第6話:夜明けの泥靴
1.組織の引き際
神聖騎士団指揮官ゲオルグの「現行犯逮捕」から三日後。
王都警備隊の本部、その地下深くに位置する「魔導特別捜査課」の薄暗いオフィスには、いつにも増して重苦しい沈黙が立ち込めていた。
「――今回の件は、表向きは『ゲオルグ個人の精神錯乱による独断専行、及び地位を利用した魔導搾取の罪』として処理されることになった」
課長である老エルフのアーヴィングが、分厚い報告書を乱暴に机に放り投げた。その眼鏡の奥の瞳には、ひどい睡眠不足の疲労が張り付いている。
ゲオルグが下層街の子供たちを使って行っていた非道な「魔力抽出実験」。その極秘指令書に捺されていた王宮の隠密印は、すべて「偽造されたもの」として、王宮上層部の関与は最初から存在しなかったかのように綺麗さっぱりと処理されていた。
「トカゲの尻尾切り、か。お上はどこへ行ってもやることは同じだな」
ツヨシはデスクの端に腰掛け、すり減った革靴のつま先を見つめながら自嘲気味に鼻で笑った。懐から薬草を取り出そうとしたが、アーヴィングの鋭い視線に気づき、代わりに飴玉を口に放り込んだ。
「これでもマシな方だよ、ツヨシ」
デスクで羊皮紙の整理をしていたアルフレッドが、落ち着いた声で言った。その顔からは、かつて組織の命令に怯えていたエリート志向の弱さは消え失せ、どこか吹っ切れたような、引き締まった表情になっていた。
「私たちが持ち帰った『実験データ』が本物である以上、王宮も下層街の実験施設をこれ以上存続させることはできなかった。公にこそされませんが、拉致されていた子供たちは全員解放され、下層街の秘密収容所は昨日、完全に封鎖されました」
「……だがな、アルフレッド」
アーヴィング課長が、二人の若いデカを交互に見つめ、低く苦い声を漏らした。
「君たちがやったことは、完璧な『命令違反』だ。特にゲオルグを物理的に叩きのめし、手錠をかけたツヨシ。王宮内では、警備隊の平民風情が騎士団の最高幹部を屈服させたことへの、激しい怒りと反発が渦巻いている。本来なら、君たちは即刻、免職どころか『不敬罪』で極秘裏に処分されていてもおかしくなかったんだよ」
「じゃあ、なんで俺たちはこうして、クビにならずにここで不味い茶を飲めてるんだ?」
ツヨシが問い返すと、アーヴィングはため息とともに一枚の羊皮紙を差し出した。
「大魔導師ヴァルター卿が生前に残していた『遺言状』だよ。……あの人は、もし自分が不慮の死を遂げた場合、自らのすべての財産と研究記録の管理権を、『王都警備隊・魔導特別捜査課』に委託すると書き残していたんだ。そして、カレンという少女がその正当な執行人であると」
アルフレッドが息を呑んだ。
「ヴァルター先生は……そこまで見越して……!」
「そうだ。王宮としても、大魔導師の正式な遺言を無視して研究データを強奪すれば、それこそ他国の魔導国家に対して示しがつかない。だから彼らは、君たちの処分を有耶無耶にする代わりに、この事件のこれ以上の追及を『一切禁じる』という取引に出たんだ。……つまり、今回の捜査はここで完全に『打ち切り』だ」
アーヴィングは席を立ち、ツヨシの肩をポン、と叩いた。
「ツヨシ、アルフレッド。今回は君たちの勝ちだ。……だが、王宮を、ひいてはこの『組織』をあまり甘く見るな。奴らは必ず、次の機会に君たちを踏み潰しに来るぞ」
「……ああ、わかってるよ、課長」
ツヨシはニヤリと笑い、デスクから立ち上がった。
「だがな、俺たちは最初から、あのお偉いさんたちと仲良くやるつもりなんてねえんだ。ホシを挙げて、仏さんの無念を晴らす。俺たち警備隊の仕事は、それだけだろ」
2.残された温もり
夕暮れ時の下層街。
錆びついた違法魔導配線が頭上を覆う路地裏には、かつての陰鬱な沈黙ではなく、少しだけ日常の生活音が戻っていた。
エルフの孤児院を訪れると、シスター・オルガと、元気に走り回る子供たちの姿があった。ゲオルグたちの地下実験場から救い出された、魔力枯渇症の幼い少女も、今ではカレンの作った薬のおかげで、その青白い頬に微かな赤みが戻っている。
「ツヨシさん、アルフレッドさん!」
庭先で薬草を干していたカレンが、二人を見つけてパッと顔を輝かせた。ボロボロだったローブは新調され、その首元には、かつてヴァルターの爪の間に挟まれていたのと同じ、鮮やかな「紫色のマフラー」が再び優しく巻かれていた。
「体調はどうだ、カレン」
ツヨシが声をかけると、カレンは深く、丁寧に頭を下げた。
「はい。子供たちも、みんな少しずつ回復しています。……先生の遺したデータのおかげで、安全な治療法も確立できそうです。本当に、ありがとうございました」
