第2話:結界の塔(臨場編)
1.キャリアの洗礼
見上げる「結界の塔」は、天を衝く灰色の巨大な指のようだった。
王都グラナダの北西に位置するその塔は、周囲を峻険な断崖に囲まれ、吹き下ろす冷風に身を震わせている。前世の臨海副都心にそびえ立つ高層ビル群とは似ても似つかない、中世の要塞そのものの威容だった。
だが、その周囲に張り巡らされた規制線の代わりに立つ武装兵たちの姿は、剛――いや、今の名はツヨシだった――にとって、嫌というほど見慣れた「事件現場」の光景そのものだった。
「おい、ツヨシ。本当に中に入る気か? 現場はすでに、神聖騎士団の魔法鑑識が仕切っているんだぞ」
石段を登りながら、隣を歩くアルフレッドが神経質そうに金髪をいじった。その横顔には、あからさまな忌避感が浮かんでいる。
「入る気か、じゃねえよ。要請があったから来たんだろ」
「要請じゃない、ただの『おこぼれ』だ。警備隊の平民刑事に花を持たせる気など、彼らには微塵もない」
塔の最上階である五階、大魔導師ヴァルターの研究室の前には、豪奢な白銀の甲冑を身にまとった若者たちが数人、暇そうに佇んでいた。胸元に輝く星形の徽章は、王宮直属の精鋭「神聖騎士団」の証だ。いわば、警察庁直轄のエリート中のエリートである。
ツヨシたちの青い外套を目に留めると、彼らは露骨に蔑みの視線を向けた。
「おいおい、どこの泥棒を追いかけて迷い込んだんだ? ここは王宮警備隊のノンキャリが嗅ぎ回っていい場所じゃないぞ」
リーダー格の若い騎士が、鼻で笑いながら言った。その目は、アルフレッドの胸元にある警備隊の徽章をなぞり、さらにその奥のツヨシへと向けられる。
「魔法鑑識がすでに『事故死』と結論づけている。高名なヴァルター卿は、高度な結界魔法の展開中に魔力暴走を起こし、自らの魔法の反動で亡くなられた。他殺の余地などない。さあ、大人しく自分たちの巣へ帰るんだな」
アルフレッドが悔しさに拳を握りしめ、唇を噛む。その肩が微かに震えていた。かつては彼もその「エリート」の側にいたのだろう。左遷された身としての屈辱が、その若い身体を強張らせていた。
だが、四十二年の人生を泥臭い刑事として生きてきたツヨシにとって、この手の「キャリアからの嫌がらせ」など、警視庁の廊下で毎日のように浴びてきた退屈なノイズに過ぎなかった。
「なあ、お若い上等兵殿」
ツヨシは懐を弄りながら、とぼけた顔で一歩前に出た。
「俺の田舎じゃあ、ガイシャ――いや、亡くなった仏さんに一礼もせずに立ち去るのは、最大の恥とされてるんだ。お偉い大魔導師様の最期だ。せめて、そこの敷居の外からでいい、頭を下げさせてくれねえか。それとも、神聖騎士団ってのは、死者への礼儀すらも魔法で省略するのか?」
「貴様、無礼な……!」
「まあ待て、セシル」
別の騎士が、憤慨する同僚の手を制した。
「放っておけよ。どうせ、魔法の魔の字もわからん平民だ。焦げた死体を見て怯えて逃げ帰るのが関の山さ。少しだけ見せてやって、我々との格の違いを教えてやればいい」
男たちは嘲笑しながら道をあけた。
「……すまねえな」
ツヨシは軽く手を上げると、ずっしりとした革のブーツの音を響かせ、結界の塔の最上階へと足を踏み入れた。
2.デカの目
部屋の空気は、不自然なほど乾燥し、焦げ茶色の沈黙に満ちていた。
円形の広い研究室。中央には、仰向けに倒れた老人の遺体があった。衣服は部分的に焼け焦げ、皮膚は黒ずんでいる。王宮魔導師団の重鎮、ヴァルター(62)。
魔法捜査官たちは、部屋の四隅に置かれた魔導結晶に杖を向け、「魔力の残渣」を測定する光の糸を張り巡らせていた。
「魔力ログに異常なし。結界は外側から内側まで、物理的・魔導的に一切の突破痕はありません。したがって、密室。第三者の侵入は不可能です」
事務的に報告する鑑識官の声を聞き流しながら、ツヨシはすっと膝を折った。
そして、床に這いつくばるようにして、顔を絨毯に近づけた。
「……おい、ツヨシ、何をしているんだ!」
アルフレッドが青ざめて小声で制止する。周囲の騎士団員たちも、「まるで犬だな」「平民の捜査とは、あのように見苦しいものか」と、くすくすと笑い声を漏らした。
