第4話:【歓喜】すっごい! 粘着質が綺麗サッパリ落ちてる!
奇跡の朝だった。
いつもなら、目覚まし時計が鳴る前に粘理の抱き枕状態にされ、重みと熱気で目を覚ますのが日課だった。
私の首筋に顔を埋め、「紡ちゃん……離さない……どこにも行かないで……」と寝言でまで束縛してくる彼を、えいやと押し退けるところから私の朝は始まるはずだったのだ。
だが、今朝は違った。
ふんわりとした心地よい朝日を浴びて目を覚ますと、隣のスペースは綺麗に空いていた。
ベッドから抜け出し、リビングへと向かう。キッチンからは、トーストがこんがりと焼ける香ばしい匂いと、目玉焼きがジュウジュウと弾ける心地よい音が漂っていた。
「あ、おはよう、紡ちゃん」
エプロン姿の粘理が、爽やかな笑顔で振り返る。
濡れた黒髪をサッパリと整え、洗いたてのTシャツを着た彼は、まるで爽やかな朝のコーヒーのCMから飛び出してきたかのような清涼感をまとっていた。
「おはよう、粘理。……早起きだね?」
「うん。紡ちゃん、最近残業続きで疲れてそうだったからさ。朝くらいゆっくり寝かせてあげたくて。ほら、朝ごはんできてるよ」
テーブルの上には、綺麗な半熟の目玉焼きにカリッと焼かれたベーコン、彩り豊かなサラダ、そして淹れたてのハンドドリップコーヒーが並べられていた。
私は呆然と椅子に座った。
いつもなら、私がキッチンに立つと後ろからぬめっと抱きついてきて、「紡ちゃんの手料理もいいけど、俺、紡ちゃんを食べたいな~」なんて品のない戯言を囁いてくる男だ。
それがどうだ。適切な距離感を保ち、私を心から気遣い、完璧な朝食を提供してくれている。
スマホを確認すると、画面には「通知なし」。
GPSアプリを開いてみると、彼が自ら共有設定を解除したらしく、「パートナーが共有を停止しました」との表示が出ていた。
「あ、GPSね」
コーヒーを注ぎながら、粘理が優しく微笑む。
「今までごめんね。紡ちゃんのプライベートを監視するみたいな真似して。冷静に考えたら、すごく失礼で重いことしてたなって反省したんだ。お互いの時間を尊重し合おう」
神…………!!! 神彼氏が爆誕生してしまった…………!!!
私の心の中で、鳴り響くファンファーレ。
『愛執脱脂剤』の威力は本物だった。あの10分間の入浴で、彼の全身から分泌されていた「ドロドロした粘着質」は見事に分解され、純度100%の「優しくて最高に顔が良い理想の彼氏」だけが残留したのだ。
あたたかいコーヒーを口に含みながら、私は幸福感で胸がいっぱいになった。
これだ。私が欲しかったのは、この健全で、心地よくて、自慢できる恋人関係なのだ。
***
その週末。私たちは久しぶりに街へデートに繰り出した。
「紡ちゃん、歩幅、速くない? 大丈夫?」
「うん、平気! 粘理、今日はどこ行く?」
「紡ちゃんが行きたいって言ってた、新しい文房具のセレクトショップに行こうか。君が仕事で参考になりそうなカフェも調べておいたよ」
歩道側を当たり前のように私が歩くよう誘導し、重い荷物はサッと持ってくれる。
手をつなぐ手も、以前のようにギュウギュウと握りつぶさんばかりの力ではなく、私の指を痛めない優しい力加減だった。
ショップで私が新作の万年筆を熱心に見ている間も、粘理は少し離れた場所で穏やかな笑みを浮かべて待ってくれていた。
以前なら「ねえ紡ちゃん、ペンより俺を見てよ」と袖を引っ張られたり、店員(特に男性)と少し会話しただけで後から「あの男と何話してたの? 連絡先交換してないよね?」と詰め寄られたりしたものだ。
それが、今の粘理はどうだろう。
私が男性店員から商品の説明を受けて戻ってきても、爽やかな笑顔で迎え入れてくれた。
「いいペン見つかった?」
「うん! すごく描き心地が良くってさ。……あ、男性の店員さんと結構長話しちゃったけど、気にならなかった?」
試しに、少し揺さぶりをかけてみた。
以前の彼なら「気になる! すごく嫌だった! 今すぐ消毒して!」と大騒ぎしたはずだ。
しかし、粘理はフッと目元を緩め、心底嬉しそうに言った。
「ううん、全然。紡ちゃんが楽しそうに仕事の話をしてるのを見るの、すごく好きだから。良い買い物ができてよかったね」
その瞳には、1ミリの疑念も、嫉妬の陰りもなかった。
完璧だ。完璧すぎる。成熟した大人の包容力。
