第8話:組織対策課の『壁(ブロック)』
1.地下の分析官
王都警備隊本部、地下二階。
かつて物置として使われていた湿気臭い部屋が、今のツヨシたちのオフィスである「特別捜査係」のすべてだった。
天井を走る剥き出しの魔導配管が時折ジジ、と低く唸り、室内に置かれた古びた魔導ランタンが仄青い光を投げかけている。
「――間違いない。アッシェンバッハ邸の現場で採取された残留魔力は、従来の『ハイドラ』をはるかに凌駕する超高濃度だ」
アルフレッドが、虫眼鏡を片手に羊皮紙の報告書を睨みつけながら呻いた。
彼のデスクの上には、前回のゲオルグ事件で押収した帳簿の写しと、今回の事件現場からツヨシが「非公式に」持ち帰った燃え残りの結晶が並んでいる。
「魔力増幅ドラッグ『ハイドラ』……。ただの麻薬じゃない。これは使用者の魔力回路を強制的に過負荷させる『兵器』だ。魔導省の極秘資料をいくつか漁ったが、このドラッグによるエネルギー放出量Eは、使用者の精神負荷Mとハイドラの魔導濃度Dによって、以下の相関式で定義されている」
アルフレッドは、羽ペンを走らせて木製の黒板に数式を書き出した。
E = κ・D²/1 + γ・M
「κとγは固有の魔導変換定数だ。精神負荷Mが増大すれば分母は大きくなるが、問題は魔導濃度Dだ。この値が二乗で比例している。アッシェンバッハ邸のロバートは、極限まで精神を追いつめられた状態で、通常規格の数倍もの高濃度ハイドラを摂取した。その結果、放出量Eが肉体の魔導許容閾値を超え、回路が暴発――自らを内側から焼き尽くしたんだ」
「なるほどな」
ツヨシはデスクの端に腰掛け、不味いコーヒーを啜りながら黒板の数式を見つめた。
「前世の覚醒剤やコカインとも違う。精神を狂わせるだけじゃなく、物理的な爆弾に変えちまうってわけか。……そんな恐ろしいモンを、誰が王都に流してやがる」
「ゲオルグの裏金帳簿の資金フローは、すべて王都の闇組織『バルドー・ファミリー』に繋がっていました。彼らがハイドラの密売ルートを握っているのは確実です。そして――」
アルフレッドは、一枚の白紙に描かれたアルファベットの羅列を指差した。
『 KUZURYU-KAI 』
「ツヨシ、あなたが以前『九頭竜会』と呼んだこの単語。これがファミリーのさらに奥、すべての絵を描いている黒幕の正体なんですね?」
「ああ」
ツヨシはコーヒーカップを置き、鋭い目を向けた。
「俺を殺し、お前を落とした組織の影だ。異世界に転生してまで、あいつらのツラを拝むことになるとは思わなかったがな。……よし、アル。バルドー・ファミリーの内偵を進める。まずはゲオルグの帳簿に載っていた、ハイドラの一次流通拠点を叩くぞ」
「わかりました。捜査令状の手続きを――」
アルフレッドが書類をまとめようとしたその時、部屋の重い鉄扉がノックもなしに乱暴に押し開けられた。
2.非情なる閲覧制限
「その捜査は不要だ。警備隊の特別捜査係」
現れたのは、仕立ての良い漆黒の法衣をまとい、数人の武装騎士を従えた男――王宮法務省の特別監察官であり、新設された「魔導組織犯罪対策課」の課長、クラウス・フォン・ハルデンベルク警視正だった。
彼の眼鏡の奥にある青い瞳は、冷徹な法秩序の体現そのものだった。
「クラウス監察官……いや、ハルデンベルク課長」
アルフレッドが反射的に立ち上がり、最敬礼を送る。だが、クラウスは一瞥もくれず、背後の部下に顎で指示を出した。
部下の騎士たちが部屋に踏み込み、アルフレッドがまとめていたゲオルグの帳簿や、現場の魔力分析データを次々と木箱へ詰め込み始めた。
「な、何をするんですか!」
