第4話:化けの皮が剥がれ落ちるとき
下北沢のライブハウスから帰宅した翌週末。私は、自分の部屋の前にたたずんでいた。
(今日こそ、ちゃんと話そう……)
前夜に共通の友人のSNSで見かけた、クラブで別の女性の肩を抱く智樹の姿。そして、ライブハウスで触れた蓮くんの真っ直ぐな言葉。
麻痺していた感覚が戻った私の心には、智樹に対する漠然とした違和感が、明確な不信感となって渦巻いていた。
意を決して鍵を差し込み、ドアを開ける。
「智樹、いる……?」
返事はない。リビングに入ると、いつものように飲み散らかされた空き缶と、脱ぎ捨てられた服。しかし、智樹の姿はなかった。
ふと、ローテーブルの上に置き去りにされた智樹のサブのスマホが、バイブ音とともに何度も揺れているのが目に入った。
画面には『ミサキ』という名前と、ポップアップ表示されたメッセージ。
『智樹くん、今夜もいつもの部屋で待ってるね♡ 先週貸した五万、また今度でいいからね』
息が止まった。
(……ミサキ? 五万……?)
頭の中で、バラバラだったピースがカチリと音を立てて噛み合っていく。
「弁護士業界の付き合い」と言って私から受け取っていったお金。朝まで帰らない「勉強会」。
彼は私からお金を巻き上げるだけでなく、他の女性からも「手持ちがない」と言い訳をして金を無心し、転がり込んでいたのだ。
その時、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「あー、マジでついてねえ。またすられたわ……」
智樹の怠惰な声と、見知らぬ男の笑い声が廊下に響く。
慌ててリビングの陰に隠れると、智樹が例のガラの悪い男――首元にタトゥーの入った男を連れて入ってきた。
「智樹ぃ、お前またあの女に金借りんの? マジでいいカモだな」
男がゲラゲラと笑いながらソファに深々と腰掛ける。
「うるせえな、真由は俺が『親の遺産の手続きで金がない』って言えば、疑いもせずに金出すんだよ。中学からの付き合いだし、『俺がいないとダメ』って思い込んでるから扱いやすいんだよな」
智樹は缶ビールをあけ、喉を鳴らして飲んだ。その横顔には、かつて私が好きだった面影など微塵もなかった。ただの、他人を舐めきった搾取者の顔だった。
「でもよ、親の遺産数千万円、たった一年でギャンブルと女で使い果たしたのはヤバいだろ。弁護士事務所で働いてるって嘘も、いつまで持つかねえ?」
「へッ、司法試験の勉強なんかハナからしてねえよ。あんなのバカがやることだろ。金がなくなったら、また別の女探すか、最悪真由に消費者金融で名義借りて借金させりゃいいんだからさ」
脳内で、何かが音を立てて弾け飛んだ。
全身の血が引いていく。指先が急速に冷たくなり、激しい眩暈が襲ってきた。
弁護士事務所で働いているのも、両親を亡くして傷ついているのも、すべて嘘。
遺産は悲しみの果てに失われたのではなく、ギャンブルと女で食いつぶされただけ。
そして私は――「支えてあげている彼女」などではなく、ただの「扱いやすい金づる」だった。
(私は……この一年間、何を支えていたの?)
私の給料、私の生活、私の優しさ、私の時間。
そのすべてが、この男の怠惰と欲望の犠牲になり、嘲笑われていたのだ。
「誰だ、そこにいんの!?」
男が物音に気づいて声を上げた。
私は隠れるのをやめ、ゆっくりとリビングの中央へ歩み出た。
「……真由!?」
智樹の顔から、一瞬で余裕が消え去った。手に持っていた缶ビールがカタカタと震える。
「お前、いつからそこに……」
「最初からいたよ」
自分の声だとは思えないほど、冷たく、低い声が出た。
「全部、聞こえてた。遺産を使い果たしたことも、弁護士事務所の嘘も、他の女性からお金を借りてることも……私を『カモ』だと思ってたことも」
智樹は一瞬、気まずそうに目を泳がせたが、すぐに男を「おい、今日はもう帰れ」と追い出し、私に向き直った。
そして、いつものように情けない顔を作り、手を伸ばしてきた。
「真由、落ち着けって! 違うんだ、さっきのはあの男の手前、強がってみせただけで……! 俺、本当に真由のことしか愛してないし、親が死んで頭がおかしくなってたんだよ! 頼むから捨てないでくれ、真由がいないと俺、本当にダメになる……!」
必死の形相で縋り付いてくる智樹。
以前の私なら、この濡れた瞳と「お前がいないとダメになる」という甘い毒に惑わされていただろう。
けれど、今の私には、その言葉の裏にある透けて見える計算と、浅はかな欲望しか見えなかった。
彼の差し伸べた手を、私はバシリと叩き落とした。
「触らないで」
「……あ?」
「『私がいないとダメになる』んじゃない。あなたが勝手にダメな人間なだけでしょ」
智樹の目が点になる。
「私はあなたを支えていたんじゃない。ただ、あなたの嘘に付き合わされて、搾取されていただけ。……もう、一分一秒だって、あなたに私のお金も時間も使いたくない」
「おい……調子に乗るなよ真由!」
化けの皮が完全に剥がれ落ちた智樹が、顔を真っ赤にして逆ギレし始めた。
「誰のおかげで今まで楽しく暮らせてたと思ってんだよ! 30にもなって売れ残りの女を拾ってやったのは俺だろうが! 俺を捨てたら、お前なんか一生一人だぞ!」
怒号が狭い部屋に響き渡る。
けれど、不思議なことに、恐怖は一切湧いてこなかった。
あるのは、溢れんばかりの呆れと、自分に対する猛烈な反省だけだった。
(こんな男のために、私は泣いていたんだ。こんな男のために、自分の人生を削っていたんだ)
なんてバカだったんだろう。
けれど、もう終わりだ。
「そう。一人になってもいいよ。あなたみたいなクズと一緒にいるより、ずっとマシだから」
私はバッグを掴むと、振り返ることもなく玄関へと向かった。
「待てよ真由! おい! 逃げるのかよ!」
背後で智樹が叫び、部屋の物を投げつける音がした。
バタン、とドアを強く閉め、鍵をかける。
夜の街に飛び出すと、冷たい空気が胸いっぱいに広がった。
足が震えていた。悔しさと、情けなさと、己の愚かさに対する怒りで、涙がポロポロと溢れて止まらなかった。
けれど、その涙は決して暗いものではなかった。
胸の奥の重苦しい鎖が、ガラガラと崩れ落ちていく感覚があった。
「私がいないと」という偽りの優越感という麻薬から、私はようやく目を覚ましたのだ。
スマホを取り出す。
手が震えながらも、私は信頼できる弁護士の友人の番号をタップした。
「もしもし……急にごめん。クズな同居人を部屋から叩き出したいんだけど、相談に乗ってくれないかな」
涙を拭い、私は前を向いた。
搾取されるだけの「都合のいい女」は、もう終わり。
これからは、私の人生を、私自身のために取り戻すんだ。
街灯の光の下、私は一度も振り返らずに、新しい一歩を踏み出した。




