第5話:すすぎ過ぎた彼氏、完全に色落ちする
「……あ、うん。行ってらっしゃい、紡ちゃん」
玄関で靴を履く私の背中に掛けられたのは、あまりにも爽やかで、あまりにも温度のない声だった。
振り返ると、粘理がドアの脇に立ち、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
かつての彼なら、ここで私にすがりつき、「行かないで!」「会社に電話して熱が出たって言って!」「せめてあと三回抱きしめさせて!」と必死の抵抗を試みていたはずだ。
だが、今の粘理は私と一メートル以上の距離を保ったまま、まるで親切なマンションのコンシェルジュのように佇んでいる。
「粘理……今日、私、会社の懇親会があるから遅くなるって言ってたよね?」
「うん、聞いてるよ。お酒飲みすぎないようにね。楽しんできて」
「……男の同僚もたくさんいるんだけど」
わざと、少し意地悪な言い方をしてみた。
以前の彼なら、そのフレーズを聞いただけで目が血走り、「誰!? どの男!? 紡ちゃんの隣に座ったら許さないからね!?」とスマホのGPSを連打していたはずの言葉だ。
しかし、粘理は首を少し傾げ、困ったような、けれど完璧に整った笑顔を見せた。
「そっか。仕事の付き合いも大切だもんね。気をつけて行ってきてね」
……怒らない。
焦りもしない。
嫉妬の「し」の字すらうかがえない。
私は喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えながら、「……行ってきます」と呟いてドアを閉めた。
パタンと静かな音が響く。
エレベーターを待ちながら、私は自分の手を見つめた。
胸の中に広がるのは、憧れていたはずの「平穏」ではない。底冷えするような、恐ろしい虚無感だった。
***
その夜。居酒屋での懇親会は、まったく頭に入ってこなかった。
同僚たちが仕事の愚痴や恋愛トークで盛り上がる中、私は何度もスマホの画面を確認していた。
画面は、寂しいほどに静まり返っている。
【着信履歴:0】
【新着LINE:0】
かつてあれほど私を悩ませ、ウンザリさせていた「毎分LINE」が、一通も来ない。
「どこにいるの?」「誰と隣?」「今すぐ声が聴きたい」という、あの重苦しいメッセージの嵐が、嘘のように止んでいた。
「浅野さん、全然飲んでないじゃん。どうしたの、体調悪い?」
隣に座っていた営業部の佐藤さんが、心配そうに顔を覗き込んできた。
佐藤さんは爽やかで気さくな同僚だ。粘理が「アイツは紡ちゃんを狙ってる!」と勝手に目の敵にしていた人物でもある。
「あ、佐藤さん。ううん、ちょっと考え事してて……」
「へえ、彼氏とケンカでもした? 浅野さんの彼氏って、すごく愛が重いんだっけ?」
「……あはは、まあ、昔はね」
苦笑いを浮かべながら、私はグラスのウーロン茶を口に含んだ。
そう、「昔は」重かったのだ。ほんの数日前までは。
その時、私のスマホがブブッと震えた。
(粘理……!?)
弾む心で画面を開く。しかし、表示されたメッセージを見て、私の心臓は冷たく冷やし中華の氷のように冷え切った。
『城山粘理:今日はお夕飯いらないって言ってたから、自分の分だけ簡単に済ませたよ。気にせずゆっくり楽しんでね。おやすみなさい』
文末につけられた、絵文字一つないシンプルな句点。
「ゆっくり楽しんでね」
本気で言っている。何の裏もなく、何の嫌味もなく、心から私の自由を尊重して、自分は先に寝ようとしている。
私は佐藤さんに「すみません、ちょっとお手洗い」と言い残し、店を飛び出した。
夜の街を、走った。
ヒールがアスファルトを叩く音が、夜の静寂に虚しく響く。
違う。こんなの、私が好きになった粘理じゃない。
私が欲しかったのは、「私を大切にしてくれる彼氏」であって、「私に無関心な聖人」じゃない。
洗剤は、彼の粘着質だけを洗い流したのではなかった。
彼の心にあった、私への「執着」も、「情熱」も、「欲」も……すべての感情の水分を奪い去り、カラカラに乾かしてしまったのだ。
息を荒く切らせてマンションに辿り着き、鍵をガチャガチャと鳴らしてドアを開ける。
「粘理……っ!」
静まり返ったリビング。
明かりは消えており、ソファーの上に、ぽつんと粘理が座っていた。