私たちはカフェに入り、美味しいパンケーキを食べ、他愛もない会話で弾ませた。
嫌な束縛もない。スマホをチラチラ確認されることもない。ただ目の前にいる私との時間を楽しんでくれている。
(ああ……幸せだな。私、本当に粘理を洗ってよかった)
カフェの窓に映る二人の姿は、どこからどう見てもお似合いの、理想的なカップルだった。
——だが。
日が沈み、夜の帳が下りる頃。
楽しかったデートの帰り道で、私の胸の中に、ちくりとした小さな刺のような違和感が生まれ始めていた。
駅から自宅までの帰り道。
以前なら「紡ちゃんの手、冷たい。ポケットの中で一緒に繋ごう」と強引に手を引き入れられたり、「今日はずっと一緒にいられて嬉しかったな、家着いたらまたすぐ抱きしめていい?」と耳元で甘く囁かれたりしていたポイントだ。
だが、今の粘理は、私と拳一つ分の距離を保ったまま、整った横顔で前を見据えて歩いている。
「……ねえ、粘理」
「ん? どうしたの、紡ちゃん」
私は少し立ち止まり、彼のコートの袖をちょんと引っ張ってみた。
以前の彼なら、これだけで「えっ! 紡ちゃんから甘えてくれた!?」と目を見開き、狂喜乱舞して抱きついてきたはずだ。
しかし、粘理は静かに足を止め、優しく微笑むだけだった。
「どうしたの? 足、痛くなっちゃった?」
「ううん……そうじゃなくて」
私は彼の顔を見上げた。
街灯の光に照らされた彼の顔は、相変わらず国宝級に整っている。
私を見つめる目も、柔らかく優しい。
……優しい。優しすぎるのだ。
そこに「熱」がない。
私を貪り尽くしたいというようなあの狂気的な視線も、私のすべてを独占したいという強烈なエゴも、綺麗に削ぎ落とされている。
「……粘理はさ、私と一緒にいて、楽しい?」
「もちろん、すごく楽しいよ。紡ちゃんが笑顔でいてくれるのが、僕の一番の幸せだからね」
粘理は私の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
その手つきは丁寧で、温かい。
だけど……どこか、まるで「大切に扱うべき壊れ物」に接しているかのような、遠い距離感を感じてしまう。
家に着き、服を着替えてソファーに座る。
粘理は「温かいお茶淹れるね」と言ってキッチンへ向かった。
私はソファーの上で膝を抱えた。
(何だろう、この感じ……)
欲しかったのは、この快適さだったはずだ。
粘着質が取れて、ストレスなく笑い合える関係。
束縛も、過剰な連絡も、気味の悪いスライドショーもない、平穏な日々。
『好き』だけが残った、理想の彼氏。
なのに。
胸の奥が、どこかすーすーと寒かった。
キッチンからお茶を持って戻ってきた粘理が、私の隣に座る。
ソファーの沈み込み。
彼との距離、約20センチ。
以前なら、隙間なく密着してきて、私の上に覆いかぶさる勢いでくっついてきた場所だ。
「はい、紡ちゃん。ハーブティー」
「ありがとう……」
お湯のみを受け取りながら、私は彼の横顔を盗み見た。
彼は自分のカップを手に取り、静かに一口飲み、テレビのニュース番組を眺めている。
穏やかで、静かで、品のある空間。
……足りない。
私の我儘な心が、愚かにもそう叫んでいた。
あんなに嫌だったはずの「粘着質」。
息が詰まるほど重かった「束縛」。
鬱陶しかった「1分おきのLINE」。
それらがすべて綺麗に洗い流された結果、目の前にいるのは——私に深入りしようとしない、あまりにも洗練されすぎた「誰にでも優しい好青年」だった。
残ったのは「好き」だけ。
そう思っていた。
けれど、私たちが失ってしまったのは、彼の中にあった「情熱」そのものだったのではないか。
テレビの画面をぼんやり見つめる粘理の横顔を見つめながら、私は手に持ったお茶の温もりを忘れるほど、冷や汗をかいていた。
洗剤は、効きすぎていたのだ。
彼の『粘着質』という名の油分を根こそぎ落とした結果、彼の感情そのものが、カサカサに色落ちし始めていた。
私は、恐る恐る彼の手に自分の手を重ねた。
「粘理……?」
「ん? なに、紡ちゃん」
振り向いた粘理の瞳には、やはり何の写真も写っていないかのように、ただ穏やかな光だけが浮かんでいた。
私の恐怖は、ここから本格的に始まろうとしていた。
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