第7話:泥沼を抜けた先の「告白」
智樹との過酷な決別劇から二週間。
彩香たちの完璧な手際のおかげで、智樹からの連絡は完全に途絶えていた。共通の友人たちにも彼の悪行と嘘が知れ渡り、彼は逃げるように地元の実家(の手放し予定の空き家)へ戻ったらしい。
私はずっと住んでいたワンルームマンションの解約手続きを済ませ、当面の間、会社の近くにあるウィークリーマンションへ引っ越していた。
「ふぅ……」
金曜日の夜。仕事を終えた私は、久しぶりに心から軽い足取りで路地裏へと向かっていた。
智樹といた頃の金曜日は、「今日はどんな不機嫌な顔で待っているだろう」「またお金を求められるんじゃないか」と、暗く重い足取りで帰宅していた。
けれど今は違う。向かう先は、あの赤提灯が優しく揺れる『酒処 ひろ』だ。
暖簾をくぐると、香ばしい出汁の匂いと店長さんの威勢の良い声が出迎えてくれた。
「いらっしゃい! お、真由さん! いらっしゃい!」
「こんばんは、店長さん」
カウンターの奥から、エプロン姿の蓮くんがパッと顔を上げた。
その表情がパッと華やぎ、彼は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「真由さん! お疲れ様です。奥の席、空いてますよ」
「ありがとう、蓮くん」
席につき、いつもの生ビールと手料理をいただく。
店長さんや蓮くんと他愛もない会話を交わし、笑い合う。たったそれだけのことが、今の私には涙が出るほど愛おしく、贅沢な時間に思えた。
自分のお金で、好きなものを食べ、心から笑う。
当たり前の「生きている実感」を、私はようやく取り戻したのだ。
◇
閉店時間の23時。
お店の片付けを手伝おうとした私を、店長さんが「客が気使うな!」と笑って追い出した。
「蓮、真由さん駅まで送っていってやりな。今日はもう上がっていいぞ」
「え、でもマスター、まだグラス洗いが……」
「いいからいいから! ほら、コート持って行け!」
店長さんに半ば押し出される形で、私と蓮くんは夜の街へと送り出された。
夜の空気は冷たかったけれど、隣を歩く蓮くんの存在感と、肩が触れそうな距離感が、不思議と心と体をじんわりと温めてくれた。
街灯がぽつぽつと照らす暗い夜道を、二人で並んで歩く。
「真由さん、本当に顔色良くなりましたね」
蓮くんが横顔で微笑みながら言った。
「そうかな? うん……やっぱり、ちゃんと眠れるようになったからかな。夜中に怯えて起きることもなくなったし」
「よかったです。あの時、真由さんが泣いてたのを見て……正直、僕、生きた心地がしなかったんですよ。自分のことみたいに胸が痛くて」
「蓮くん……」
「だから、真由さんがちゃんと自分の人生を取り戻せて、本当に嬉しいです」
彼の言葉には、一ミリの嘘も飾りの気取りもなかった。どこまでも真っ直ぐで、泥臭いまでの誠実さ。
智樹が口にしていた「愛してる」という言葉が、いかに軽く、薄っぺらいものだったかを痛感する。
「私ね、蓮くんには感謝してもしきれないんだよ」
足をとめ、私は彼に向き直った。
「あの時、蓮くんのライブで歌を聴かなかったら、私はまだあの暗い泥沼の中で『私が支えてあげなきゃ』なんて勘違いをして、自分を削り続けてたと思う。蓮くんの歌と、あの夜かけてくれた言葉が……私を救ってくれたの」
夜風に揺れる私の髪を直すように、蓮くんがそっと足を止めた。
街頭の光の下、彼の黒い瞳が私をじっと見つめている。その瞳の深さに、一瞬息が止まった。
「真由さん」
蓮くんの声が、一段と低く、真摯な響きを帯びた。
「僕は、真由さんを救いたくて優しくしたんじゃないです」
「え……?」
「最初は……苦しんでるあなたを助けたい一心でした。でも、居酒屋で話すようになって、僕のライブに来てくれて、僕の拙い歌に涙を流してくれた時……僕、確信したんです。この人は、僕の音楽を、僕という人間を、誰よりも真っ直ぐ見てくれてるって」
