第9話:引き抜きと新たな一歩
『アルタイル』の大ヒットを皮切りに、蓮くんの元には次々と楽曲制作の依頼が舞い込むようになった。
有名アーティストへの楽曲提供、テレビアニメのタイアップ曲、さらには映画の挿入歌まで。音楽業界誌では「令和のヒットメーカー」として彼の名が取り上げられるようになり、印税や作家印税という形で、彼の口座にはかつて見たこともないような大金が振り込まれるようになったという。
それにもかかわらず、蓮くんの生活は驚くほど変わらなかった。
「はい、お待たせしました! 刺身盛り合わせと生ビールになります!」
金曜日の夜。活気に満ちた『酒処 ひろ』で、相変わらずエプロン姿で元気に走り回る蓮くんの姿があった。
「ちょっと蓮、お前いつまでうちでバイトしてんだよ」
厨房で包丁を握る店長さんが、苦笑いしながら蓮くんの肩を叩く。
「もう音楽一本で十分食っていけるだろ? 大手の音楽事務所からも『うち専属の作家に』って引き抜きの話が来てんだろ?」
「マスター、何度言ったら分かってくれるんですか」
蓮くんは注文伝票を差し出しながら、困ったように、でもどこかすがすがしい笑顔を浮かべた。
「この店は僕の原点です。売れなくて苦しかった頃、マスターが美味しいご飯を食べさせてくれて、ここでバイトさせてくれたから僕は音楽を続けられたんです。それに、ここで色んなお客さんの人生や会話に触れることが、僕の作詞のインスピレーションになってるんですから」
「お前なぁ……律儀すぎるんだよ。ありがたいけどさ」
店長さんは照れくさそうに頭を掻きながら、目元を熱くさせていた。
カウンター席でそのやり取りを見ていた私は、胸の奥が温かいものでいっぱいになるのを感じていた。
お金を持っても、有名になっても、蓮くんはひとつも変わらない。
自分の原点と、自分を支えてくれた人への感謝を片時も忘れない。
『俺は将来、デカい弁護士になって高級車に乗るんだ』と大口を叩き、人のお金を自分の手柄のように使い込んでいた智樹とは、どこまでも対極にいた。
(蓮くんは本当に……強くて、格好いいな)
「真由さん、お待たせしました。これ、マスターからのサービスです」
蓮くんがカウンター越しに、温かい小鉢を置いてくれた。
「ありがとう、蓮くん」
「今日、バイト終わったら少し話があります。……真由さんの家に行ってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
少し緊張した面持ちの蓮くんに、私は頷いた。
◇
深夜1時。私の部屋のリビング。
お風呂上がりの蓮くんが、温かい紅茶のカップを手に、私の対面のソファに腰掛けた。
部屋の中には、静かで心地よい沈黙が流れている。
「真由さん」
蓮くんが意を決したように、まっすぐに私を見つめた。
「はい」
「僕、大手の音楽出版社と作家契約を結ぶことにしました。専属じゃなくて、今まで通りフリーの要素も残せる、一番僕のやり方を尊重してくれる契約です」
「そうなんだ……! すごいね、蓮くん。本当におめでとう」
「ありがとうございます。それでね……お金のことなんですけど」
蓮くんはバッグから通帳を取り出し、ローテーブルの上にそっと置いた。
「これ、僕の口座です。まとまった契約金と、これまでの印税が入ってます」
「えっ……私に見せていいの?」
驚く私に、蓮くんは真剣な眼差しで首を振った。
「見てほしいんです。僕、もう真由さんに何ひとつ心配をかけないだけの力をつけました。これから先も、音楽でしっかり稼いで、真由さんを養っていけるだけの基盤ができました」
「蓮くん……」
「だから、真由さん」
彼がソファから立ち上がり、私の隣に座り直した。
そして、私の両手をそっと包み込む。
「僕と一緒に暮らしてください。同棲しよう」
直球な提案に、胸が跳ね上がった。
同棲――その言葉に、一瞬だけ過去の苦い記憶が脳裏をかすめた。
智樹が私の部屋に転がり込んできた日のこと。私の家賃、私の食費、私のお金で怠惰な生活を送り、私をカモにしていたあの悪夢のような日々。
私の僅かな躊躇を感じ取ったのか、蓮くんは包み込んだ手にぎゅっと優しく力を込めた。
「不安にさせてごめんなさい。智樹って奴のことが頭をよぎりましたよね」
「あ……ごめんね、蓮くん。蓮くんのこと疑ってるわけじゃないの。ただ、ちょっとトラウマというか……」
「分かってます」
蓮くんは私の目をどこまでも優しく、誠実に見つめ返してくれた。
「だからこそ、ちゃんと順番を踏みたかったんです。あの男みたいに、親の不幸にかこつけて家に転がり込むような真似は絶対にしない。僕が自分で稼いだお金で、ちゃんと二人で暮らすための広い部屋を借ります。家賃も生活費も、僕が払います」
「えっ、でもそれじゃ蓮くんの負担が……私だって働いてるし、半分払うよ!」
慌てる私に、蓮くんはふっと柔らかく笑った。
「ふふ、真由さんは本当に優しいですね。でもね、折半でもいいし、真由さんが好きなようにしてくれて構わないんです。大事なのはそこじゃなくて……僕が言いたいのは、『今度は僕が、真由さんを幸せにする番だ』ってことです」
「……っ」
「かつての真由さんは、『私が支えなきゃこの人はダメになる』っていう歪んだ義務感で、あの男と一緒にいたんですよね。でも、僕たちの関係は違います。僕は一人でも立っていられるし、真由さんも一人で立っていられる。その上で、お互いが一番心地よくて、大切だから一緒にいるんです」
蓮くんの言葉の一つひとつが、私の胸の奥に残っていた過去の傷跡を、優しく撫でて溶かしていく。
寄生でも、搾取でも、共依存でもない。
自立した大人同士が、お互いを尊重し合い、慈しみ合うための同棲。
「真由さんが傷ついて泣いていたあの夜、僕にすがりついてくれた時から……ずっと決めてました。真由さんの過去の悲しい思い出も、誰かに利用されたトラウマも、全部僕との新しい思い出で上書きして、幸せにしてみせるって」
「蓮……くん……」
目頭が熱くなり、涙が視界を滲ませる。
「僕に、真由さんを幸せにさせてください。一緒に新しい家を探しに行きませんか?」
目の前で私を見つめる彼は、出会った頃の「控えめな居酒屋のバイト君」ではなかった。
自分の足で地に立ち、大好きな女性を一生守る覚悟を決めた、とても頼もしく、格好いい一人の男の人だった。
「……はい!」
私は涙を拭い、抱きつくように彼の胸に飛び込んだ。
しっかりと受け止めてくれる、大きな身体と温かい鼓動。
智樹といた頃に感じていた「私が支えなきゃ」という重圧は、どこにもなかった。あるのは、「この人と一緒なら、どこまでも歩いていける」という絶対的な安心感だけだった。
「ありがとう、真由さん……! 絶対に後悔させませんから!」
私の髪を慈しむように撫でながら、蓮くんが心から嬉しそうに囁いた。
共依存の暗い泥沼を完全に抜け出し、私たちは対等なパートナーとして、本当の「家族」になるための第一歩を踏み出そうとしていた。




