第2話:結婚式の再会と、救世主の「加点」
華やかなオーケストラのBGMが流れる披露宴会場は、幸せな熱気に包まれていた。
高砂の席で笑い合う、サークル仲間の新郎新婦。その姿を拍手で見送りながら、紬は小さく息を吐いた。
(なんとか、披露宴は乗り切れた……)
恐れていた拓海との接触は、席が離れていたこともあって今のところ無い。このまま二次会には参加せず、静かに帰ろう――そう決めて、紬がクラッチバッグを手に立ち上がった、その時だった。
「よお、紬。やっぱり来てたんだな」
背後からかかった、聞き覚えのある少し鼻にかかった声。
振り返ると、ワイングラスを片手にした拓海が、薄薄とした笑みを浮かべて立っていた。学生時代と変わらない、どこか自信に満ち溢れた、けれど今の紬にとってはひどく薄っぺらく見える笑顔。
「……拓海」
「お前さ、LINEも電話も全部ブロックするとか、いくらなんでも子供っぽすぎない? 5年も一緒にいたんだから、話し合いの席くらい設けるのが大人のマナーだろ」
拓海は周囲のサークル仲間に聞こえるような、少し大きめの声で言った。チラチラと、周囲の視線がこちらに集まるのが分かる。
「話し合うことなんて、もう何もないよ。メッセージに残した通り、別れた。それだけ」
「熱が出た時にちょっと放置したからって、そんなに根に持つなよ。男は外で戦って疲れてるんだからさ、多少のすれ違いはあるだろ? 部屋を引き払う時だって、お前がいないと俺がどれだけ困るか、少しは考えなかったわけ?」
(まだ言ってる……)
紬の心の中で、冷たい呆れが広がる。彼は今でも、自分が「ちょっとした不手際」で責められていると思っているのだ。5年間の積み重ねが0点になった理由を、1ミリも理解していない。
「私は困らなかったよ。むしろ、すっきりした」
「強がんなって。28歳の女が、5年付き合った男と別れて、次があると思ってんの? 正直、お前が俺以外の男と上手くやれるとは思えないんだよね。仕事だって、インテリアの企画だっけ? 地味な仕事でストレス溜めてるから、そんなにピリピリしてんだろ。ほら、とりあえずブロック解除しろよ。飯くらい行ってやるからさ」
上から目線でスマホを突きつけてくる拓海。
周囲の人間は、事情を知らない。ただ「長年付き合ったカップルが揉めている」という目で、好奇混じりにこちらを見ている。
胸が苦しくなり、紬がギュッと拳を握りしめた、その時。
「――浅井さん。失礼ですけど、紬先輩を安く見積もりすぎじゃないですか?」
低く、けれど心地よく通る声が、2人の間に割って入った。
拓海が不快そうに眉をひそめて振り返る。そこに立っていたのは、見違えるほど上質な、仕立ての良いスリーピースのスーツを着こなした一人の男だった。
「……あ? 誰だっけ、お前」
「吹奏楽部で、緒方先輩の2学年後輩だった瀬尾です。お久しぶりです、浅井さん」
瀬尾航平(26)。
紬の記憶にある彼は、いつも部活のジャージ姿で、不器用そうに図面や楽器のケースを抱えていた「可愛い後輩」だった。
けれど、今目の前にいる瀬尾は違った。短く整えられた髪、すっと通った鼻筋、そして何より、大人の男性としての圧倒的なオーラと色気を纏っている。
「あー、あのパッとしない雑用係の瀬尾か。部活の連中と席が近いからって、部外者が口挟むなよ」
「部外者ではありませんよ。僕は、あなたが今、紬先輩に言った言葉がどうしても許せなくて」
瀬尾は一歩前へ出ると、紬を自分の背後に隠すようにして、拓海を冷徹な目で見据えた。
「お前に関係ないだろ。紬は俺の元カノで――」
「元、ですよね? それに、さっきから聞いていれば、地味な仕事だの、次がないだの、よくもそんな適当な言葉で先輩を侮辱できますね」
「おいおい、生意気言うなよ。俺はベンチャーだけど営業のコアメンバーとして最前線で数字追ってんだよ。インテリアのパシリみたいな仕事をしてる紬とは――」
「ちょっと、拓海! あんた何言ってんの!?」
その時、近くの席にいたサークルの先輩(男)が、スマホを片手に血相を変えて割り込んできた。