彼は暗闇の中で、静かに窓の外の夜景を眺めていた。
「紡ちゃん? お帰り。早かったね、何かあったの?」
立ち上がった彼の声には、やはり何の感情の波もなかった。
心配する風でもなく、帰ってきたことを喜ぶ風でもない。ただ「事実」として私を迎えている。
「なんで……なんで電気がついてないの?」
「あ、うん。なんだか部屋を明るくする気になれなくてさ。……ねえ、紡ちゃん」
粘理がゆっくりとこちらに歩いてきた。
暗闇の中で、彼のシルエットが浮かび上がる。
「僕、なんだか最近……すごく体が軽いんだ」
「……え?」
「前はね、紡ちゃんがいないと胸が張り裂けそうなくらい苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、何かを描かずにはいられないような……そういうドロドロした塊が、お腹の底にずっとあったんだ」
粘理は自分の胸に手を当て、どこか遠い目をした。
「でもね、あの日のお風呂に入ってから……その塊が、綺麗に消えちゃったんだ。すごく静かで、穏やかで、何の不安もない。紡ちゃんが誰とどこで何をしていても、全く気にならないんだ」
カサッ、と乾燥した落ち葉が擦れ合うような声だった。
「僕、すごく『良い彼氏』になれたでしょう? 紡ちゃんを困らせない、物分りの良い彼氏に」
粘理は満足そうに、けれど全く光の宿っていない瞳で微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、私の胸の中で、何かがパチンと弾けた。
「……嫌だ」
「え?」
「嫌だよ、そんなの!!」
私は叫びながら、粘理の胸に飛び込んだ。
以前の私なら絶対に自分からしなかったような勢いで、彼の首に両腕を回し、力いっぱい抱きしめた。
——冷たい。
彼の体温はあるはずなのに、触れ合った肌から伝わってくる「熱」が、決定的に欠落していた。
かつて私を押し潰さんばかりにまとわりついてきた、あの湿度100%の重苦しい情念が、どこにも存在しない。
「嫌だよ粘理! 嫉妬してよ! 『佐藤って男と何話してたの』って怒ってよ! 『俺以外の男を見るな』って束縛してよ!!」
私の叫びに、粘理は困惑したように私の背中に手を回した。
ポン、ポン、と優しく、まるで泣いている子供をあやすような、丁寧で距離のある手袋越しのようなタッピング。
「どうしたの、紡ちゃん。そんなことしたら、また紡ちゃんを困らせちゃうよ。僕は紡ちゃんに嫌われたくないんだ。だから、もう粘着質にはならないよ」
「そうじゃない! そうじゃないの!!」
私は彼の胸に顔をうずめて泣いた。
自分がどれほど愚かなことをしたのか、痛いほど理解した。
服の汚れを落とすために、生地そのものをズタズタに破いてしまったのだ。
漂白剤を使いすぎて、お気に入りの服の色を完全に抜き去り、ただの真っ白な雑巾に変えてしまったのだ。
彼の「粘着質」は、私にとっては鬱陶しい毒だったかもしれない。
けれど同時に、それこそが城山粘理という人間の「情熱の源泉」であり、私を愛するエネルギーそのものだったのだ。
それを私は、勝手な都合で「汚いもの」として洗い流してしまった。
「ごめんね……ごめんね、粘理……!」
「ううん、紡ちゃんが謝る必要なんてないよ。僕は今、すごく幸せだから」
無感情な優しさで私を撫でる粘理の手。
その優しさが、どんな暴言よりも深く私を傷つけた。
このままじゃダメだ。
彼が完全に「色落ち」して、透明な透明な空気になって消えてしまう前に。
私は涙を拭い、決意の目で粘理を見上げた。
脱しすぎたなら、戻せばいい。
洗いすぎてカラカラになった服には、何をすればいい?
——仕上げだ。
ふんわりと柔らかく、もう一度あの熱と甘さを取り戻すための「柔軟剤」が要る。
「粘理……明日、もう一回だけ……一緒にお風呂に入ろう?」
私の言葉に、粘理は「うん、いいよ。紡ちゃんがそうしたいなら」と、相変わらず感情の起伏のない声で頷いた。
私は夜が明けると同時に、再びあの裏路地へと走ることを誓った。
『泡影堂』の店主のもとへ。
このカサカサに乾いてしまった彼を、もう一度愛おしい「重さ」で満たすための、次なる魔法を手に入れるために。




