第3話:裏路地のクリーニング屋で『概念洗剤』を手に入れた
「……概念……クリーニング……?」
深夜二時。隣でスースーと規則正しい寝息を立てる粘理の顔を見つめながら、私はベッドの中でスマホの画面を食い入るように見つめていた。
画面に表示されているのは、検索エンジンの最深部で見つけた、デザインが平成初期で止まっているような怪しい個人ブログだ。
『人の執着、嫉妬、未練——目に見えない心の“汚れ”にお悩みの方へ。裏路地のクリーニング店【泡影堂】が、あなたの愛を真っ白に洗います』
普通なら「怪しすぎるだろ」と速攻でブラウザを閉じるレベルの胡散臭さだ。
だが、今の私には藁にもすがる思いがあった。
ふと横を見ると、粘理が寝返りを打ち、私のウエストにぬるりと腕を回してきた。寝ている間すら私を逃がすまいとする強い力。耳元で聞こえる「ツムちゃん……離れないで……」という寝言。
(お願いだから、私に熟睡させて……!)
限界だった。私は静かにベッドを抜け出し、ブログに書かれていた住所をメモした。
***
翌日の仕事終わり。
私は会社帰りに、指定された下町の繁華街から一本外れた、街灯もまばらな裏路地を歩いていた。
古びた居酒屋や廃ビルが立ち並ぶエリアの奥、ぽっかりと開いた路地の突き当りに、その店はあった。
レトロなガラス戸。上部に掲げられた木製の看板には、達筆な字で『泡影堂』と書かれている。
ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、カランカランと乾いた鈴の音が響いた。
店内に一歩足を踏み入れると、ツンとした独特の甘酸っぱい香りが鼻をついた。
普通のクリーニング店なら漂うはずのポリエステルの匂いやアイロンの熱気ではなく、どこか薬品めいた、けれどどこか懐かしい不思議な香りだ。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から現れたのは、白髪を綺麗にオールバックにした、老紳士風の店主だった。濃い紺色のエプロンを付け、胸元には銀色のハサミの刺繍が入っている。
「あの……ネットで見て来たんですけど。ここって、服以外の……その、目に見えないものを洗ってくれるって……」
自分で言っていて「私、ついに頭がおかしくなったのかな」と不安になってくる。
しかし、老店主は全く驚く様子もなく、細いフレームの眼鏡を押し上げながら、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ええ、いらっしゃいませ。当店は衣類はもちろんのこと、人の心にへばりついた『過剰な感情』の染み抜きを専門としております。……して、お嬢さん。あなたのお悩みは?」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
店主の瞳が、まるで私の背景に透けて見える「粘理の執着のオーラ」を完全に見抜いているように感じられたからだ。
「彼氏が……すごく粘着質なんです」
「粘着質」
「はい。顔も声も優しさも大好きなんです。でも、重すぎて、息が詰まりそうで。できれば彼のその『ドロドロした粘着質』だけを洗い流して、純粋な『好き』の感情だけを残したいんです」
一気に捲し立てた私を、店主は静かに見つめた。
そして、くっくっと肩を揺らして笑った。
「なるほど。『好き』はそのままに、『粘着』だけを落としたいと。欲深い、だが非常に愛おしいお悩みですね」
店主は奥の棚に向かい、小さな木箱を一つ取ってきた。
カウンターの上に置かれた木箱が開かれると、中には擦りガラスでできた小瓶が一つ納められていた。
中に入っているのは、蛍光の青色に怪しく光る、トロリとした液体だ。
「これは【愛執脱脂剤】。人間の皮膚から分泌される過剰な執着、重すぎる愛の『油分』を強力に分解し、無害な水へと昇華させる特殊な概念洗剤です」
「えっ……本当にそんなものが!?」
「ええ。ただし、使い方は厳重に守っていただきます」
店主は真顔になり、人差し指を立てた。
「お風呂のお湯に、この薬液をキャップ一杯だけ混ぜてください。そして、彼をその湯船に最低10分間浸からせること。……それ以上でも、それ以下でもいけません」
「10分……ですね」
「それと、これはあくまで『脱脂剤』です。汚れを落としすぎると、生地——つまり彼の心がカサカサに傷ついてしまう。効果が出たら、しっかりと様子を見てあげてくださいね」
私は小瓶をしっかりと握りしめた。
ズシリと重いガラスの感触。これが、私の平穏な日常を取り戻すための「魔法の洗剤」なのだ。
「お会計は?」
「初回のお試しですので、結構ですよ。……ただ、もし仕上がりに満足されたり、あるいはトラブルが起きた際は、いつでもお越しください」
店主の怪しげな笑みに送られながら、私は逃げるように『泡影堂』を後にした。
***
「ただいまー」