彼が一歩、距離を詰めてくる。
彼の体温と、心地よい香りが私の鼻腔をくすぐる。
「真由さん。前の男の人は、あなたの優しさに甘えて、あなたをカモにして搾取してた。……でも、僕は違います」
蓮くんの手が伸びてきて、私の冷えた手を優しく、けれど力強く包み込んだ。
大きな、ギターのタコができた、温かくて少し固い手。
「僕はあなたに甘えたいんじゃない。あなたの『都合のいい居場所』になりたいわけでもない。僕は、あなたを一人にしちゃいけない男として、隣にいたいんです」
「蓮……くん……」
胸が激しく高鳴る。25歳の彼から発せられる熱量と男らしさに、頭がクラクラしそうだった。
「年下だし、今はまだ売れないミュージシャンで、居酒屋のバイトで……将来の保証なんて何もないかもしれない。智樹って奴みたいに、大層な夢ばかり口にしてあなたを安らげることはできないかもしれない。……でも!」
蓮くんは私の手を両手でぎゅっと握りしめ、まっすぐに私の目を見つめた。その瞳には、溢れんばかりの情熱と覚悟が宿っていた。
「僕は、自分の足で立ちます。音楽から逃げないし、仕事からも逃げない。あなたに一切の嘘をつかないし、絶対に悲しませない。あなたの優しさを当たり前だと思わないし、死ぬまで感謝し続ける」
「っ……」
「誰かの身代わりでも、依存先でもなくて……俺の、特別な人になってください。真由さん。付き合ってください」
プロポーズかと見紛うほどの、直球で真っ直ぐな言葉。
年下だから、売れないミュージシャンだからなんて関係ない。
目の前にいるのは、誰よりも不器用で、誰よりも誠実に自分の人生と向き合い、私という人間を心から大切にしようとしてくれている、一人の男の人だった。
過去の傷が、頭をよぎる。
また傷つくかもしれない。また誰かを信じて、裏切られたらどうしよう――そんな恐怖が零だったと言えば嘘になる。
けれど、包み込まれた手から伝わってくる情熱と温もりが、私の恐怖を優しく溶かしていく。
(この人となら……この手なら、信じられる)
依存や搾取の「支え合い」じゃない。
お互いが自分の足で立ち、尊重し合いながら歩む、本当の愛をこの人と築きたい。
涙が、ポロポロと溢れ出してきた。
でも、今度の涙は、悲しさや情けなさの涙じゃない。温かくて、愛おしい、幸せの涙だ。
「……私、30歳だよ? 過去に色々あって、面倒くさい女だよ……?」
小さく鼻を鳴らして問いかけると、蓮くんは破顔した。子供のように愛くるしく、けれど頼もしく笑った。
「関係ないです。僕が好きなのは、今の、ありのままの真由さんです。……ダメ、ですか?」
少しだけ不安そうに首をかしげる彼。
私は握り返された手にキュッと力を込め、涙を拭いながら、最高のエガオで答えた。
「ううん。ダメじゃない……! 私でよかったら、よろしくお願いします……!」
「真由さん……!」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、強い力で引き寄せられた。
しっかりとした胸の中に抱きしめられる。蓮くんの心臓が、私と同じくらい早いリズムでバクバクと打っているのが伝わってきた。
「よかった……断られたらどうしようかと、死ぬほど緊張しました……」
耳元でホッと息を吐く彼がおかしくて、私は彼の背中にそっと手を回した。
街灯の下、夜風は冷たかったけれど、二人を包む空気はどこまでも温かかった。
過去の毒から完全に解き放たれ、私はついに新しい一歩を踏み出した。
真っ直ぐな瞳をした年下の恋人と共に、本当の幸せを探す旅が、今ここから始まるのだ。
面白かったと思っていただけましたら、ぜひブックマーク・★評価をよろしくお願いします。
感想やレヴューもお待ちしております。




