第24話:絶対防御数式
1.ラピス・シールドの本尊
ガシャァァン、とガラスが粉々に砕け散るような空間の拒絶反応を突き破り、ツヨシの泥だらけのブーツの底が、ついに別邸本館へと続く中庭の白い大理石の床を踏みしめた。
だが、安堵の息を漏らす隙など、この「現場」には一瞬たりとも存在しない。
「――迎撃魔導だ! 全員、遮蔽物の陰へ!」
ルークの鋭い警告と同時に、別邸のバルコニーや窓枠から、自動防衛用の極彩色光弾が容赦なく降り注いだ。
アルフレッドが修復された黒木杖を天に掲げ、瞬時に『水縛の防壁』を展開する。激しい着弾音が中庭に響き渡り、蒸発した水蒸気が白い霧となって周囲を包み込んだ。
「ツヨシ、アルフレッド、ルーク。無駄な戦闘は避けるぞ」
クラウスが、割れた眼鏡の代わりに装着した片眼鏡のレンズを指先で微調整しながら、冷徹に告げた。その瞳は、中庭の奥、別邸の本館エントランスを完全に塞ぐようにして不気味な仄青い光を放つ、巨大なドーム状の結界を凝視していた。
「……あれが、公爵別邸の絶対空間防衛障壁『ラピス・シールド』の本尊だ。外周の北東ターミナルをこじ開けた程度では、このメインシステムは揺るぎもしない」
ツヨシは近くの石造りの彫刻の陰に身を潜め、濡れた前髪を乱暴に払いながら、その巨大な障壁を見上げた。
「お偉いさんが作った『完璧な引きこもり部屋』ってわけか。クラウス、ハッキングで鍵は開かねえのか?」
「不可能ではない。だが、この結界は単純なパスコードでロックされているわけではないのだ」
クラウスは懐から簡易の魔導数式展開器を取り出し、その白い指先で空中に複雑なグラナダ文字の数式を投影した。
「この絶対障壁の防御出力Φは、血統純度や配置された魔力など、極めて複雑な空間物理の数式によって支配されている。真木が法務省のバックドアに遺してくれた設計データによれば、その防衛出力の数式は以下のように定義されている」
N
Φ = α・ΣMi²/ri・(1 - β・λ)
i=1
「αとβは王宮防衛省の固有魔導定数。λはバルドー公爵の血統純度指数。そして、Miは周囲に配置された四つの魔導ターミナルが供給する『魔力濃度』であり、riは結界の『空間半径』だ。この数式が示す出力Φが臨界値を維持している限り、いかなる物理的・魔導的攻撃も、表面で完全に運動エネルギーを中和され、無力化される」
「血統純度指数λ……。あの男は、実の息子である真木を無魔の汚物と蔑みながら、自分自身の血の濃さを防御の盾に使っているのですね」
アルフレッドが、怒りを帯びた声で杖を強く握りしめた。
「全くだ。だが、どれほど美しい数式であろうとも、現場(現実)のノイズまで計算しきることはできない」
クラウスの口元に、冷酷なキャリアの自嘲の笑みが浮かんだ。
「ツヨシ、アルフレッド。この数式を崩壊させる変数を、今から我々の手で創り出す」
2.数式の「バグ」
「変数を狂わせる……? クラウス課長、具体的にはどうするんですか」
ルークが、短杖の照準器を構えたまま問いかける。
「分母にある空間半径ri、そして分子の魔力濃度Miのバランスを、同時に極限まで歪ませる」
クラウスは、展開器のスクリーン上に映る絶対結界の循環ノイズを指差した。
「私がこれより、王宮法務省の権限を用いて、結界の制御システムへ外部から『監査介入』を仕掛ける。それにより、一時的に血統純度指数λの計算処理に数ミリ秒の遅延を発生させる。その瞬間、障壁は一瞬だけ魔力濃度Miの急激な変化に対応できなくなる」
「その隙に、私とルークが、残る三つの魔導ターミナルの地脈接続点へ同時に『魔力逆流』を叩き込む。……ですね?」
アルフレッドの目が、鋭く輝く。
「そうだ。分子のMiを物理的に暴走させ、防衛出力を制御不能な臨界点まで急上昇させる。だが、それだけでは結界は弾けるだけで、再び自己修復してしまう。……ツヨシ、お前の出番だ」
クラウスは片眼鏡越しに、泥だらけの平民刑事を真っ直ぐに見据えた。
「魔力濃度Miが臨界点に達した瞬間、結界は自らの出力を維持するために、空間半径riを縮小(収縮)させてエネルギーを抑え込もうとする。その収縮の瞬間、空間の継ぎ目である『特異点』に、魔法ではない、純粋な『質量による物理的打撃』を叩き込め。物理運動エネルギーを魔導変換するシステムがオーバーフローしているその一瞬だけは、お前の泥靴の打撃が、結界を物理的に粉砕する『楔』となる」
