第2話:ゴシゴシ洗ったら、ちょっとだけ爽やかになりました
「ツムちゃん、本当に俺の背中洗ってくれるんだよね? 夢じゃないよね? 嘘だったら俺、脱衣所で泣くよ?」
「嘘じゃないってば。ほら、暖簾くぐるよ」
日曜日の夕方。夕暮れ時の赤提灯が灯り始めた下町の銭湯『富士の湯』。
男湯と女湯に分かれる手前で、粘理は私の手をぎゅっと握りしめたまま、離そうとしなかった。まるで今から今生の別れを迎えるかのような重々しい表情だ。
「……じゃあ、十五分後にはロビーでね?」
「十五分!? 長い、長すぎる! 紡ちゃんが中で他の女の人と仲良くなって俺のこと忘れたらどうするの!?」
「忘れるわけないでしょ! ほら、早く行って!」
私は強引に手を振り払い、女湯の暖簾をくぐった。
背後から「ツムちゃぁぁん……」という哀切な声が響いてきたが、見なかったことにする。
脱衣所で服を脱ぎながら、私はバッグから持参した「秘密兵器」を取り出した。
ドラッグストアで吟味に吟味を重ねて購入した、スクラブ入りのボディーソープ。さらに、男ものの頑固な皮脂汚れを根こそぎ落とすと噂の、硬めのナイロンボディタオル。
(今日は貸し切り状態の家族風呂を予約してある……勝負はそこからだ)
実は『富士の湯』には、事前に予約すれば入れるレトロな家族風呂(貸し切り風呂)があるのだ。公共の場では流石に彼の背中を力いっぱいゴシゴシ洗うわけにはいかない。
十五分後、ロビーで合流した粘理は、案の定しょんぼりと肩を落として待っていた。
「紡ちゃん……十五分と三秒だった。三秒も遅かった……」
「はいはい、ごめんね。さ、家族風呂の鍵もらったから行くよ」
「えっ!? か、家族風呂!? 紡ちゃんと一緒にお風呂入るの!?」
一瞬で粘理の目が輝き、尻尾を振りちぎらんばかりの勢いでパッと表情が明るくなる。その現金さに少し毒気を抜かれつつも、私は心の中で「ふふふ」と暗い笑みを浮かべた。
喜ぶのは今のうちだぞ、粘理。
今からお前のその「粘着質」を、根こそぎ洗い流してやるんだから。
脱衣所を経て、湯気が立ち込める家族風呂へ足を踏み入れる。
中央には丸いタイル張りの湯船があり、たっぷりとお湯が注がれていた。
「わあ、すごいね紡ちゃん! 秘密の隠れ家みたい!」
「ね。じゃあ、まずは体洗おうか。粘理、そこに座って」
洗い場のプラスチックの椅子を指さすと、粘理は素直にちょこんと腰掛けた。
背中を向けた彼の姿は、こうして見ると細身だが男らしく、引き締まった綺麗な線を描いている。髪の毛を後ろで軽く結んだ首筋が、どこか無防備で愛おしい。
……いやダメだ、惑わされるな私。
この綺麗な皮ふのすぐ下に、あの「ドロドロの執着」が溜まっているのだ。
「じゃあ洗うよ」
「うん! 紡ちゃん、優しく……あっ!」
ゴシ! ゴシゴシゴシ!!
「痛っ!? 紡ちゃん!? 痛い痛い痛い! なんかすごいい触感のタオル使ってない!?」
「静かに! 頑固な汚れはね、これくらい強めに洗わないと落ちないの!」
私はナイロンタオルにスクラブ入りのソープをたっぷりと泡立て、彼の背中に叩きつけた。
ミントと柑橘系のメントールが弾け、爽やかな香りが狭い浴室に充満する。
「うおっ、なんかスースーする! 冷たい! 熱い! どっち!?」
「動かないで! 毛穴の奥に溜まった皮脂と、執着と、粘着質を絞り出すんだから!」
「執着!? え、俺の汚れってそんな名前なの!?」
粘理が悲鳴を上げるのも構わず、私は両手に体重をかけて彼の背中を磨き上げた。
肩から腰、首筋から腕まで。まるで焦げ付いたフライパンを金たわしで擦るかのような勢いで、徹底的にゴシゴシと洗い落としていく。
白くモコモコとした泡が、粘理の体を包み込んでいく。
スクラブの粒々が肌の上で転がり、彼の皮膚を刺激する。
「紡ちゃん……っ、痛いけど……なんか、紡ちゃんに力いっぱい触られてると思うと……ちょっと……」
「変なスイッチ入れないで! 黙って洗われなさい!」
シャワーの温度を少し高めに設定し、一気に泡を洗い流す。
バシャーッ!
泡とともに、濁った水滴が排水溝へと吸い込まれていく。
粘理の肌は赤くなっていたが、その表面は信じられないほどキュッキュッと音を立てそうなほどサッパリとしていた。
「ふぅ……ふぅ……。どう、粘理?」
「う、うん……なんか、全身の皮膚が息してる感じがする……。すごくスースーして、頭がカァーッて熱い……」
粘理はポカンとした顔で自分の腕を見つめていた。
その瞳は、いつも私を見つめる時の「ギラギラとしたドロドロの熱」が少し引き、どこかポカーンと澄んでいるように見えた。
(……え? ワンチャン効果あった……?)
