第9話:泥靴の張り込みとおとり捜査
1.下層街の蜘蛛の糸
「――本当に、お上がハイドラから手を引けって言ってきたのかい、ツヨシ」
下層街『ローグ・エンド』の錆びついた半地下。革修理店『黒猫の片足』の薄暗い作業台の奥で、ドワーフのガルドが、煙管から紫色の煙を吐き出しながら顔を歪めた。
「ああ。上のお偉いお仲間たちが『管轄外だ、国家機密だ』って大騒ぎでな。俺たちのファイルを全部持ってっちまったよ」
ツヨシは作業台に寄りかかり、苦笑いを浮かべながら、指先で古い木製のコインをもてあそんだ。
「ハッ、いかにも王宮の豚どもがやりそうなことだ」
ガルドは床に唾を吐いた。
「ヴァルター先生の治療法を待ってたガキどもの命より、自分たちの財布とメンツの方が大事ってわけだ。……で、あんたたちは諦めるのか?」
「諦めるわけないでしょう」
店の隅、魔導配線の束を避けながら立っていたアルフレッドが、静かだが固い声で言った。その目はすでに、王宮の命令に怯えていたかつての騎士のものではない。
「公式に動けないなら、非公式に動くだけです。私たちは、ハイドラを王都に流している末端の売人を炙り出したい。ガルド、何か情報は?」
ガルドはしばらく二人を睨みつけていたが、やがて太い腕を組み、不敵にニヤリと笑った。
「お前たちみたいな頑固なバカは嫌いじゃない。……最近、このローグ・エンドの裏路地で、急に羽振りの良くなったエルフのガキがいる。名はディラン。少し前までは行き倒れ寸前だった。それが、ここ一週間で質の良い絹の外套をまとい、非合法の魔導賭博に入り浸っている。あいつの懐から、時折ハイドラの青い光が漏れているのを見た奴がいる」
「ディラン、か。売人の足としてはうってつけだな。元が平民以下なら、組織も使い潰しやすい」
ツヨシはコインをポケットにしまい込み、外套の襟を立てた。
「ガルド、助かった。ホシの足跡を追うぞ」
「気ぃつけな、ツヨシ。ディランの背後には、バルドー・ファミリーの『目』があるはずだ。一歩間違えれば、ドブ川に浮かぶことになるぞ」
「浮くのは悪党の死体だけだ。アル、行くぞ」
2.泥臭き「馬車泊」と刑事の灯火
王都の夜は、下層街を冷酷な闇で包み込んでいた。
ディランが根城にしている、崩れかけた集合住宅の向かい。放置された古びた荷馬車の狭い荷台に、ツヨシとアルフレッドは身を潜めていた。
堂場瞬一の描く、極限までストイックな「張り込み(ステークアウト)」。
馬車の幌の隙間から、冷たい夜風が容赦なく吹き込み、二人の体温を奪っていく。結界の塔の事件の時とは違い、魔法による防寒は一切使えない。魔力反応を出せば、バルドー・ファミリーの探知魔導師に感づかれる恐れがあるからだ。
足の感覚はとうに消え、手首の関節がジリジリと軋む。
「……ツヨシ」
アルフレッドが、凍える息を白く吐き出しながら、小さな声で囁いた。
「もう、三日目です。ディランは昨夜から一度も部屋から出てこない。本当に、あいつが売人なのでしょうか」
「焦るな、アル」
ツヨシは窓の外、凍てつく街路灯の仄青い光をじっと見つめたまま、一ミリも姿勢を崩さなかった。
「デカの仕事の九割は、この『待ち』だ。前世じゃ、真冬の新宿の雑居ビルの屋上で、凍え死にそうになりながら一週間標的(マル被)を待ったこともあった。刑事ってのはな、自分の身体が石の地蔵になったと思うくらいが、ちょうどいいんだよ」
ツヨシは懐から、冷え切った金属製の水筒を取り出した。中に入っているのは、エルフの孤児院のシスターが持たせてくれた、芋から作った不味くて強い蒸留酒と、下層街の薄いスープを混ぜたものだ。
一口すすり、強烈なアルコールで喉と胃袋を無理やり焼く。それをアルフレッドに差し出した。
「飲め。少しは身体が温まる」
アルフレッドは戸惑いながらも水筒を受け取り、躊躇いがちに口をつけた。
「……うぐっ……! ひどい味ですね、これは」
顔をしかめる若者に、ツヨシは不敵に笑う。
「だが、効くだろ。……アル、お前、後悔してねえか」
「後悔、ですか」
アルフレッドは水筒を握りしめ、膝の上に視線を落とした。
「かつて私は、神聖騎士団の指揮官を目指していました。美しい白い甲冑を着て、王宮の秩序を守るのが『正義』だと信じていた。ですが……あそこにあったのは、都合の悪い真実を切り捨て、下層街の命を家畜のように扱う『保身』だけでした」
アルフレッドの金色の瞳に、荷馬車の闇の中で、静かな怒りの火が宿る。
「今の私は、泥にまみれ、寒さに凍え、不味いスープをすすっています。騎士団の教科書には、これが犯罪捜査だとは一行も書いてありませんでした。……ですが、不思議と、今の自分が一番誇らしい。私は、自分の意志で、真実を追っている。……それだけで、靴を減らす価値があります」
「へっ、合格だ」
ツヨシは相棒の肩を乱暴に叩いた。
「お前はもう、お上のおままごとの『騎士』じゃねえ。立派な『デカ』だよ」
その時、ツヨシの目が不自然に動いた。
向かいの集合住宅の、傾いた木製の扉がゆっくりと開いた。
フードを深く被り、周囲を警戒するように見回しながら、一人の若い男が這い出てくる。質の良い絹の外套。ディランだ。その右ポケットが、ハイドラの小瓶の重みで不自然に垂れ下がっている。
「アル、ホシが動いた。……網を引くぞ」
3.「マル暴」の取り調べ
ローグ・エンドの、人気の途絶えた廃倉庫。
天井の隙間から差し込む月光が、冷たい石畳を照らし出していた。
ガシャァァン!