「へっ……、大層な理屈だな、お偉いさん」
ツヨシは懐から、クシャクシャになった最後の安価な薬草を取り出し、口に咥えてマッチの火を灯した。
じわりと広がる不快な紫煙の向こうで、ツヨシの目が、かつてヤクザの事務所に「破城槌」を担いで突入したあの日の、剥き出しの狂犬のそれに変わる。
「要するに、お前たちが頭のいい魔法で障壁のシステムをバグらせた瞬間に、俺がこの体一つで、その一番薄いガラスを叩き割ればいいんだろ?」
「野蛮だが、その通りだ。……行くぞ、お坊ちゃんたち。法の外の『強制執行』を始める」
3.絶対防御のブレイク
ザーザーと、王都の夜を塗りつぶす冷たい夜雨が、別邸の中庭を激しく叩いていた。
クラウスが白金魔導杖を地面に突き立て、展開器のシステムへ自らの全魔力を流し込んだ。片眼鏡の奥の瞳が、信じられない速度で明滅する魔導コードの羅列を監査していく。
「――監査介入、開始! 血統指数λ、処理遅延を発生! 今だ、アルフレッド、ルーク、撃て(ファイア)!」
「『激流の逆巻』――ッ!」
「『暴風の閉塞』――ッ!」
アルフレッドの杖の先から放たれた極限の激流と、ルークの放った圧縮された暴風の魔導エネルギーが、中庭の地脈を這うようにして、残る三つの魔導ターミナルへと同時に撃ち込まれた。
ドォォォォン! と、地鳴りのような爆音が轟き、別邸の絶対結界『ラピス・シールド』の表面が、不気味な仄青い光から、制御を失った赤黒い光へと激しく変色していく。
Φ → ∞
「数式が暴走している! エネルギーの抑え込み、空間半径riの収縮が始まるぞ!」
クラウスの絶叫。
バリバリと、別邸全体を包んでいた絶対障壁の表面が、エネルギーの過負荷によって内側へと急激に縮み始めた。その収縮の力によって生じる、空間の歪みの特異点――仄青い光が一本の「細い糸」となって収束する中心点。
「ツヨシさん、今です! 歪みの中心を、撃ち抜いてください!」
「――よっしゃあ、行くぞぉぉぉッ!」
ツヨシのすり減った革靴が、夜雨の泥濘を力強く、激しく蹴り上げた。
空間が収縮する凄まじい風圧と、魔導の過負荷による熱風が、ツヨシの外套を焼き、皮膚を裂き、肉体を押し戻そうとする。だが、前世のあの雨の倉庫街から、この異世界まで地続きで繋がってきた刑事としての「執念」が、その圧倒的な空間の壁を許さなかった。
ツヨシは全身の筋肉を限界まで引き絞り、手にした特殊警棒に、自らの全体重、そして生きる意志のすべてを乗せて、空間の継ぎ目へと弾丸のように体当たりを仕掛けた。
魔法の使えない、無魔の平民。
だが、その肉体が放つ、純粋な質量の衝突――。
ガガギギギギィィィィンッ!
空間そのものが悲鳴を上げるような、凄まじい金属の破壊音が響き渡った。
過負荷に達していたラピス・シールドの防御数式が、ツヨシの泥臭い物理的打撃という「想定外のバグ」によって、完全に崩壊した。
ガシャァァン!
絶対の空間障壁が、ガラスのように粉々に砕け散り、光の破片となって夜雨の闇へと消えていく。
4.大理石の床を踏みしめて
立ち込める白い水蒸気と、砕け散った魔導の光の塵。
ツヨシの泥だらけの重厚な革製ブーツの底が、ついに、公爵別邸の絢爛たる大理石の床を強く、力強く踏みしめた。
「はぁ、はぁ……。やったな、お坊ちゃんたち」
ツヨシは、焼き焦げた外套の襟を正し、折れかけた特殊警棒の感触を確かめながら、不敵にニヤリと笑った。
「システムがどれだけ完璧だろうが、作った奴の『傲慢さ(血統)』に頼ってるうちはな、現場の泥靴に踏み潰される運命なんだよ」
「……相変わらず、野蛮で非合理的な突破口だな、ツヨシ」
クラウスは魔導展開器を懐にしまい、片眼鏡を拭いながら、自嘲気味に、しかし誇らしげに微笑んだ。
「だが、これで防衛システムは完全に瓦解した。別邸本館への侵入、成功だ」
「行きましょう。カレンのため、そして、先生の無念を……真木の宿命に、今日こそケリをつけるために」
アルフレッドが、へし折れた予備の杖をしっかりと握り直し、本館の重厚な黒檀の扉を見つめた。
ルークもまた、短杖を構え、ツヨシの隣で鋭い眼光を放っている。
本館の最深部から漂ってくる、あの不気味で冷酷な、しかしどこか懐かしい魔力の気配。
真木、そして、すべてを裏から操ってきた『バルドー公爵』が、この扉の向こうで待っている。
夜雨を吸って重くなった4人のデカたちの影が、白亜の廊下へと、長く、そして力強く伸びていった。




