第1話:刑事の死と、異邦の産声
「ツヨシ」シリーズ第5弾が始まります。
1.血と硝煙
痛覚というのは、極限状態においては案外、遅れてやってくるものらしい。
津島剛――警視庁捜査一課で二十年間、文字通り「靴底を減らして」歩き続けてきた男が最後に感じたのは、激痛ではなく、胸の奥が不自然に熱くなる奇妙な不快感だった。
「……つ、津島さん……っ!」
耳元で、若い、ひどく狼狽した声が響いていた。
後輩の真木だ。まだ二十代半ばの、キャリア組でありながら自ら現場を志望したという、少し青臭い正義感を持った男だった。
「バカ野郎……、声を、出すな……」
剛は肺に残った空気を絞り出すようにして呻いた。
口の端から鉄の味が滑り落ちる。東京湾に面した、埋め立て地の倉庫街。吹き抜ける冷たい潮風が、夜雨を含んで剛の頬を濡らしていた。
錆びついたドラム缶の影。剛の身体は、崩れ落ちるようにしてコンクリートの床に横たわっていた。胸のあたりから溢れ出る赤黒い液体が、泥水と混ざり合って、またたく間に広がっていく。
罠だった。
巨大広域暴力団「九頭竜会」と、かねてより囁かれていた警察上層部との癒着。その決定的な証拠となる「裏帳簿」と「音声データ」を掴んだ矢先、剛たちはこの廃倉庫に呼び出された。
情報提供者からのタレコミという、古典的で、それゆえに最も確実な罠。
臨場した瞬間には、すでに包囲されていた。暗闇から放たれた銃弾は、剛のすぐ後ろを走っていた真木を狙ったものだった。剛の身体が反射的に動いたのは、刑事としての本能というよりは、もはや長年染みついた「癖」のようなものだった。
「どうして、俺なんかを……!」
真木が剛の胸元を両手で強く圧迫する。だが、その指の間から、容赦なく命が零れ落ちていくのが分かった。真木の眼鏡が、雨と涙で白く曇っている。
「真木……。お前は、生きろ……。まだ、やることが……あるだろ……」
「嫌だ、死なないでください! 俺が、俺が上層部に掛け合って――」
「バカ言え……。あいつらが、動くわけ、ねえだろ……」
剛は自嘲気味に笑おうとしたが、喉に血が詰まって激しく噎せた。
九頭竜会と繋がっているのは、警視庁の、それも捜査一課を動かせる立場にある「大物」だ。今回の内偵情報が漏れていた時点で、身内のなかに裏切り者がいるのは明白だった。
組織の壁。
上に行けば行くほど、保身と権力闘争のために、現場の流す血など顧みられなくなる。今野敏の小説に描かれるような「組織の論理」は、フィクションではなく、冷酷な現実として剛の前に立ちはだかっていた。
(俺は、ここで終わるのか)
二十年間、ただひたすらに「ホシ」を追い続けてきた。
恋人も作らず、家庭も持たず、すり減った革靴だけが相棒だった。取り調べ室で、容疑者の心のわずかな隙間に入り込み、その嘘を暴き、最後に涙を流させて自白を勝ち取る。あの瞬間のために、すべてを捧げてきた。
だが、その結末が、この冷たいコンクリートの上での犬死にか。
「……悔しい、な……」
ぽつりと、本音が溢れた。
真実を闇に葬り去ろうとする巨大な力への怒り。そして、犯人の「なぜ(Why)」を暴く前に、自らの命の灯火が消えかけていることへの、刑事としての純粋な敗北感。
(まだ、ホシの顔も拝んじゃいねえ……。あいつらの、あのニヤついた面の裏にある『醜い本性』を、この手で引きずり出してねえんだよ……!)
視界が急速に狭まっていく。
真木の泣き叫ぶ声が、遠くの水中で響く音のように篭っていく。
やがて、完全な暗闇が剛を支配した。雨の匂いも、硝煙の臭いも、自身の体温すらも失われ、果てしない静寂だけが残った。
――享年、四十二歳。
警視庁捜査一課警部補・津島剛の人生は、そこで確かに幕を閉じたはずだった。
2.異質な目覚め
「――おい。起きろ、おい」
不躾な振動が、剛の肩を揺さぶった。
重い瞼をこじ開けると、最初に目に飛び込んできたのは、煤けた石造りの天井だった。
(……病院、か?)
