第3話:嘘で塗り固められた日常
木曜日の夜。
「じゃ、今日も遅くなるから。サラ金系の実務について、詳しい奴らと勉強会があるんだよ」
玄関で靴を履きながら、智樹がスマホに視線を落としたまま言った。画面には、チラリとLINEの通知が浮かんでいるように見えたが、彼はサッとそれを指で払いのけた。
「うん、気をつけてね。ご飯はどうするの?」
「向こうで適当に食べるから要らない。あ、そうだ真由、今週末ちょっと友達と旅行行くことになったから、三万ほど貸しといて。来月まとめて返すから」
「えっ……三万? でも智樹、先週も……」
「なんだよ、出し惜しみすんなって。これも弁護士業界の付き合いなんだからさ。じゃ、よろしくな」
私の返事を待たずに、智樹はバタンと勢いよくドアを閉めて出て行った。
静まり返った玄関に、一人取り残される。
(勉強会……だよね)
智樹の言葉に嘘はないはずだ、と思おうとする。しかし、彼が去った後の部屋に残る香水のような甘い匂いと、出がけに何度もスマホを確認していた不自然な仕草が、胸にざらりとした不快感を残していた。
(……考えすぎだよね。智樹は私のために、将来のために頑張ってるんだから)
虚しい自己暗示を振り払うように、私は大きく息を吐いた。
バッグから取り出したのは、先週居酒屋で蓮くんからもらった小さなフライヤー。
下北沢のライブハウス。開演は19時半。
時計を見ると、18時40分を過ぎたところだった。
「行ってみよう……」
智樹の世話と仕事に追われ、自分のために時間を使うことなんて、いつ以来だろう。私は急いでコートを羽織り、家を出た。
◇
下北沢の路地裏にあるライブハウスは、地下へと続く階段の先にあった。
重い鉄の扉を開けると、ウイスキーとタバコ、そしてどことなく甘いお香の匂いが混ざり合った独特の空気が出迎えてくれた。
受付で蓮くんの名前を告げると、ドリンクチケットを手渡される。
薄暗い店内には、すでに二、三十人ほどの客が集まっていた。ステージの上にはアコースティックギターとマイクスタンドが一本ポツンと立っている。
壁際の隅にひっそりと立ち、オレンジジュースのグラスを握りしめていると、客席の照明がすっと落ちた。
「本日の出演者は――蓮です」
小さな拍手の中、ステージにスポットライトが当たる。
現れたのは、いつものエプロン姿ではなく、シンプルな白シャツに黒のパンツを身にまとった蓮くんだった。
背筋をピンと伸ばし、静かに深々と頭を下げる。
その瞬間、店内の空気がピンと張り詰めた。
「こんばんは、蓮です。今日は来てくれてありがとうございます」
マイクを通した声は、居酒屋で聴いた時よりも低く、心地よく身体の奥に響いた。
彼はアコースティックギターを抱えると、優しく弦を爪弾き始めた。
流れてきたのは、どこか切なく、けれど温かいメロディだった。
飾らない、まっすぐな歌詞。不器用な自分を受け入れながらも、泥臭く前へ進もうとする強い意志が、繊細なボーカルに乗って真っ直ぐに心に飛び込んでくる。
――♪誰も見ていない場所で 擦り減らした靴の底
――♪正解なんて分からないけれど 今日を投げ出さないように
息をのんだ。
指先から溢れ出る音の一つひとつに、彼の「熱」が宿っている。
誤魔化しや計算なんて一切ない。自分をごまかさず、音楽と真正面から向き合っている男の姿がそこにあった。
気づけば、私の頬を温かいものが伝っていた。
(私……泣いてる?)