アルフレッドが抗議の声を上げる。
「魔導特別捜査係。本日付をもって、お前たちが保有する『ハイドラ』関連、およびゲオルグ事件のすべての捜査資料は、我が『魔導組織犯罪対策課』の直轄管轄に移管された」
クラウスは、王宮の隠密印が捺された一枚の羊皮紙を冷酷に突きつけた。
「これは王宮法務省、および神聖騎士団総本部の連名による正式な職権命令書だ。ハイドラ関連の資料はすべて『レベル4・国家機密』に指定された。平民上がりの特別捜査係には、これ以降、一切の閲覧権限および捜査権限は与えられない。ハイドラに関わる捜査は直ちに全面中止。本令に違反した者は、国家反逆罪に処す」
「全面中止……!?」
アルフレッドの顔から血の気が引いていく。
「そんなバカな! 私たちは今、事件の核心に迫っているんです! このドラッグは王都の若者たちの命を奪い、闇組織が王宮の資金を貪るシステムになっている! ここで捜査を止めれば、さらに多くの被害者が出ます!」
「それが組織の決定だ、アルフレッド」
クラウスは表情一つ変えず、冷淡に言いきった。
「今回の事件は、単なる地方の犯罪ではない。王宮の最高権力構造、そして他国との魔導貿易のパワーバランスに直結する、巨大な国家的問題だ。それを、警備隊の端くれである貴様らが、泥臭い『聞き込み』や『現場の勘』とやらで嗅ぎ回れば、我々の描く大局的な包囲網が瓦解する。……警備隊のノンキャリは、おとなしく下層街の泥棒でも追っていればいい」
今野敏の描く、官僚主義の最たる論理。
大局を守るために現場の正義を切り捨てる「組織の壁」が、重苦しい沈黙となってアルフレッドの肩にのしかかった。
3.『壁』を壊す者
「――おい、監察官殿」
それまで黙ってコーヒーを啜っていたツヨシが、ゆっくりと立ち上がった。
デスクの端から降り、一歩、また一歩とクラウスへと近づく。ツヨシの足元から響く、すり減った革靴の乾いた音が、静まり返った部屋に不気味に響いた。
「大局、ね。お偉いキャリア様らしい、頭の良さそうな言葉だ」
「立ち止まれ、警備隊。私の前に許可なく進むな」
クラウスの部下の騎士がツヨシの胸元に手を伸ばそうとしたが、ツヨシはその手を、警察仕込みの素早い掌底で弾き飛ばした。
「なっ……!」
「下がってろ、お坊ちゃん」
ツヨシの目は、すでに完全に獲物を捉えた狂犬のそれだった。クラウスは眉をひそめたが、避けることなく、眼鏡の奥から冷たい視線をツヨシに向けたままだ。
「ツヨシ、よせ!」
アルフレッドが止めようとするが、それよりもツヨシの動きの方が速かった。
ツヨシはクラウスの眼前に肉薄すると、その仕立ての良い黒い法衣の胸ぐらを、硬く荒れた手で鷲掴みにした。
ジィィン、と魔導特別捜査課のオフィスの空気が凍りついた。周囲の騎士たちが一斉に抜剣の構えを取るが、ツヨシから放たれる、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた男の圧倒的な「殺気」に気圧され、誰も最初の一歩を踏み出せない。
「貴様、何のつもりだ。法務省の監察官たる私に手を上げれば、ただの罷免では済まんぞ」
クラウスは胸ぐらを掴まれながらも、声のトーンを一つも落とさず、冷徹に言い放った。
「罷免? クビになることなんて、一度死んでる俺に言わせりゃ『かすり傷』にもならねえよ」
ツヨシはクラウスの顔を、自身の至近距離まで引き寄せた。
「おい、お偉いさん。お前らの言う『大局』ってのは、紙切れの上に描いた綺麗なおままごとか? その紙切れの裏で、目の前で『ハイドラ』を掴まされて、魔力回路を焼き切られて死んだガキたちがいるんだ。下層街の泥水をすすりながら、苦しんで、灰になって消えていく命があるんだよ」
