第1話:甘い毒と「私がいないと」という麻薬
こちらは現代恋愛 第3弾として投稿いたします。
毎日20:10に投稿いたします。
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「智樹、今日のご飯、唐揚げでよかった?」
キッチンの油の音に声を張り上げると、リビングのソファからくぐもった声が返ってきた。
「んー、何でもいい。あ、そうだ真由、タバコ切れてたわ。あとで買ってきて」
スマホの画面から目を離さずに吐き捨てられた言葉に、私は「うん、分かった」と短く返した。
私の名前は真由、三十歳。都内の不動産会社で事務として働いている。
そして、この狭いワンルームマンションで一緒に暮らしているのが、中学・高校の同級生でもある彼氏の智樹だ。
油の跳ねる音を聞きながら、私は胸の奥に澱のように溜まる重苦しい感覚を、必死に飲み込んだ。
(大丈夫。智樹は今、人生で一番辛い時期なんだから。私が支えてあげなきゃ)
自分にそう言い聞かせるのは、もう何度目になるだろう。
智樹と再会したのは一年前のことだった。
共通の友人経由で連絡を取り合うようになり、カフェで久しぶりに会った時の彼は、どこか大人びて洗練されていた。
『俺さ、今は東京の弁護士事務所で働きながら、司法試験の勉強してるんだ。金融系に強い弁護士になりたくてさ』
そう語る彼の目は輝いていて、昔と変わらない無邪気さと、大人としての頼もしさを感じさせた。
だが、付き合って数ヶ月が経った頃、彼の両親が相次いで事故で亡くなった。
一人っ子だった智樹はひどく落ち込み、葬儀が終わると、まるで逃げ込むように私の部屋に転がり込んできたのだ。
『真由しか頼れる奴がいないんだ……。親がいなくなって、俺、どうしていいか分からなくて』
すがりつくように私を抱きしめた彼の体温と、濡れた目。
その時、私の中で妙な優越感と責任感が芽生えたのを覚えている。
――この人は、私がいないとダメになってしまう。
――私が、彼の唯一の居場所になってあげなきゃ。
それはまるで、甘くて危険な麻薬のようだった。誰かに強く必要とされる感覚が、三十歳を迎えて将来に不安を抱いていた私の心を、じんわりと満たしていったのだ。
「真由ー、喉乾いた。お茶持ってきて」
ソファからの呼び声に、私は火を止めて冷蔵庫から麦茶を注いだコップを持ち、リビングへと向かう。
「はい、どうぞ。勉強、進んでる?」
智樹はコップを受け取り、一口飲むと不機嫌そうに眉をひそめた。
「まあね。でもさ、司法試験って甘くないわけ。ただテキスト読むだけじゃ意味ないんだよ。実務の現場を知るために、いろいろ人脈作ったり、裏の金流れ見たりしなきゃいけないの。真由には分からないだろうけど」
「そう、なんだ……。弁護士事務所のお仕事は? 最近、昼間に家にいることが多い気がするけど」
私が恐る恐る尋ねると、智樹はあからさまに煩わしそうな溜息をついた。
「言っただろ? 外回りと調査が多いんだって。事務所にずっと座ってるだけが弁護士の仕事じゃないの。疑ってんの?」
「ううん、違うの。ただ、無理してないかなって思って」
「心配すんなって。俺には俺のやり方があるんだから。あ、それより今月の家賃、真由の口座から落ちるようになってるよね? 俺、今ちょっと手持ちの口座が凍結手続き中でさ」
「うん、払っておいたよ。両親の遺産の手続き、まだ時間かかりそうなの?」
智樹の両親は地元でそれなりの資産家だったはずだ。だが、彼が私の家に来てからというもの、お金の話になるといつも曖昧にごまかされる。
「まあな。弁護士費用とかいろいろかかんだよ。手元に入ったらちゃんと返すからさ。真由は俺のこと信じて待ってればいいんだよ」
智樹は私の腰に手を回し、頭を胸元に寄せてきた。
「真由がいてくれてよかった。真由がいなかったら、俺、本当にどうにかなってたよ。世界で一番愛してる」
「智樹……」