いや、違う。病院の消毒液の匂いはしない。代わりに漂ってきたのは、古いカビの臭いと、獣の油を燃やしたような、妙に鼻を突く安価なランプの匂いだった。
身体を起こそうとして、異変に気づく。
全身を突き抜けるはずの、銃創の激痛がない。それどころか、四十を過ぎてからずっと悩まされてきた慢性的な腰の重みや、聞き込みで歩き潰した膝の軋みすら消えていた。軽い。まるで、十代の頃の身体に戻ったかのような躍動感がそこにあった。
「やっと起きたか、このバカ。いつまで寝てるんだ、ツヨシ」
呆れたような声。横を見ると、金髪を雑に後ろで束ねた、見知らぬ若い男が立っていた。
男の服装は奇妙だった。青を基調とした、見たこともないデザインの軍服のようなものを着ている。胸元には、銀色の盾を象った徽章が輝いていた。
「……誰だ、お前は」
剛が発した声は、自分のものにしては、少し高くて若々しかった。
「はあ?」金髪の男は、心底うんざりしたように眉をひそめた。
「寝ぼけてるのか? アルフレッドだ。お前と同じ、王都警備隊の『魔導特別捜査課』に配属された、お前の『相棒』だよ。まったく、平民上がりはこれだから困る。昇進試験に落ちたショックで、頭のネジでも吹き飛んだか?」
(王都警備隊? アルフレッド? 平民上がり?)
剛は混乱する頭を整理しようと、慌てて自分の手元を見た。
ゴツゴツとした、しかし自分の知っている手よりもずっと肌に張りのある、二十代前半の若者の手だった。
部屋の隅に置かれた、歪んだガラスの鏡に這い寄る。
鏡の中にいたのは、黒い髪に、鋭い眼光だけは前世の面影を残しているものの、まったく見覚えのない若い男の顔だった。
「……嘘、だろ……」
津島剛は、自分が置かれた状況を、刑事としての論理的思考で分析し始めた。
脳死状態で見ている幻覚か。あるいは、瀕死の重傷を負って搬送された先で、高度な精神医療でも受けているのか。
だが、皮膚を抓れば確かに痛い。何より、目の前の男――アルフレッドが発する、苛立ちに満ちた「体臭」や、部屋を満たす魔導ランプの熱気は、あまりにも生々しかった。
「おい、ツヨシ。ぼさっとするな。臨場要請だ」
アルフレッドが、硬い革製の外套を剛の顔に投げつけてきた。
「『結界の塔』で、大魔導師様がお亡くなりになった。王宮魔導師団の重鎮だ。上からは『事故死』で処理しろと暗黙の了解が出ているが、現場の状況が奇妙らしい。まったく、我々のようなノンキャリアの警備隊に、なぜそんな面倒な仕事が回ってくるんだか……」
「臨場……」
その言葉に、剛の脳細胞が強烈に反応した。
「事故死」「暗黙の了解」「上からの圧力」。
そのどれもが、前世で彼を殺した、あの薄汚れた「組織の論理」と同じ腐臭を放っていた。
剛は、投げつけられた外套を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
足元を見ると、そこには日本の警察から支給されたサイドゴアの活動靴ではなく、硬くて履き慣れない、だが頑丈そうな革製のブーツがあった。
(なるほどな……)
どういう理屈かは分からない。神の気まぐれか、それとも悪魔の悪戯か。
とにかく、津島剛という男は、この異世界――魔法や魔導が存在するらしい奇妙な世界で、再び「刑事」として生きることになったらしい。
「ツヨシ、何をしてる。早くしろ」
「ああ、悪い。今行く」
剛は、新しい自分のブーツに足を滑り込ませた。踵を床に打ち付け、フィット感を確かめる。
まだ少し硬いが、悪くない。これなら、どこまでも歩けそうだ。
「アルフレッドと言ったな」
「なんだ」
「お前らの言う『魔法』ってやつが、どれほど万能かは知らねえが……」
剛は、鏡の中の、若いながらも「刑事の目」をした自分を見つめ、不敵に口元を歪めた。
「人間の『罪』ってやつは、魔法じゃ隠しきれねえんだよ。……行くぞ、臨場だ」
こうして、異世界の街・王都グラナダに、泥臭く、しかし誰よりも執念深い、一人の「デカ」が誕生した。
すり減らすべき靴底は、まだ十分に厚い。




