第2話:居酒屋のポスターと真っ直ぐな瞳
「真由さん、顔色悪くない? 最近ちょっと痩せた?」
金曜日の19時過ぎ。会社を出て駅へと向かう道すがら、後輩の由紀が心配そうに私を覗き込んできた。
「えっ、そう? 大丈夫だよ、ちょっと最近慌ただしくて……」
「絶対無理してるって。ほら、目の下に隈できてるよ。智樹さん、まだお仕事見つからないの?」
「あ……うん。弁護士事務所の調査業務で忙しいみたいで、夜も遅いんだよね。だから私がご飯作ったり、いろいろサポートしなきゃいけなくて」
嘘をつく声が、自分でも驚くほど滑らかに出てくる。
智樹が昼間から部屋でゴロゴロし、夜になると「勉強」と称してフラリと出かけていくこと。
「サラ金の仕組みを学ぶため」と称して、ガラの悪い男たちと麻雀やパチンコに興じていること。
そして、彼が部屋にいる日は、私の給料から引き落とされたお金で買ったお酒やタバコを平然と消費していること――。
そんな現実に蓋をするように、私は「彼は弁護士を目指して頑張っている」というストーリーを、自分にも周囲にも言い聞かせ続けていた。
「もう、真由さんは優しすぎるんだから。今日は金曜日だし、パーッと飲みましょう! 美味しいお店見つけたんです」
由紀に腕を引かれるまま、私たちはオフィス街の喧騒から少し外れた路地裏へと歩を進めた。
「ここです、ここ!『酒処 ひろ』。個人経営なんですけど、ご飯がすごく美味しくて」
赤提灯が優しく揺れる暖簾をくぐると、「いらっしゃい!」と元気な声が響いた。
こぢんまりとした店内は、カウンター席と小さなテーブル席が数つ。木目調の温かいインテリアと、香ばしい出汁の香りが心をふっと和ませてくれる。
「奥のテーブル、空いてるよ! おーい、蓮、注文伺って!」
奥の厨房から気さくな笑顔の店長さんが声をかけると、「はい!」と爽やかな返事が返ってきた。
調理場から出てきたその青年を見て、私は思わず目を見張った。
(すごく、綺麗な顔立ちの人……)
背が高く、スラリとした体型。黒髪の短髪に、涼しげで澄んだ目元。シンプルなエプロン姿だが、どこか立ち姿に華がある。二十代半ばくらいだろうか。
「いらっしゃいませ。お飲み物は何にされますか?」
彼――蓮くんがテーブルの横に屈み、メニューを差し出しながら微笑む。その声は低く心地よい響きで、すっと耳に馴染んだ。
「まずは生ビールふたつで! あと、本日のおすすめの刺身盛り合わせと、出汁巻き卵をお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼が背を向けて厨房へ戻っていくと、由紀が声をひそめて私に身を乗り出してきた。
「ね、真由さん! めっちゃイケメンじゃないですか!?」
「うん、びっくりした。モデルさんみたいだね」
「ですよね! でも、こういうイケメンって大体遊んでるか、チャラいんですよね~」
由紀がニヤリと笑う。私も苦笑いを返したが、胸の奥でふと智樹のことが頭をよぎった。
(智樹も、昔はシュッとしていて格好良かったな……)
今の智樹は、昼夜逆転の生活と不摂生のせいか、少し肌も荒れ、目元にはいつも濁った怠惰さが漂っている。
『俺は普通の奴らとは違うんだよ。司法試験に通ったら、一気に逆転して高級車でも乗ってやるから』
口を開けば大きな口叩くが、部屋の掃除一つせず、私に「あれ取って」「お茶淹れて」と命じるだけの毎日。
(いけない。智樹はご両親を亡くして傷ついてるんだから、比べてはいけない……)
頭を振って思考を振り払おうとしたその時、カウンターの壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。
モノクロのモノクロ写真。ギターを抱え、真剣な眼差しでマイクに向かう青年の姿。
よく見ると、それはさっきの彼――蓮くんだった。
「あら、ポスター見てくれた?」
生ビールを運んできた店長さんが、嬉しそうに目を細めた。