だが、ツヨシの耳には彼らの雑音など一切届いていなかった。
彼の「目」は、完全に前世の捜査一課警部補・津島剛のものに戻っていた。
(魔力ログがどうだか知らねえが、物理的な世界はそう簡単に嘘を吐かねえよ……)
ツヨシはまず、遺体のすぐ近くにあるマホガニー製の丸テーブルを見つめた。
テーブルの上には、魔法で保温機能が施された陶器のカップが二つ。一つはヴァルターの遺体の手の届く範囲にあり、中身のハーブティーは蒸発して底に茶色い膜を作っている。
問題は、対面にあるもう一つのカップだった。
それは、テーブルの端、落っこちそうな不自然な位置に置かれていた。そして、その底があったと思われる場所から数センチ横に、かすかな「水滴の輪染み」が残っている。
(一人で死ぬ予定の奴が、わざわざ対面にもカップを置くか? それも、一度置いたカップを、わざわざテーブルの端へと少しだけ移動させている。なぜだ? ……対面に座った『客』が、ヴァルターの死に際に立ち上がり、慌ててカップを避けた。あるいは、何かの拍子にぶつかりそうになって動かした痕跡だ)
「アルフレッド」
ツヨシは床に目を落としたまま、静かに相棒を呼んだ。
「お前、このじいさんの今日の予定を知ってるか?」
「……え? いや、知りませんが……それが捜査に関係あるのですか?」
「大ありだ。人はな、予定に合わせて動く。死ぬ予定のなかった奴の部屋には、それなりの『生活のノイズ』が残るんだよ。一人で自殺するか、魔法の暴走で死ぬつもりの奴が、わざわざ客人を迎えるためのハーブティーを二杯も淹れるか?」
「それは……」
アルフレッドが言葉を失う。
ツヨシはさらに、床を這って窓枠へと近づいた。
ここは五階。外は垂直に切り立った断崖絶壁だ。魔法の結界が張られていたため、誰もが「ここからの侵入は不可能」と思い込んでいる。
だが、ツヨシは窓枠の下部に積もった薄い埃を見た。一部だけ、まるで布か革で乱暴に拭い去られたように、埃が不自然に途切れている。さらに窓の外の石壁へ身を乗り出し、目を凝らした。
石壁の微細な凹凸の間に、ほんの数ミリ、黒い「こすれ痕」が残っていた。靴の底が強く擦れた時にできる、ゴムか硬質な革の摩擦痕だ。
「……ゲソ痕(足跡)は残せなくても、靴のワックスのカスと、壁への摩擦痕までは消せなかったらしいな」
「ツヨシ、ゲソとは何です? イカの足のことですか?」
「靴痕だよ。魔法を使わない、あるいは『あえて魔法を隠して』、物理的にこの絶壁を登り、あるいは降りた人間がいる。魔法を使えばログに残るからな。それを嫌った『誰か』が、ロープか何かを使ってここから侵入し、そして逃げた」
さらに、ツヨシは遺体の元へ戻り、ヴァルターの右手の爪の間を覗き込んだ。
焦げた皮膚の隙間に、極めて微細な、紫色の絹糸のような繊維が挟まっていた。
「生活のノイズ、そして物理的な痕跡。……事故じゃねえ。これは、完璧に計画された『他殺』だ」
3.組織の壁
「――そこまでにしてもらおうか、警備隊」
低く、威圧的な声が、研究室の入り口から響いた。
振り返ると、そこには神聖騎士団の象徴である、純白に金の刺繍が施された豪華なマントを羽織った男が立っていた。
整えられた金色の髭に、冷徹な青い目。神聖騎士団の指揮官であり、若くしてその地位に登り詰めた貴族キャリア、ゲオルグだった。
「ゲオルグ様……!」
周囲の若手騎士たちが、一斉に直立不動の姿勢を取る。アルフレッドもまた、条件反射のように身体を強張らせ、最敬礼を送った。
ゲオルグは部屋の中央までゆっくりと歩を進めると、這いつくばっていたツヨシを冷ややかに見下ろした。
「泥棒の追いかけっこが得意な警備隊が、なぜここにいる? すでに魔法鑑識の結論は出ている。大魔導師ヴァルター卿の死は、国家的な損失であり、王宮の威信に関わる極めてデリケートな問題だ。余計な混乱を招く『他殺説』など、平民の警備隊が口にするな。これは命令だ」
その言葉に含まれた「意図」を、ツヨシは瞬時に察知した。