「ツムちゃぁぁん!! 遅い! 今日は18分も遅い! 会社の前で張ろうかと本気で悩んだよ!?」
家に着くやいなや、案の定、粘理がぬめっと抱きついてきた。
いつもの私なら「もー、重いってば!」とイライラするところだが、今日の私は違う。ポケットの中にある『愛執脱脂剤』の小瓶を感じながら、余裕の笑みを浮かべることができた。
「粘理、遅くなってごめんね。お詫びにさ、今日はおしゃれなバスソルト用意したの」
「バスソルト? 紡ちゃんが俺のためにお風呂沸かしてくれたの!?」
「うん。すごくリラックスできるやつ。先に入ってて? 私、お夕飯の仕上げするから」
「行く! 紡ちゃんの愛がこもったお風呂、全身で味わってくる!」
粘理は単純極まりない笑顔を浮かべ、脱衣所へと走っていった。
私は脱衣所に滑り込み、粘理が服を脱いでいる隙に、こっそりと風呂場へ向かった。
湯船の蓋を開けると、温かい湯気が立ち上る。
私はポケットから『愛執脱脂剤』を取り出し、慎重にキャップを開けた。
甘い柑橘類と、どこか薬品めいた冷たい香りが広がる。
トポトポ……。
キャップ一杯分の青い液体を湯船に注ぎ込む。
すると、透明だったお湯が一瞬で鮮やかなエメラルドグリーンに染まり、キラキラと細かな泡が弾け始めた。
「紡ちゃん、入るよー……わあ、すごい色! これ何のリラックスソルト?」
「えっとね、『地中海のミント&シトラス』だよ。10分間、しっかり肩まで浸かってね。10分計るから!」
「はーい! 紡ちゃんの言うことなら何でも聞くよ!」
粘理は疑う様子もなく、ザブンとエメラルドグリーンのお湯に飛び込んだ。
私は脱衣所のドアを少しだけ開け、タイマーを「10分00秒」にセットしてスタートボタンを押した。
ピピ、ピピ、とカウントダウンが始まる。
湯船の中で、粘理が「はぁ~、なんかすごく気持ちいい……」とうっとりした声を漏らしている。
よく見ると、お湯の表面に、黒っぽい濁りのようなものがジュワジュワと浮き上がってきているのが見えた。
(あれが……粘理の『粘着質』……!?)
水と油が分離するように、粘理の体からドロドロとした執着の概念が削ぎ落とされ、青いお湯に溶けて消えていく。
粘理自身の表情も、分刻みで変化していった。
3分経過。
眉間に刻まれていた「私を束縛したい」という微かな力みが消える。
6分経過。
いつも私を舐め回すように見ていた瞳のギラつきが失われ、クリアで澄んだ光を宿し始める。
9分経過。
彼の全身から発せられていた、あの熱苦しいほどの「湿度」が綺麗に消え去り、まるで高級ホテルのラウンジにいるかのような、爽やかで知的なオーラが立ち上り始めた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ!
10分のタイマーが鳴り響く。
「はい、粘理! 10分経ったよ、上がって!」
「あ……うん。そうだね」
お湯から上がってきた粘理は、タオルで体を拭きながら、ゆっくりと脱衣所に出てきた。
私は固唾をのんで彼を見つめた。
濡れた髪を軽くかき上げる仕草。
引き締まった体に羽織ったバスローブ。
そして、私に向けられたその瞳。
「粘理……? どう……?」
粘理は、私を見つめた。
いつもなら「紡ちゃぁぁん!」と叫びながら飛びついてくるはずの彼が。
すっと背筋を伸ばし、優しく、けれどどこか適度な距離感を保ったまま、穏やかに微笑んだのだ。
「ありがとう、紡ちゃん。すごくさっぱりしたよ。お風呂、気持ちよかった」
その声には、あの「ぬめり」が一切なかった。
澄み切った秋の空のように爽やかで、心地よく耳に届く声。
彼は私の肩にぽんと優しく手を置いた。触れ合う手は温かいけれど、決して私を拘束しようとはしない。
「夕飯、準備してくれてたんでしょ? 一緒に食べようか。あ、僕が手伝うよ」
か、完成した…………!!!!
私の心の中で、全米が泣いたレベルの大歓声が巻き起こった。
粘着質が、綺麗サッパリ落ちている!
それなのに、私を見る目は優しく、温かい「好き」の感情に満ちあふれている!
執着という名の汚れだけを洗い流し、純粋な愛情という生地だけを残した、完璧な仕上がり。
「うん! ご飯にしよう!」
私は狂喜乱舞したい気持ちを必死に抑え、完璧な彼氏と化した粘理の隣に並んだ。
これが、私の欲しかった関係だ。
重すぎず、軽すぎず、お互いを尊重し合える大人な恋愛。
小瓶の洗剤は、まだ半分以上残っている。
これがあれば、私はもう彼の粘着質に怯える必要はないのだ。
ダイニングテーブルで笑顔で会話を交わす粘理を見つめながら、私は最高の達成感に酔いしれていた。
——しかし、この時の私はまだ気づいていなかった。
『泡影堂』の店主が言っていた、あの言葉の意味を。
『汚れを落としすぎると、生地がカサカサに傷ついてしまう』
強力すぎる脱脂剤が、彼の心から「大切な何か」まで一緒に洗い流してしまっていることに、私はまだ気づいていなかったのだ。