「拓海、お前瀬尾くんのこと知らないの!? 先月発売された『商店建築』の巻頭特集、見てないのかよ!」
「……は? 商店建築?」
拓海がぽかんとする。
先輩は興奮気味に、周囲の人間にも聞こえるように言った。
「瀬尾くんは今、国内最大手の設計事務所で若手エースの建築家なんだよ! 先月の特集で『今一番注目すべき20代の天才空間デザイナー』として10ページぶち抜きで紹介されてたんだぞ! 拓海、お前の会社の自社ビルより、瀬尾くんがデザインした商業施設の方がよっぽど有名だわ!」
その言葉に、周囲のサークル仲間から「えっ!?」「マジで!?」と大きなどよめきが起こる。
「あの居残りばっかりしてた瀬尾くんが……?」
「すごいエリートになってる……!」
形勢は、一瞬で逆転した。
拓海の顔から、みるみる血の気が引いていく。自分の薄っぺらい「営業自慢」が、本物の、それも若くして頂点に立つエリートの実績の前に、跡形もなく粉砕されたのだ。
瀬尾は、顔を青くしている拓海を見下ろしたまま、静かに、けれど重みのある声で告げた。
「浅井さん。大学時代、初心者の僕が部活で孤立しそうだった時、周りに角が立たないように根回しをして、居残り練習まで付き合って救ってくれたのが、紬先輩です。先輩は、誰かが気づかないところで、いつも100点満点の優しさを配れる人なんですよ」
瀬尾の言葉が、披露宴会場の静寂に響く。
「……あんたには、それが0点に見えてたんですか? だとしたら、見る目がなさすぎる」
「っ……、お前、何を……」
拓海は何かを言い返そうとしたが、周囲の冷ややかな視線と、瀬尾の放つ圧倒的な威圧感に気圧され、言葉を詰まらせた。
「行きましょう、紬先輩。こんな狭い場所に、先輩がいる必要はありません」
瀬尾はそう言うと、驚きで固まっていた紬の手を、驚くほど自然に、そして優しく包み込んだ。
大きくて、少し骨張った、大人の男の手。
「あ、うん……」
紬は、瀬尾に導かれるまま、一歩も動けなくなっている拓海をその場に残して、歩き出した。
背後から、拓海の惨めな沈黙と、周囲のヒソヒソ話が遠ざかっていく。
◇
ホテルのエントランスを出ると、心地よい夕方の風が2人を包んだ。
瀬尾は紬の手をそっと離すと、少しバツが悪そうに髪を掻いた。
「……すみません、先輩。勝手に割って入って、手まで引いちゃって。偉そうなこと言いましたけど、出しゃばりすぎましたよね」
その顔は、さっきまでの冷徹なエリートのものから、一瞬で紬の知る「後輩の瀬尾くん」に戻っていた。そのギャップに、紬は思わず小さく吹き出してしまう。
「ううん、うれしかった。ありがとう、瀬尾くん。本当に助かっちゃった」
「いえ……。あんな奴に、先輩が傷つけられる必要なんて、絶対にないですから」
瀬尾は真っ直ぐに紬の目を見つめた。その瞳には、かつて部活で紬を追いかけていた頃のような、純粋な熱が宿っている。
「さっき、瀬尾くんが言ってくれたこと……私が100点満点の優しさを配れる人、だなんて。そんな風に言ってくれたの、瀬尾くんが初めてだよ」
「本当のことです。僕は、ずっと昔から、先輩のそういう素敵なところ……知ってましたから」
瀬尾の言葉に、紬の胸がトクン、と小さく跳ねる。
元彼に否定され続け、カサカサに乾いていた彼女の心の中に、温かい何かがじんわりと染み込んでいくようだった。
「先輩、これからお時間ありますか? もしよければ、少しお話させてください。積もる話もありますし」
「うん、喜んで。……あ、でも、あの業界誌の表紙になるような有名人と、私なんかでお茶していいのかな?」
紬が少しからかうように言うと、瀬尾は顔を真っ赤にして手を振った。
「やめてくださいよ先輩! あれはただの運が良かっただけで……! 僕にとっては、今でも緒方先輩が、世界で一番尊敬する人なんですから」
照れる瀬尾を見て、紬の心の中の何かが、新しくカウントを始める音が聞こえた気がした。
それは減点ではなく、これから始まっていく、新しい日々の「加点」の音だった。




