第5話:逃げ込んだ先の温もり
夜の街に飛び出したものの、行くあてなんてどこにもなかった。
手持ちの荷物は、通勤用のバッグひとつだけ。
スマホと財布、会社のIDカード。そして――ポケットの奥に大切にしまっていた、あの小さなライブのフライヤー。
寒風が容赦なくコートの隙間を吹き抜けていく。
智樹に怒鳴られた記憶、化けの皮が剥がれ落ちた恐ろしい顔、そして「30にもなって売れ残りの女」という罵倒が、頭の中で何度も何度もリフレインしていた。
悔しくて、情けなくて、惨めで。
今まで自分が注いできた愛情や時間が、すべてドブに捨てられていたという事実に、膝がガクガクと震えた。
(どこに行けばいいんだろう……)
ビジネスホテルを探そうとスマホを取りかけたとき、画面に映った時刻は22時半を回っていた。
ふと、先週行ったあの路地裏の居酒屋――『酒処 ひろ』の温かい明かりと、出汁の香りが脳裏をかすめる。
(蓮くん、まだバイトしてるかな……)
迷惑になるかもしれない。見ず知らずの客が、こんなボロボロの状態で押し寄せるなんて迷惑に決まっている。
そう頭では分かっているのに、吸い寄せられるように私の足はあの路地裏へと向かっていた。今の私には、あの場所の温もりだけが、唯一の救いに思えたのだ。
◇
暖簾をくぐると、ちょうど最後の客が出ていくところだった。
「あ、いらっしゃい……って、真由さん!?」
テーブルを拭いていた蓮くんが、私を見るなり目を見開いた。
カウンターの奥にいた店長さんも、私の姿に驚いて手を止める。
「真由さん、どうしたんですか……? すごく顔色が……」
「あ、ごめんなさい……もう閉店ですよね。すみません、間違えて来ちゃって……すぐに帰ります」
自分の浅はかさに気づき、慌てて引き返そうと背を向けたその時。
「待ってください!」
素早い足音が近づき、私の手首が優しく掴まれた。
振り返ると、蓮くんが心配と焦りの混ざった真剣な眼差しで私を見つめていた。その手は温かく、凍え切っていた私の肌にじんわりと熱が伝わってくる。
「帰さないです。そんな顔して一人で帰せるわけないでしょう」
「蓮、奥の座敷使わせてもらえ」
店長さんが静かに言った。
「看板はもう落としたから、ゆっくりしていきな。暖かいお茶でも淹れてやるからさ」
「店長さん……すみません……」
私は崩れ落ちるように座敷の畳の上にへたり込んだ。
◇
「どうぞ。あたたかい緑茶です」
蓮くんが目の前に湯気の立つコップを置いてくれた。店長さんは「俺は片付けしてるから、気にせず話しな」と言って、厨房の方へ下がってくれた。
湯気を手で包み込むと、緊張の糸がぷつりと切れた。
「私……本当に、馬鹿だったんです」
ポツリと漏らした言葉を皮切りに、溢れ出したら止まらなくなった。
智樹との再会。弁護士を目指しているという嘘。両親が亡くなって家に転がり込んできたこと。私の給料を当てにし、遺産をギャンブルと女で食いつぶしていたこと。今日、部屋で彼の本音を聞いてしまい、逃げ出してきたこと――。
「『私がいないとダメになる』って思ってたんです。私が彼を支えてるんだって……でも違った。私はただの金づるで、カモで……彼に利用されていただけだったんです」
ボロボロと大粒の涙が溢れて、テーブルの上に水たまりを作っていく。
声がしゃくりあげて途切れ、呼吸が苦しくなるほど泣きじゃくる私を、蓮くんは途中で口を挟むことなく、静かに静かに聞いてくれていた。
否定もせず、軽蔑もせず、ただただ深い温もりを宿した瞳で私を受け止めてくれていた。
「……情けないですよね。30歳にもなって、こんな分かりやすい嘘に騙されて。自分勝手に『支えてあげてる』気になって……全部、私のひとりよがりだったんです」
