第8話:報われ始めた努力
蓮くんと付き合い始めてから、半年の月日が流れた。
私の生活は、劇的に変わっていた。
会社の近くの新しいマンションに引越し、智樹といた頃の重苦しい空気は跡形もなく消え去った。自分の給料は自分のために使い、休日は自分のために過ごす。
そして、その傍らにはいつも、真摯で真っ直ぐな蓮くんがいた。
「真由さん、このフレーズどうかな? サビに入る前の転調なんだけど……」
日曜日の午後。私の部屋のローテーブルで、アコースティックギターを抱えた蓮くんが尋ねてくる。
「うん、すごくドラマチックで素敵! 胸がキュッとなる感じがする」
「本当? よかった……! 真由さんがそう言ってくれるなら、自信持てる」
蓮くんはパッと顔を輝かせ、五線譜ノートにシャープペンシルで素早く書き込みを始めた。
彼との交際は、驚くほど平穏で、それでいて刺激的だった。
智樹のように大口を叩いて何もしないのとは真逆で、蓮くんは毎日泥臭く努力を重ねていた。
居酒屋のアルバイトを週四日こなしながら、残りの時間はすべて作曲と練習に充てる。仮眠時間を削ってDTM(パソコンでの楽曲制作)に向き合い、何百という曲のストックを作っていた。
けれど彼は、決してそれを「苦労」として私に押し付けたりはしなかった。
『大変だけど、めちゃくちゃ楽しいです。自分の作った曲が、いつか誰かの心を動かすかもしれないと思うと、ワクワクするから』
汗をぬぐいながらそう語る蓮くんの瞳は、いつだって少年のように輝いていた。
「蓮くん、はい。冷たい麦茶」
「あ、ありがとうございます! 真由さん、いつも気を使わせちゃってごめんなさい」
コップを受け取りながら、彼が恐縮そうに頭を下げる。
「ううん、全然! 頑張ってる蓮くんの隣に居られるだけで、私はすごく嬉しいんだよ」
本当に、心からそう思っていた。
彼を「支えている」という感覚は微塵もなかった。ただ、一人のアーティストとして、そして一人の恋人として、彼の努力が報われる瞬間を一番近くで見届けていたい――そう思える関係が、たまらなく愛おしかった。
◇
変化は、一本の電話から訪れた。
蓮くんがインディーズ時代から親交のあった音楽プロデューサー経由で、あるコンペ(楽曲コンテスト)の依頼が舞い込んだのだ。
それは、今若手で飛ぶ鳥を落とす勢いの男性5人組アイドルグループ『ASTRUM』のニューシングルの表題曲募集だった。
「大手事務所のコンペだから、有名な作家さんも大勢参加してる。……でも僕、絶対に勝ち取りたいです。真由さんに、最高の景色を見せたいから」
蓮くんはそれから一週間、寝る間も惜しんで部屋にこもり、楽曲制作に没頭した。
妥協を許さず、一音一音に魂を込め、何度も何度も修正を重ねる。
そして提出から一ヶ月後――。
「真由さん……! 選ばれた……表題曲に、僕の曲が選ばれました……!」
居酒屋のバイト終わりの深夜、私の部屋に飛び込んできた蓮くんは、私を抱きしめて泣いた。
彼の努力が、ついに大きな扉を開けた瞬間だった。
◇
それからの展開は、怒涛のようだった。
『ASTRUM』の新曲として発表された『アルタイル』は、リリース直後からSNSや動画配信サイトで爆発的な話題となった。
切なくも疾走感のあるメロディと、不器用な情熱を紡いだ歌詞。若者を中心に熱狂的な支持を集め、ストリーミング再生回数は一億回を突破。チャートのトップを独走する大ヒットとなった。
音楽番組やラジオでは連日その曲が流れ、CDジャケットのクレジットには、はっきりと刻まれていた。
『作詞・作曲:蓮(Ren)』
「真由さん、見て! 音楽番組の『今週の第1位』、また蓮くんの曲だよ!」
会社の給湯室で、後輩の由紀がスマホの画面を見せてきた。
「本当にすごいよね……私、最近毎日この曲聴いて通勤してるんです。歌詞がすごく刺さるんですよね」
「……そうだね。すごく、いい曲だよね」
私はお茶を汲みながら、胸の奥が熱くなるのを必死で抑えていた。
由紀はまだ、あの居酒屋のイケメンバイト君がこの「蓮」だとは気づいていない。けれど、世界中の人が彼の作った音楽に熱狂し、救われているという事実が、誇らしくてたまらなかった。
インターネット上でも「作詞作曲の『蓮』って誰!?」「新進気鋭の天才クリエイター現る」と大騒ぎになっていた。
けれど、当の本人である蓮くんは、何ひとつ変わっていなかった。
「真由さん、今夜は祝杯あげようって、マスターがお店で特上のお肉焼いて待っててくれてます!」
週末の夜、待ち合わせ場所に走ってきた蓮くんは、相変わらずシンプルな服に身を包み、私を見つけると人目もはばからず破顔した。
「蓮くん、本当におめでとう……! 街中あちこちで『アルタイル』が流れてて、私、なんだか夢みたい」
「僕も夢みたいです。……でも、これは僕ひとりの力じゃないですよ」
歩行者天国の端っこで、蓮くんが立ち止まり、私の手をそっと握りしめた。
「あの時、真由さんが僕の歌を聴いて『救われた』って言ってくれたから。真由さんが僕の音楽を信じてくれたから、僕は途中で投げ出さずに音楽を続けられたんです。だから、このヒットは……真由さんと二人で掴んだものだと思ってます」
「蓮くん……」
言葉の端々に溢れる、私への真摯な感謝と情熱。
智樹は、私から奪うことしか知らなかった。
私の時間も、お金も、心も消費し尽くし、自分が上手くいかない理由はすべて他人のせいにしていた。
でも、蓮くんは違う。
彼は自分の足で泥をはね飛ばしながら走り続け、掴み取った栄光の喜びを、真っ先に私と分かち合おうとしてくれる。
「もう……! 蓮くんは本当に、かっこよすぎるよ」
泣きそうになるのを誤魔化すように笑うと、蓮くんは少し照れくさそうに首をすくめた。
「かっこよくなんてないですよ。居酒屋のバイトもまだ辞めてないし、相変わらずボロアパート住まいだし。……でもね、真由さん」
蓮くんの瞳が、力強く、そして温かく輝く。
「僕、作詞作曲家として正式に事務所と契約することになりました。楽曲提供の依頼も、もう何件も届いてます。……これからは、音楽でしっかり食べていけるようになります」
「えっ……本当に!?」
「はい。だから……」
蓮くんは握りしめた手にぎゅっと力を込めた。
「今まで心配ばかりかけてごめんなさい。これからは、僕が真由さんを引っ張っていきますから。楽しみにしててくださいね」
「うん……! 楽しみにしてる!」
夜空を見上げると、街の明かりに紛れて、小さな星が真っ直ぐに輝いていた。
売れないミュージシャン志望の彼と、共依存の泥沼にいた私。
互いを尊重し、真っ直ぐに向き合うことで、私たちは暗闇を抜け出し、自分たちの光を見つけることができたのだ。
報われた努力の爽快感と、これから始まる新たな未来への予感に、私の胸は高鳴っていた。
(智樹、見ている……? 私は今、世界で一番幸せだよ)
心の中で過去の泥沼に別れを告げ、私は大好きな彼の温かい手をしっかりと握り返した。