耳元で囁かれる甘い言葉。
さっきまで胸の中に広がりかけていた不信感が、その一言で一気に吹き消されていく。
やっぱり、彼は私が支えてあげなきゃいけないんだ。彼には私しかいないんだから。
そう思い込もうと、私は彼の背中に手を回した。
◇
しかし、その「安心感」は長続きしなかった。
週末の夜、智樹は「勉強仲間を連れてくる」と言って、三人の男性を部屋に招いた。
狭いワンルームに足を踏み入れた男たちを見て、私は思わず息をのんだ。
だぼついたスウェットに、首元から覗く派手なタトゥー。くわえタバコのままズカズカと部屋に入り込み、土足に近い感覚でフローリングを踏みつけていく。
「ちわーっス。智樹の連れ? 結構可愛いじゃん」
蛇のような目をした男が私を上から下まで舐めるように見回し、ニヤリと笑った。
「おい、真由に変な気起こすなよなー」
智樹は冗談めかして笑いながら、男たちの肩を叩く。そこには、弁護士を目指して勉強に励む知的な青年の姿は微塵もなかった。
「真由、缶ビールとつまみ出して。足りなくなったらコンビニで買ってきて」
「あ、うん……」
私は急いでキッチンに向かい、怯えながらビールと缶詰を盆に乗せて運んだ。
彼らはリビングのローテーブルを囲み、酒を飲みながら大声で笑い合っている。
「でさぁ、先週のパチンコ、マジで激アツでさー」
「智樹、お前あの後いくらすられたんだっけ? 五万?」
「言うなよ! 次で取り返せばいいんだからよ」
漏れ聞こえてくる会話に、私の心臓がドキンと跳ねた。
(パチンコ……? 五万……?)
智樹は「気分転換に、問題ない範囲でたまにギャンブルをするくらいだ」と言っていたはずだ。それに、親の遺産手続きで手持ちがないと言っていたのに、そんな大金をどこから……?
「おい真由、氷なくなった。持ってきて」
智樹の声にハッと正気に戻り、「はい」と声を絞り出す。
氷を運ぶ途中、ガラの悪い男の一人が私に声をかけてきた。
「お姉さん、智樹から聞いてる? こいつ、金払い良くて助かるわ。また飲みに行こうぜ」
「金払い……?」
「おう。俺らにいい店教えてもらうからって、いっつも奢ってくれるんだよなー」
男たちがゲラゲラと笑う。智樹は一瞬、気まずそうな顔をして「余計なこと言うなよ」と男の肩を小突いた。
私は氷の入ったペールをテーブルに置き、逃げるようにキッチンへ戻った。
(なにかが、おかしい……)
智樹の言う「人脈作り」とは、この人たちのことなのだろうか。
「実務の現場を知る」とは、パチンコ店に通うことなのだろうか。
キッチンの隅で小さくなりながら、私は自分の手を強く握りしめた。
手心がじんわりと汗ばんでいる。
智樹は両親を失って傷ついているんだ。だから、少し羽目を外してしまうこともあるのかもしれない。私が理解してあげなきゃ。私が彼を正しい道に戻してあげなきゃ。
「私がいないと、あの人は駄目になる」
頭の中で、その言葉を呪文のように繰り返す。
そう思わなければ、目の前で繰り広げられる異様な光景と、胸を刺すような疲労感に押しつぶされてしまいそうだった。
夜が更け、男たちが嵐のように去っていった後、部屋には吸い殻の臭いと散らかったゴミだけが残された。
「あー楽しかった。真由、片付けよろしくな。俺、ちょっと疲れたから寝るわ」
智樹は散らかった部屋を顧みようともせず、ベッドに横になり、すぐにいびきをかき始めた。
私は一人、静まり返った部屋でゴミ袋を広げ、空き缶を拾い集める。
手が震えていた。
「大丈夫……大丈夫……」
呟く声が、虚ろに部屋に響く。
智樹からの「愛している」という言葉だけを命綱にして、私は自分自身を偽り続けていた。
この時の私はまだ知らなかった。
自分が「支えている」と思っていたものが、ただの巨大な嘘と搾取の上に成り立つ、底なしの泥沼であったことを。
そして、その泥沼の中で私の心が、少しずつ、確実に壊れかけているということを。