「じゃ、じゃあ湯船入ろっか」
「うん……」
二人で湯船に浸かる。
いつもなら、湯船に入った瞬間「紡ちゃぁぁん」と抱きついてきて、私のお腹や太ももに手を回し、お湯の中でねっとりとしたスキンシップを図ってくる粘理だ。
だが、今の上半身を真っ赤にした粘理は——。
お湯の端っこに静かに浸かり、ぼんやりと天井のペンキ絵(富士山)を眺めていた。
「……粘理?」
「ん? なあに、紡ちゃん」
振り向いた彼の顔には、いつもの粘着質な笑みがない。
ただの、お風呂に入って「極楽極楽」と思っている、爽やかな青年の顔だった。
「あの……抱きついてこないの?」
「んー。なんか今、全身がスースーしてサッパリしててさ。触れ合うとちょっとヒリヒリしそうだし……それに、こうしてお風呂に浸かってるだけで十分幸せだなって思って」
落ちてるーーー!!?
私の心の中で歓喜の悲鳴が上がった。
落ちてる! 確実に落ちてる! あの「1秒でも肌を触れ合わせていないと死ぬ病」みたいな粘着質が、スクラブとナイロンタオルで物理的に削ぎ落とされたんだ!
「そ、そうなんだ……。ふ~ん、そっか……」
平然を装いながら、私は心の中でがッツポーズを決めた。
すごい。大発見だ。粘着質とは、精神的な問題ではなく「皮脂と角質に付着した概念の汚れ」だったのだ!
その日の帰り道。
夜風が心地よく、二人の頬を撫でる。
いつもなら私の手を手袋の上からさらに包み込むように握りしめ、「指と指の間まで密着させたい」と言い出す粘理が、今日は適度な距離を保って並んで歩いている。
手が触れ合うか触れ合わないかの、甘酸っぱい距離感。
彼氏彼女になりたての頃のような、どこかソワソワする清々しい空気。
「紡ちゃん」
「な、なに?」
「今日、すごく楽しかった。背中洗ってくれてありがとう。……なんかね、頭の中のモヤモヤが取れて、すっきりしたよ」
街灯の下で粘理がふっと微笑んだ。
その笑顔には、いつもの執着の陰りは一切なく、ただ純粋な私への好意と優しさだけが満ちていた。
キュン、と胸が跳ね上がる。
(そう! これ! 私が好きなのは、この粘理なの!)
重すぎる束縛も、狂気的な執着もなく、ただ私を好きでいてくれる爽やかな彼氏。
私の目指していた理想の形が、今ここにある。
私たちは笑い合いながらマンションへ帰り、その夜は互いに「おやすみ」と言って、適度な距離感を保ったまま心地よい眠りについた。
——しかし。
奇跡は、長くは続かなかった。
翌日の夕方。仕事から帰宅した私は、玄関を開けた瞬間に絶望することになる。
「ツムちゃぁぁぁぁん!! 遅い! 遅いよぉぉぉ!!」
ドバシャアアッ! と音が聞こえそうな勢いで、粘理が飛びついてきた。
昨日洗ってサッパリしたはずの彼の肌からは、すでにあの独特の「ぬめり」とした執着のオーラが復活していた。
「な、粘理!? なんで!? 昨日洗ったでしょ!?」
「昨日!? 昨日のことなんて昔すぎて覚えてないよ! 紡ちゃんが会社に行ってる八時間、俺がどれだけ寂しかったか分かってるの!? ほら、匂い嗅がせて! 紡ちゃん充電させて!!」
首筋に顔を埋められ、はぁはぁと荒い息を吐かれる。
スマホを取り出すと、LINEの通知は安定の「32件」。
「うそ……嘘でしょ……」
私はがっくりと膝をつきそうになった。
やっぱり、物理的にスクラブで洗うだけじゃダメだったんだ。
人間は汗をかく。皮脂を分泌する。
それと同じように、粘理は時間経過とともに「粘着質」を自家生成して、全身から分泌してしまう体質なのだ。
一日経てば、元通り。
これじゃ、毎日彼をナイロンタオルで皮膚が擦り切れるまで洗わなきゃいけなくなってしまう。そんなの彼の体が持たない。
「もっと……もっと根本から『粘着の素』を分解して洗い流す、特別な洗剤はないの……?」
粘理に抱きつかれながら、私は虚ろな目で天井を見つめた。
ただのボディーソープじゃダメだ。
人間の「性質」そのものに作用する、概念的な洗剤。
衣類のガンコな黄ばみを落とす漂白剤のように、彼の精神からドロドロした執着だけを化学反応で分解してくれるような、そんな夢のような洗剤が——。
「……探さなきゃ」
私は粘理の頭を撫でながら、密かにスマホで怪しいネットの掲示板を開き始めた。
『彼氏 重い 洗い方』
『執着 落とし方 洗剤』
『概念 クリーニング』
藁にもすがる思いで検索窓に不穏なワードを打ち込む私を、粘理は「紡ちゃん、俺の頭撫でてくれてる~」と幸せそうに見上げていた。
この時の私はまだ知らなかった。
ネットの海の最果てで、本当にその「夢の洗剤」を扱う怪しげな店を見つけてしまうことを。




