めた。
「どう……? 味、薄いかな?」
「ううん……」
粘理がゆっくりと私を見た。
その瞳の奥に、ほんの微かに、ぽっと小さな灯火のような「温もり」が宿り始めていた。
「すごく、おいしい……。紡ちゃん、僕のためにこんなに時間をかけて作ってくれたの……?」
「うん。粘理が好きなチーズ、たくさん乗せたんだよ」
私の言葉を聞いた瞬間、粘理の眉が八の字に歪んだ。
瞳にじわじわと涙が溜まっていく。
「紡ちゃん……っ」
「えっ、粘理!? どうしたの!?」
「ううん……僕、すごく嬉しいんだ……。紡ちゃんが僕のためにご飯を作ってくれて、一緒のテーブルで食べてくれて……なんだか、胸がすごくキュッとして、温かくて……」
ボロボロと大きな涙をこぼしながら、粘理がソファーから立ち上がり、私のもとへ歩み寄ってきた。
ぬるり、と。
久しく感じていなかった、あの「重たい体温」が私を包み込む。
「ツムちゃん……っ」
「粘理……」
彼は私の膝の上に頭を乗せ、まるで幼子のように私の腰にしがみついてきた。
以前のような強圧的な束縛ではない。けれど、冷たく乾いていた体にはっきりと「甘え」と「温もり」が戻ってきている。
「紡ちゃん……僕、君のことがすごく好きみたいだ。胸が苦しいくらい……好きで、愛おしくて、離れたくない……」
「粘理……っ!」
私は彼の柔らかい髪を抱きしめた。
戻ってきた。あの無関心で無機質な彼じゃない。私を求めてくれる、熱を持った粘理だ!
……だが。
私は抱きしめながら、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
「紡ちゃん……ねえ、ずっとこうしてていい? ご飯食べるのやめて、朝までずっと紡ちゃんを抱きしめてていい……? ねぇ……」
「あ、えっと……ご飯は食べよう? 冷めちゃうから……」
「嫌だ……ご飯より紡ちゃんがいい……。紡ちゃんの匂い、落ち着く……。あ、ねえ、明日の仕事、お休みして僕と一日中ベッドにいようよ……?」
すり、すりと首筋に鼻先を押し当ててくる粘理。
その声は甘く、トロトロに溶けたチョコレートのように濃厚だった。
柔軟剤が効きすぎている。
脱しすぎてカサカサだった生地が、柔軟剤を吸い込みすぎて、今度はフニャフニャのトロトロに柔らかくなりすぎてしまったのだ!
「粘理、だめだって! 明日は大事な会議が——」
「やだぁ……紡ちゃんが行くなら、僕、紡ちゃんのスーツの裾に噛みついて離れない……っ」
「幼稚園児か!!」
抱きついて離れない粘理をなだめすかし、なんとかハンバーグを食べさせ、布団に押し込むまでに二時間かかった。
夜。ベッドの中で、完全に私に手足を絡めて「テディベア抱き」をしてくる粘理の体温を感じながら、私は深く息を吐いた。
無関心も地獄。
過剰な甘え(ふにゃふにゃ)も、体力を削られる。
私が目指すべきは——
適度な自立心(脱脂)と、適度な甘さと熱量(柔軟剤)が合わさった、黄金のバランスだ。
(洗剤と柔軟剤の……配合比率……!)
私は暗闇の中、スマホのメモ帳を開いた。
『月曜日:脱脂剤キャップ半回。水温38度』
『木曜日:柔軟剤キャップ三分の一。抱擁時間10分』
まるで化学実験の研究者のように、私は彼の「快適な粘着度」をコントロールするための黄金比率模索計画を打ち立てたのだった。