前世で、何度も直面してきた「組織の防衛反応」だ。上層部にとって、重要人物の死は「不可抗力の事故」である方が都合が良い。もし「他殺」となれば、犯人を捕らえられなかった場合の責任問題が生じる。ましてや、結界という完璧な防壁を破られたとなれば、王宮の安全保障体制そのものの信頼が揺らぐのだ。
だからこそ、彼らは真実よりも「体裁」を選ぼうとしている。
「命令、ですか」
アルフレッドが、かすれた声で言った。その目には、組織の規律と、ツヨシが提示した「物理的証拠」の間で引き裂かれるような葛藤が浮かんでいる。
「……しかし、ゲオルグ様。この現場には、明らかに不審な――」
「アルフレッド」
ゲオルグが、冷たく遮った。
「お前は、自分がなぜ騎士団から警備隊の掃き溜めへ落とされたのか、まだ理解していないようだな。余計な口を慎み、身の程を知れ」
アルフレッドの顔から血の気が引いていく。
ツヨシは、ゆっくりと立ち上がった。膝についた埃を払い、ゲオルグの目を真っ直ぐに見据える。その鋭い眼光は、平民のそれではなく、数多の凶悪犯と対峙してきたベテラン刑事の凄みに満ちていた。
一瞬、ゲオルグの眉が不快そうにピクリと動いた。
「命令は了解しましたよ、お偉い指揮官殿」
ツヨシはポケットに手を突っ込み、不敵な笑みを浮かべた。
「俺たちノンキャリは、お上の言うことには逆らえねえ。だがな、お偉いさん。このホシ(犯人)はな、あんたたちのその『魔法万能主義』ってプライドを影で笑いながら、今も王都のどこかで美味い酒でも飲んでるぜ。……仏さんの無念は、魔法じゃ晴らせねえんだけどな」
「不届き者が。連れて行け」
ゲオルグの冷徹な声に促され、ツヨシとアルフレッドは、事実上の強制退去として塔から追い出された。
4.動き出すバディ
結界の塔のふもと。
吹き抜ける冷たい夜風が、二人の外套を激しくなびかせていた。
アルフレッドは、拳を怒りで震わせながら、地面の小石を力任せに蹴り飛ばした。
「くそっ……! あいつらは、ハナから真実を調べる気などないんだ! ヴァルター卿が殺されたかもしれないというのに、自分たちのメンツのために、事故として片付ける……! これが、王宮を護る神聖騎士団のやることか!」
「ま、組織ってのはどこもそんなもんだよ。前世でもな、身内の不祥事や上層部の都合で、握り潰されたヤマがいくつもあった」
「前世? 何を言っているんだ。……ツヨシ、もう終わりだ。命令違反をすれば、私たちは本当にこの警備隊すらクビになる」
ツヨシは無言で、ポケットから小さな包み紙を取り出した。
それは、現場検証の際、ゲオルグたちが現れる直前に、窓枠の擦れ痕からこっそりと削り取った「微量のワックス成分」だった。
「これ、何だと思います?」
「……まさか、現場から持ち出したのか?」
「ああ。日本のデカってのはな、手ぶらじゃ現場を降りねえんだよ」
ツヨシは不敵にニヤリと笑った。
「命令されたのは『警備隊としての公式捜査の中止』だ。なら、非公式で、ただの『散歩』としてホシを追えばいい。この靴ワックスの成分がどこの店で扱われているか、王都の革製品店を一件ずつ洗う(聞き込む)んだよ。……すり減らすべき靴底は、まだたっぷりと残ってるからな」
アルフレッドは、唖然としてツヨシの顔を見つめた。
目の前にいる「ツヨシ」は、かつての怠惰で、昇進試験に落ちて腐っていた平民警備隊員とは、完全に別人の魂が宿っているように見えた。その執念、その揺るぎない眼差し。
それは、合理主義的なアルフレッドがこれまで出会ったどんな「騎士」よりも、はるかに気高く、そして恐ろしい「正義」の塊だった。
「……あなたの『散歩』とやらは、随分と骨が折れそうですね」
アルフレッドはため息をついた。だが、その口元には、かつて失いかけていた「誇り」を取り戻したような、微かな笑みが浮かんでいた。
「付き合いましょう。ただし、私のやり方で、ね。魔法の知識が必要なら、私があなたをサポートします。……相棒なんでしょう?」
「ああ。決まりだ」
ツヨシは新しい革製ブーツの踵を、王都の硬い石畳に響かせた。
「行くぞ。ホシの尻尾を掴みに行く」