「蓮ね、こう見えて本気でミュージシャン目指してるんだよ。作詞も作曲も自分でやっててさ。うちのバイトが終わった後も、夜遅くまでスタジオこもって練習してんの。ホント頭が下がるよ」
「えっ、そうなんですか!」由紀が目を丸くする。
「そうそう。まあ、イケメンだけど不器用な奴でねぇ。口下手だから、なかなか自分から売り込めないのが玉にキズなんだけどさ」
店長さんがからかうように笑うと、後ろからお刺身の皿を持ってきた蓮くんが、少し頬を赤くして頭を下げた。
「マスター、余計なこと言わないでください……」
「なんだよ、事実だろ? ほら、せっかくならお姉さんたちにチラシ渡しなよ」
「あ、いえ……お客様のお邪魔になりますから」
蓮くんは遠慮がちに言ったが、店長さんに背中を押され、ポケットから小さく折りたたまれたフライヤーを取り出した。
「あの……もしよかったら、なんですけど」
彼の手から渡されたチラシには、手書きでライブの日時と場所、そして丁寧なメッセージが書かれていた。
「僕、来週の木曜日に下北沢のライブハウスで演奏するんです。チケット代は無料……というか、僕の取り置きで入っていただけるので、ドリンク代の五百円だけで入れます。もし、もしお時間が合えば、聴きに来ていただけたら嬉しいです」
その言い方は、どこまでも謙虚で、押しつけがましさが一切なかった。
「木曜の夜かぁ……私、その日ちょうど合コンなんですよね」由紀が残念そうに言う。
私はチラシの日時を見つめた。
木曜日の夜。智樹が「金融の勉強会」と言って、毎週決まって朝まで帰ってこない日だ。
「……あの、私、行ってみようかな」
気がつくと、言葉が口から漏れていた。
「えっ、本当ですか?」
蓮くんの瞳が、ぱっと輝いた。
その瞳があまりにも真っ直ぐで、澄み切っていて、私は思わず胸がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
「私、音楽のことよく分からないんですけど……迷惑じゃありませんか?」
「全然! むしろ、一人でも多くの方に僕の曲を聴いてもらえるのが、一番嬉しいんです。来ていただけるだけで、すごく励みになります」
蓮くんは深々と頭を下げた。
『俺は将来、デカいことやるからさ。真由は黙って俺に投資しときゃいいんだよ』
脳裏に、酒を飲みながら横横になり、私のお金を当てにする智樹の横顔が浮かぶ。
言葉だけで何も行動せず、他人の犠牲を当然だと思っている智樹。
対して、目の前の青年は、泥臭くバイトをしながら、自分の足で一歩ずつ夢に向かって努力し、一枚のチケットを渡すことすら相手の迷惑にならないかと気遣っている。
(この違いは、なんだろう……)
比べること自体が智樹への裏切りのような気がして、私は慌ててビールを口に含んだ。喉を刺激する炭酸が、妙に痛かった。
「蓮くん、応援してるね! 真由さん、感想教えてくださいね!」
「うん、分かった」
その夜、家に帰ると、部屋は案の定荒れ果てていた。
飲み散らかされた缶チューハイの空き缶、足の踏み場もない脱ぎ捨てられた服。
智樹はソファでイビキをかいて眠っていた。
テーブルの上には、彼が置いたのであろうメモが一枚。
『タバコと明日の昼飯代、千円置いておいて』
私はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……はいはい」
バッグから財布を取り出し、千円札をテーブルに置く。
そして、自分のポケットから、さっき蓮くんから受け取った小さなフライヤーを取り出した。
丁寧な手書きの文字。
『来ていただけたら嬉しいです』
ただそれだけの言葉なのに、なぜだか涙がこぼれそうになった。
「私がいないと、この人はダメになる」
いつも自分に言い聞かせていた呪文を呟いてみる。
けれど今夜は、その言葉がひどく虚しく、自分を縛り付ける鎖のように思えてならなかった。
手の中の小さなフライヤーを、私はお守りのように強く握りしめた。