「お礼を言うなら、ヴァルター卿に言うんだな」
アルフレッドが、穏やかな微笑みを浮かべてカレンの隣に屈み込んだ。
「先生は、君を守るために、そしてこの国の歪んだ魔法万能主義を正すために、自分の命すらも賭けて闘われた。私たちは、ただその遺志を受け取って、少しだけ走ったに過ぎない」
「先生は……、きっと信じていたんだと思います」
カレンはマフラーをそっと握りしめ、沈む夕日に目を細めた。
「魔法に頼らず、ただひたすらに、人間としての執念で真実を追う、本物の『刑事』が、いつか私のところへ辿り着いてくれるって。……先生、間違っていなかったんですね」
涙を浮かべながら微笑む少女の姿を、ツヨシは静かに見つめていた。
胸の奥に、かつて前世で事件を解決した後に何度も感じた、あのほろ苦くも、確かに世界が少しだけ前に進んだという「手応え」が広がっていく。
すり減った靴の底は冷たい泥で汚れていたが、今のツヨシにとって、その汚れこそが、この世界で自分が確かに生きている証拠だった。
「じゃあな、カレン。困ったことがあったら、いつでも地下の掃き溜めに連絡してこい。俺たちの足は、いつでも動くからな」
「はい! 気をつけて!」
カレンと子供たちに見送られながら、二人は下層街の夕闇の中を歩き始めた。
3.次なる嵐の予兆
帰り道、王都の目抜き通りを外れ、人気の少ない裏通りに差し掛かった頃、アルフレッドがふと、何気ない様子でツヨシに声をかけた。
「そういえば、ツヨシ。ゲオルグの身辺整理の際、神聖騎士団の押収資料の中から、奇妙な『未解決の極秘捜査ファイル』が見つかったんだ。魔導特別捜査課に管轄が移されたから、一応目を通しておいたんだが……」
「未解決事件、ね。お高くとまった騎士団様が、解決できなかったヤマか?」
「ああ。ここ数年、王都の貴族たちの間で、奇妙な『密造ドラッグ』が流行しているらしい。使用すると一時的に膨大な魔力を得られるが、精神が崩壊し、最後には身体が内側から自壊(暴発)する。王宮はその危険性を察知し、密売ルートを必死に追っていたようだが、なぜか常に捜査線上から証拠が消え去ってしまう」
ツヨシは、口の中の飴玉をガリ、と噛み砕いた。
「組織的なもみ消しか、あるいは……。そのドラッグの名前は?」
「――『九頭竜』」
その瞬間、ツヨシの足が完全に止まった。
吹き抜ける夜風が、急に冷たくなったように感じられた。
心臓が、耳障りなほど激しく脈打ち始める。
「……ハイドラ、だと?」
「ああ。ドラッグの結晶が九つの頭を持つ蛇の形に似ていることから、闇市場でそう呼ばれているそうだ。さらに奇妙なことにね、ツヨシ。ゲオルグの執務室の裏金帳簿の片隅に、彼がそのドラッグの取引に関与していたと思われる、手書きの『メモ』が残されていたんだ」
アルフレッドは、小さな羊皮紙の切れ端をツヨシに見せた。
そこには、異世界の文字(グラナダ文字)に混じって、ゲオルグ自身が書き写したと思われる、不自然な「図形」が描かれていた。
それは、ただの図形ではなかった。
【九頭の蛇が、鋭い牙を剥いて円を描くシンボル】
そしてその下には、明らかに異世界の言語体系とは異なる、極めて整った、しかし前世のツヨシにとっては死ぬほど見慣れた「アルファベット」が並んでいた。
――『 KUZURYU-KAI 』。
(……馬鹿な……)
ツヨシの全身に、鳥肌が立った。
前世で自分をハメ、相棒の真木を狙い、そして自分を死に追いやった、あの巨大広域暴力団「九頭竜会」。
なぜ、この異世界の、それも王宮のキャリア騎士の極秘メモに、その名とシンボルが残されている。
「ツヨシ? 顔色が悪いぞ。……まさか、この文字に何か心当たりが?」
アルフレッドが心配そうに覗き込んでくる。
ツヨシは震える手で、そのメモをポケットへと押し込んだ。
脳裏に、前世のあの雨の倉庫街の光景が、血の匂いとともに鮮烈に蘇る。
組織の癒着、裏切り者、そして巨大な闇。
あいつらは、ただの日本のヤクザではなかったのか。それとも、あの事件の黒幕もまた、自分と同じように「この世界」へと繋がっていたのか。
「……いや。なんでもねえ」
ツヨシはポケットの中でぎゅっと拳を握りしめ、顔を上げて夜の街を見据えた。その瞳には、今作のどんなシーンよりも、深く、冷たく、そして猛烈に燃え盛る「刑事の執念」が宿っていた。
「アルフレッド。……俺たちの仕事は、どうやらまだまだ終わりそうにねえな」
「ええ。望むところです、相棒」
王都の冷たい闇の中、二人のデカは、次なる巨大な「事件」の足音を感じながら、静かに、しかし力強く歩き出した。
彼らの靴底が、硬い石畳に響く。
すり減らすべき靴底は、まだ、いくらでも残っているのだから。




