第10話:世界で一番甘い居場所
休日の朝。柔らかな日差しが、広々としたリビングのレースカーテン越しに差し込んでいた。
ふかふかの大きなベッドの中で目を覚ますと、すぐ隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。
少し乱れた黒髪、涼しげな目元を覆う長いまつ毛。私を包み込むように回された、太く温かい腕。
「……蓮くん」
小さく呟くと、寝返りを打った彼が腕の力を強め、私をそっと自分の胸元へと引き寄せた。
「ん……真由さん、おはようございます……」
まだ夢心地のような低く甘い声が、耳元でくすぐったく響く。
「おはよう、蓮くん。もう朝だよ?」
「うーん……あと五分だけ。真由さん充電させてください……」
そう言って、彼は私の首筋に顔を埋め、ぎゅーっと抱きついてくる。まるで大きな甘えん坊の犬のようだ。
世間では「若き天才ヒットメーカー」と称され、連日ニュースや音楽誌を賑わせている男性が、家ではこんなにも甘えん坊で過保護な恋人になるなんて、誰が想像できるだろう。
あの決断から三ヶ月。
私たちは、都内の閑静な住宅街にある日当たりの良い2LDKのマンションで、新たな同棲生活をスタートさせていた。
◇
「はい、真由さん! 今朝の特製フレンチトーストとカフェオレです!」
身支度を整えてリビングへ向かうと、キッチンからエプロン姿の蓮くんが焼きたての朝食を運んできた。香ばしいバターと甘いメイプルの香りが部屋いっぱいに広がっている。
「わあ、美味しそう! いつも作ってもらっちゃって申し訳ないよ……私がお休みの日は、私が作るのに」
私が椅子に座ると、蓮くんは私の向かいではなく、わざわざ隣の椅子を引き寄せてちょこんと腰掛けた。距離が近すぎる。
「ダメです。真由さんは普段、会社で一生懸命働いてるんだから、休みの日は僕に甘やかされててください。……それに、僕が真由さんにご飯を作りたいんです。美味しいって食べてくれる顔を見るのが、僕のイチバンの癒やしなんだから」
「もう……過保護なんだから」
呆れつつも、胸の奥が甘い熱で満たされていく。
智樹といた頃、朝といえば不機嫌な彼の罵倒と、散らかった部屋の片付けから始まっていた。
「お茶持ってこい」「タバコ買ってこい」と命じられ、私が尽くすのは「当たり前」とされ、私自身の感情や体調なんて一度も気遣われたことはなかった。
けれど、蓮くんとの生活は真逆だった。
『真由さん、今日寒かったでしょ? お風呂沸いてますよ』
『会社で何か嫌なことありました? 僕でよければ何でも話してください』
『真由さん、今日も世界で一番可愛いです』
毎日、溢れんばかりの感謝と愛を言葉にして伝えてくれる。
何かをしてもらうたびに「ありがとう」と微笑み、私のことを誰よりも大切に扱ってくれるのだ。
「あ、真由さん、口元にクリームついてます」
「えっ、嘘、どこ――」
指で拭おうとした瞬間、蓮くんの顔が至近距離に迫り、私の頬に柔らかい唇が触れた。
「ん……ッ!?」
「ふふ、取れました。ごちそうさまです」
悪戯っぽく笑う蓮くんに、私の顔は一瞬で熟したトマトのように真っ赤になった。
「れ、蓮くん! 朝から何やってるの……!」
「だって、真由さんが隙だらけで可愛すぎるのが悪いんですよ? 僕、真由さんに関しては全然我慢きかないんですからね」
そう言って、蓮くんは私の手を自分の頬に押し当て、甘えるようにすり寄せてくる。その瞳には、隠しようもない深い溺愛の光が宿っていた。
かつての私が知っていたのは、相手の顔色を伺い、自分を削りながら尽くすだけの「偽りの愛」だった。
けれど今、私を包み込んでいるのは、どこまでも温かく、満たされた「本物の愛」だった。
◇
午後から、私たちは二人で買い物に出かけた。
作曲家として売れっ子になった今も、蓮くんは週に一度だけ『酒処 ひろ』での居酒屋バイトを続けている。
「僕の原点だから」と言って、お店のマスターや常連客との繋がりを何より大切にする彼の謙虚な姿勢は、業界関係者からも高く評価されていた。
スーパーで今夜の鍋の材料を買い込み、二人で繋いだ手を引きながら夕暮れの街を歩く。
ふと、街頭のスピーカーから、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。
蓮くんが手掛けた最新曲、女性歌手が歌うバラードソングだった。切なくも温かいメロディが、夕空に溶けていく。
「あ、蓮くんの曲だ」
「ですね。……こうやって街で流れてるのを聴くと、今でもちょっと照れくさいです」
照れくさそうに首をすくめる蓮くんの手を、私はキュッと握りしめた。
「誇らしいよ。こんなに素敵な曲を作る人が、私の隣にいてくれるなんて」
「真由さん……」
蓮くんは足を止め、じっと私を見つめた。夕日を受けて、彼の黒い瞳が琥珀色に輝いている。
「僕、あの曲の歌詞を書くとき、真由さんのことを考えてたんです」
「えっ、私のことを?」
「はい。真っ暗な暗闇の中で傷ついていた大切な人が、少しずつ笑顔を取り戻していく……そんな姿を思い浮かべながら書きました。真由さんが僕の歌を聴いて流してくれた涙が、僕の音楽のすべての始まりだから」
言葉が胸に染み渡っていく。
智樹との関係は、ただの搾取と依存の泥沼だった。
「私がいないとダメになる」という言葉は、彼が私を縛り付けるための鎖であり、私が自分の価値を確かめるための免罪符に過ぎなかった。
お互いに向き合わず、互いの弱さに依存し合っていただけの共依存。
けれど、蓮くんとの関係は違う。
蓮くんは一人のアーティストとして自分の足で立ち、努力を重ねて夢を叶えた。
私もまた、自分の人生を取り戻し、一人の女性として自分の足で立っている。
自立した二人が、互いを尊重し、感謝し、支え合いたいと心から願うこと。
誰かを「支える」というのは、どちらかが犠牲になることじゃない。お互いが対等に向き合えてこそ、初めて成立するものなのだ。
「真由さん」
蓮くんが買い物袋を反対の手に持ち替え、私の両手を包み込んだ。
「僕を、あの泥沼から救い出してくれてありがとうございます。真由さんと出会えて、僕の人生は変わりました」
「ううん……私の方こそ。私を救ってくれて、本当の幸せを教えてくれて、ありがとう」
どちらからともなく微笑み合い、私たちは静かに唇を重ねた。
冷たい夕風の中でも、重なり合った唇と手からは、どこまでも温かい熱が伝わってきた。
「帰りましょう、真由さん。今夜は僕が、特製のごま豆乳鍋作りますね!」
「ふふ、楽しみ! じゃあ私は、締めのお雑炊の準備担当ね」
「ダメです、真由さんは座ってテレビ見ててください!」
「もう、過保護禁止!」
冗談を言い合いながら、笑い合って歩く帰り道。
家へ帰れば、二人で選んだ温かい家具と、陽だまりのような安らぎが待っている。
誰かに必要とされるために自分を偽る必要なんて、もうどこにもない。
ここが、私の居場所。
世界で一番甘くて、温かい、私と彼の愛しいホームだ。
完走ありがとうございます!
現代恋愛 第3弾終了となります。
今回のテーマは「クズな彼氏と支えてあげたいと思える彼氏の差」
を題材に書いてみました。いかがでしたでしょうか。
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