ツヨシの言葉が、銃弾のようにクラウスの胸に突き刺さる。
「お前のその『管轄』って紙切れ一枚と、その死んでいったガキどもの命を、天秤にかけるんじゃねえよ。お前らが大局とやらのために資料を隠し、捜査を先延ばしにしている今この瞬間も、次の仏が作られてるんだ。……それとも、官僚ってのは、人が何人死ねば、その重たい重たい腰を上げる仕組みになってるんだ?」
「……手を、離せ」
クラウスの声が、かすかに低く、怒りを帯びたものに変わった。
「秩序を守るのが我々法務省の仕事だ。無秩序な捜査は、悪よりも大きな混乱を生む」
「その綺麗な『秩序』のせいで、悪党がのうのうと笑ってやがるんだよ」
ツヨシはクラウスの胸ぐらを突き放すようにして手を離した。
クラウスは衣服の乱れを静かに整え、ツヨシを冷酷に見つめ返した。
「……特別捜査係の捜査権限は剥奪された。これは変更のない決定だ。これ以上、ハイドラに関われば、お前たちを組織犯罪の一味として拘束する」
クラウスは踵を返し、部下を引き連れて部屋を去っていった。
鉄の扉が、重苦しい音を立てて閉まる。
部屋に残されたのは、荒らされたデスクと、すべてのデータを奪われた、空っぽの捜査ファイルだけだった。
4.ドブ川の誓い
「ツヨシ……、どうするんですか。資料はすべて押収され、管轄も奪われた。これでは、もう手も足も出ない……」
アルフレッドは、ガタガタと震える手でデスクの縁を掴んだ。国家反逆罪という言葉の重み、そしてエリート官僚組織である「魔導組織犯罪対策課」の圧倒的な壁。ノンキャリ警備隊の彼らには、あまりにも理不尽な現実だった。
だが、ツヨシは懐から安価な薬草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。
吸い込んだ紫煙を天井の魔導配管に向けて吐き出すと、彼は不敵にニヤリと笑った。
「手も足も出ない? 冗談言うなよ、アル」
「え……?」
「俺たちには、まだ一番頑丈な『足』が残ってるだろ」
ツヨシは自分の履き慣れた革製ブーツのつま先を床にトントン、と叩いた。
「前世でもな、本庁が管轄だの威信だので現場の捜査を打ち切ろうとしたヤマが、いくらでもあった。そんな時、俺たちノンキャリがどうしたか、教えてやるよ」
ツヨシは煙草を指に挟み、窓の外の、夜霧に濡れる王都の夜景を見つめた。
「お上が動けないなら、俺たちだけで追う。令状がねえなら、令状のいらねえ地道な『内偵』と『張り込み』だ。公式のデータがねえなら、下層街のドブ川を這いずり回って、自分の耳と目で証拠を集める。……デカの仕事ってのはな、お上の許可証でやるもんじゃねえ。仏さんの無念を晴らしたいっていう、ただの『執念』で動くもんだよ」
アルフレッドはツヨシの顔を見つめ、そして、深く息を吐き出した。
彼の金色の瞳に、再び静かだが猛烈な「刑事の灯火」が宿る。
「……あなたのそういう『野蛮で超法規的』なところ、騎士団の教科書には絶対に載っていませんでしたが……今の私には、それこそが唯一の信頼に値する『法』に見えます」
「へっ、お前も随分と泥水に馴染んできたな、相棒」
ツヨシは煙草を踏み消し、外套を羽織った。
「行くぞ、アル。お偉いキャリア様たちが、机の上で綺麗な大局のパズルを解いている間に、俺たちは下層街のドブ板を一枚ずつひっくり返して、ホシの尻尾を掴みに行くぞ」
王都の冷たい雨が、地下の特別捜査係を包むように降り始めていた。
組織の厚い「壁」の向こう側で、二人のデカは、再び地道な、しかし確実な一歩を踏み出した。