金属製の椅子が引きずられる、耳障りな音が響く。
椅子に縛り付けられたディランは、まだ二十歳そこそこの若いエルフだった。その額からは脂汗が流れ落ち、美しいエルフの耳が恐怖で小刻みに震えている。
「な、何なんだよお前ら! 警備隊だろ? 俺が何をしたって言うんだ! 令状はあるのかよ!」
「令状?」
ツヨシはゆっくりとディランの前に歩み寄り、椅子の背もたれに片足を乗せて、上体を近づけた。
ツヨシの瞳は、普段のとぼけた平民のそれではない。かつて歌舞伎町の極道どもを、その凄みだけで震え上がらせてきた「警視庁捜査一課・組織犯罪対策係」の、本物の『ヤクザ担当刑事』の目だった。
「お坊ちゃん。俺たちが令状を持って、行儀よくお前を『お役所』に連れて行くと思ってたのか?」
ツヨシの声は、低く、低音の刃のようにディランの鼓膜を削る。
「お前、さっきの取引現場で何を持ってた? 『ハイドラ』が五瓶。末端価格で金貨三十枚分だ。ハイドラは本日付で『レベル4・国家機密』に指定された。これを持っているだけで、お前は裁判なしで終身奴隷送り、あるいは国家反逆罪で即刻絞首刑だ」
「そ、そんな、俺はただ、運ぶように言われただけで……!」
「運んだだけでも、首が吊れるんだよ。……なあ、ディラン」
ツヨシはディランの顎を、荒れた手で乱暴に掴み、上を向かせた。
「お前のボスは、お前が捕まった時、助けてくれるか? バルドー・ファミリーの連中が、警備隊の地下牢に忍び込んで、お前のために金を払ってくれると思うか? ……違うよな。あいつらは、お前を『トカゲの尻尾』として切り捨てる。それどころか、口封じにお前の首を刈りに来る。……お前が今、生き残る道は一つしかねえんだ」
ツヨシの圧倒的な「殺気」と「心理戦」に、ディランの精神は急速に摩耗していく。魔法による威圧ではない。長年の経験に裏打ちされた、人間の「恐怖のツボ」を正確に突く、泥臭い取り調べの技術。
アルフレッドは、傍らでその様子を息を呑んで見つめていた。ツヨシの放つ、暗黒街の住人以上の「凄み」。これこそが、かつて彼が「一度死んでいる」と言った、修羅場を潜り抜けてきたデカの真骨頂だった。
「い、言う……言うから! 助けてくれ、奴隷は嫌だ!」
ディランの目から、ついに涙が溢れ出た。
「ハイドラの一次流通は、俺みたいな末端じゃ触れないんだ。……でも、引き渡し場所は知ってる。毎週水曜の夜、王都の貴族街にある高級カジノ『ゴールデン・ロータス(黄金蓮)』の地下VIPルームだ。そこで、ファミリーの若頭であるレオン・バルドー様が、直々に取引を仕切っている」
「レオン・バルドー……」
ツヨシの胸の奥で、前世の血が騒ぎ出す。
「そいつは、どんな男だ?」
「若くて、いつも完璧な仕立てのローブを着ている。……でも、奇妙なんだ。あいつ、取引の相手を脅すとき、この国の言葉(グラナダ語)じゃなくて、聞いたこともない平べったい、不気味な言語を使うんだ。……『オマエノ・イノチ・ナド・ゴミバコユキダ』って……」
その瞬間、ツヨシの身体が凍りついた。
『お前の命など、ゴミ箱行きだ』
――瀬戸川。
前世、東京湾のあの廃倉庫で、自分をハメ、笑いながら銃の引き金を引いた九頭竜会の若き幹部。あいつもまた、その日本語を、全く同じ冷酷さで口にしていた。
(……やはり、お前なのか。瀬戸川……!)
ツヨシはディランの顎から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
その背中から放たれるのは、これまで見たこともない、深く、冷たい、猛烈な「執念」の炎だった。
「アル、中継地点が割れた」
ツヨシは外套の襟を正し、闇の奥を見据えた。
「王都の高級カジノ『ゴールデン・ロータス』。……そこが、俺たちの次の現場だ」