慌てて目元を拭う。
ここ数ヶ月、智樹と一緒にいて、涙を流すことすら忘れていた。
嫌なことがあっても「私が支えなきゃ」と感情に蓋をし、麻痺させていた私の心が、彼の歌声によってゆっくりと解き放たれていくのを感じた。
智樹の言葉が脳裏をよぎる。
『俺は将来、デカい弁護士になるんだ』
『今は準備期間なんだから、真由が支えるのは当然だろ?』
口を開けば大層な夢を語り、私からお金を巻き上げ、部屋を散らかし、怠惰な日々を送る智樹。
彼が語る未来には、一度だって具体的な努力の匂いがしたことはなかった。
(私は……何を守ろうとしていたんだろう)
蓮くんのまっすぐな歌声が、私が目を背けていた現実に冷酷なまでの光を照射する。
「私がいないとダメになる」のではなく、
「私が彼の怠惰を許し、ダメにしていた」のではないか?
そして私自身も、「必要とされる自分」に依存して、嘘にまみれた関係に逃げ込んでいただけなのではないか――。
歌が終わると、温かい拍手が会場を包み込んだ。
蓮くんは照れくさそうに笑い、何度も頭を下げていた。
◇
終演後、観客がぽつぽつと帰り始める中、私は余韻に浸ったまま動けずにいた。
「真由さん……?」
声をかけられて振り向くと、ギタケースを肩にかけた蓮くんが、驚いたような顔で立っていた。
「蓮くん……あ、すごく、素敵でした。来れて本当に良かったです」
「来てくださったんですね。すごく嬉しいです……あ、あの、泣いてました?」
蓮くんが心配そうに覗き込んでくる。その澄んだ瞳に見つめられ、胸がキュッと苦しくなった。
「ううん、違うの。なんだか、すごく心に響いて……私、最近いろいろ麻痺してたみたいで。蓮くんの歌を聴いたら、急に涙が出てきちゃって」
苦笑いしながら答えると、蓮くんは一瞬だけ表情を曇らせ、それから優しく微笑んだ。
「……僕の曲、誰かを励ましたくて作ったものが多いんです。真由さん、すごく疲れてる顔をしてたから……少しでも届いたなら、歌ってよかったです」
「え……」
「居酒屋で会った時から、なんだかすごく無理をしてるように見えて。……出過ぎたこと言ってすみません」
蓮くんは小さく頭をさげた。
彼は見抜いていたのだ。私が「支える彼女」を演じながら、心の中で悲鳴を上げていたことを。
智樹すら気づこうとしなかった私の限界に、出会ったばかりの年下の彼が気づいてくれていた。
「ううん、ありがとう。本当に、救われた気がする」
「もしよかったら、またライブ来てください。いつでも歓迎しますから」
そう言って笑う蓮くんの笑顔は、暗闇の中に射し込む太陽の光のように温かかった。
ライブハウスを出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。
スマホを確認すると、智樹からの着信履歴はゼロ。代わりに、友人からのSNSの投稿が目に飛び込んできた。
智樹と共通の友人があげたストーリーズ。
そこには、華やかなクラブのような場所で、若い女性の肩を抱きながらグラスを掲げる智樹の姿が、バッチリと映り込んでいた。
『金融の勉強会』。
それが何の隠語だったのか、答え合わせはあまりにも呆気なく訪れた。
「……なんだ、私、バカみたい」
冷たい風の中、声が漏れた。
怒りよりも先に湧き上がってきたのは、どこか冷めた諦めと、不思議なほどの清々しさだった。
智樹が私を必要としていたのは、「都合のいい財布」であり、「帰る家」でしかなかったのだ。
そして私も、「可哀想な彼を支える良い彼女」という役割に縋っていただけだった。
バッグの中で、蓮くんのチラシがカサリと音を立てる。
真っ直ぐに努力し、歌を届けてくれた彼の瞳。
あの温かい光を知ってしまった以上、もう二度と、あの嘘だらけの暗闇には戻れない。
「帰ろう」
私はしっかりと足を地につけ、智樹の待つ――ううん、もう二度と甘えさせはしない――あの部屋へと歩き出した。
麻痺していた私の心が、ようやく正常な痛みを感知し始めていた。