顔を覆って泣く私に、蓮くんが静かに立ち上がり、隣に腰掛けた。
そして、迷いのない手で、私の背中にそっと手を添えてくれた。
「真由さん。自分を責めないでください」
「え……?」
涙で歪む視界の先で、蓮くんの顔がすぐ近くにあった。
彼の瞳には、怒りと、そして溢れんばかりの愛おしさが揺れていた。
「真由さんは何も悪くないです。悪いのは、真由さんの優しさに付け込んで、傷つけたその男です」
「でも、私……」
「ひとりよがりなんかじゃない。真由さんはただ、大切な人を真っ直ぐに信じて、全力で支えようとしただけじゃないですか。その優しさは、誰にでも持てるものじゃないです。すごく綺麗で、誇るべきものです」
蓮くんの手が、背中を優しく撫でる。
その手の温もりが、智樹の罵詈雑言でズタズタに傷ついた私の心を、ゆっくりと補修していくようだった。
「でもね、真由さん」
蓮くんの声が、少し低く、切ない響きを帯びた。
「あなたのその優しさは、そんな奴に使うものじゃないです」
「……蓮くん……」
「自分の足を引っ張る奴のために、真由さんが泣く必要なんてない。真由さんの優しさは、ちゃんと感謝して、真由さんを大切にしてくれる人に使うべきなんです」
直球すぎる言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
智樹は一度だって、私に「ありがとう」と言ってくれなかった。私の犠牲を「当たり前」だと思い、要求をエスカレートさせるだけだった。
けれど、目の前にいる年下の彼は、私の愚かな行動を「綺麗な優しさ」だと肯定し、泣いている私を全力で守ろうとしてくれている。
「僕、居酒屋で真由さんに初めて会ったときから……ずっと気になってました」
蓮くんが私の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「いつも疲れた顔をしていて、誰かのために無理をしていて。でも、僕のライブに来てくれたとき、僕の歌を聴いて流してくれた涙を見て……この人を、心から笑わせたいって思ったんです」
「……っ」
「だから、もうあの男のところには戻らないでください。……僕が、真由さんを守りますから」
彼の言葉には、嘘や計算なんて一切なかった。
ライブハウスで聞いた彼の歌声と同じ、どこまでも誠実で、泥臭く真っ直ぐな想い。
麻痺していた私の心に、温かい血が巡っていくのが分かった。
「……ありがとう、蓮くん」
涙を拭い、私は小さく笑った。久しぶりに、自分の意思で笑えた気がした。
「もう、絶対に戻らない。私、あの人との関係を全部清算する」
「はい。手伝えることがあったら、何でも言ってください。僕、力仕事くらいしかできませんけど」
照れくさそうに微笑む蓮くんの姿に、胸がキュッと熱くなる。
共依存という暗い泥沼にハマり込み、自虐と絶望の中にいた私を救い出してくれたのは、完璧な王子様なんかじゃない。
夢に向かって不器用に進む、真っ直ぐな瞳をした年下の男の子だった。
「……今日、ホテル探すよ」
「ダメです。こんな時間だし、危ないですから。……うち、来ますか?」
「えっ!?」
驚く私に、蓮くんは顔を真っ赤にしながら慌てて手を振った。
「あ、変な意味じゃないです! 僕の部屋、ボロいアパートですけど、僕は押し入れで寝ますから! 真由さんを一人でホテルに行かせる方が心配で……」
その必死な弁明がおかしくて、私は思わず「くすっ」と声を上げて笑ってしまった。
「ふふ、ありがとう。じゃあ……お言葉に甘えようかな」
毒に侵されていた私の世界が、少しずつ、色を取り戻し始めていた。
今夜から始まるのは、過去を清算し、本当の「幸せ」を掴むための私の新しい物語だ。




