第19話:沈黙の尋問室
1.二人の境界線
静寂が、地下室の冷たいコンクリート壁をじわりと圧迫していた。
天井の隙間から伝うドブ川の水音が、規則正しい秒針のように不気味に響く。中央に置かれた粗末な木製デスクの上には、一個の魔導ランタンが、琥珀色の細い光を投げかけていた。
その光の境界線。
対面に座る男は、白銀の高級法衣を泥で汚したまま、背筋を真っ直ぐに伸ばして椅子に腰掛けていた。
真木・フォン・バルドー。
両手首には、魔力を完全に封じるための警備隊特製の冷たい鋼鉄の手錠がハめられ、微かに金属音を立てている。眼鏡の奥の瞳は、まるで静水のように澄んでおり、捕らえられた敗北者の焦りは微塵もなかった。
ツヨシは無言で、懐から不味くて安価な薬草を取り出し、マッチを擦って火をつけた。
じわりと広がっていく不快な紫煙が、二人の間のランタンの光を歪める。ツヨシは煙をゆっくりと天井に向けて吐き出し、即席のマグカップに注がれたぬるいコーヒーを一口啜った。
「――お前の大好きな、綺麗な取り調べ室じゃなくて悪かったな、マサキ」
ツヨシの声が、冷たい地下室に低く反響した。
「構いませんよ、剛さん。前世でも、あんたと行った泥臭い張り込みや、場末の立ち食いそば屋に比べれば、ここは十分に静かだ」
真木は僅かに口元を緩め、日本語で答えた。その仕草には、かつて警視庁の廊下を共に歩いた若い相棒の面影が、一瞬だけ揺らめいていた。
「瀬戸川が逃げた。プラントは潰したが、ハイドラの残渣と、お前が王宮から引き出した資金の流出データがまだ宙に浮いている」
ツヨシは灰を床に落とし、真木の目を真っ直ぐに見据えた。
「クラウスが言った通り、お前を王宮の法廷に渡せば、お前をトカゲの尻尾にしてすべてを闇に葬り去る。お前がハメようとした魔法貴族どもは、のうのうと笑い続けるだろう。お前は本当に、そんな不条理な結末で満足なのか?」
「満足なわけがないでしょう」
真木の瞳の奥に、凍てつくような冷たい火が宿った。
「でも、剛さん。あんたに捕まったなら、僕のシステム(絵図)は一度終わったんだ。僕をどうするつもりですか? 警備隊のノンキャリに、司法副大臣を裁く権限などない。僕をここで、私刑にでもかける気ですか?」
「バカ言え」
ツヨシはマグカップを置き、身体を前に乗り出した。
「俺は、お前を私刑にするために自分の二度目の命を削ってきたんじゃねえ。お前を『容疑者』として、人間の法廷で完璧に引きずり下ろす。……そのための、新しい令状を創るために、ここにいるんだよ」
2.刑事の「落とし」
「新しい法廷……。本当に、あんたはどこまでも頑固なデカだ」
真木は小さく、力なく笑った。手首のチェーンがチャリ、と鳴る。
「マサキ。お前はハイドラを、虐げられた『無魔(魔法を使えない者)』や平民たちの、王宮に対する自爆用の武器として配ったと言ったな」
ツヨシの目が、取り調べ室のベテランの鋭さに変わった。
「だが、ジュリアス書記官は、お前から病弱な娘の治療薬(ハイドラの抑制剤)を人質に取られて、横領に加担させられていた。……お前がやっていることは、かつて俺たちを裏切って私欲を貪っていた『九頭竜会』のヤクザや、保身に走る日本の警察上層部と、一体何が違うんだ?」
その問いに、真木の細い指先が、微かに強張った。
東野圭吾作品に漂う、完璧に見えた正義の裏に隠された「エゴ」のメス。ツヨシの言葉は、真木の創り上げた高潔なシステム(仮面)を、容赦なく切り開いていく。
「……違いなんて、ないかもしれない」
真木は俯き、静かに吐き捨てた。
「システムを再構築するには、犠牲が必要だ。綺麗事だけで世界が変わらないことくらい、前世であんたの死を見て嫌というほど学んだ。僕は、あの冷たい雨の夜から、悪魔になることを決めていたんだよ、剛さん。バルドー公爵家に転生し、僕が一切の魔法を使えない『無魔の汚物』として地下牢に幽閉されていた時も、憎悪だけが僕の心臓を動かしていた」
「無魔の汚物……。お前が、実の父親から受けた仕打ちか」
「父親?」
真木の唇が、激しい侮蔑の形に歪んだ。
「あの男――バルドー公爵は、父親などではない。魔力と血統こそが世界のすべてだと信じる、この世界の歪んだシステムの、醜悪な具現者だ。あの男にとって、魔力を持たない子供は、家門の泥を塗るゴミに過ぎなかった。……僕は十歳になるまで、太陽の光すら浴びずに、実家の地下の魔導実験用の檻に閉じ込められていたんだ」
地下室に、アルフレッドとクラウスが、息を潜めて聞き入る気配が漂った。
魔法貴族社会の絶対的な頂点に君臨する、バルドー公爵家。その直系に生まれながら、魔法を一切使えないという理不尽。
真木がハイドラを開発し、世界を壊そうとした「Why(動機)」の根源には、幼少期の剥き出しの虐待と、この世界の根底にある魔力至上主義への絶望があった。
「あの男は、僕を人間扱いしなかった」
真木は眼鏡を片手で静かに押し上げた。その指は、かすかに怒りで震えている。
「だが、僕の『前世の知性と知識』までは奪えなかった。僕は地下牢の中で、王宮の財務データや魔導の理論を独学で解析し、あの男を逆に『脅迫』して、法務省での地位を手に入れたのさ。すべては、バルドー公爵というシステムを、そしてこの歪んだ国家を、内側から食い破るための仕込みだった」
3.バルドー公爵の「絵図」
「……だが、マサキ。お前のその完璧な絵図の中に、一つだけ『バグ』がある」
ツヨシは煙草を踏み消し、新しい薬草に火をつけようとしたが、手を止めた。
「バグ?」
「ハイドラの原料となる『高純度魔導結晶』だ。クラウスの監査ログによれば、この結晶の調達資金は、お前の決済印の裏で、すべてバルドー公爵の個人口座を経由して、マフィア(瀬戸川)へと流れていた。……つまり、お前が開発した『下層街を怪物に変える毒薬』の資金源は、お前の実父であるバルドー公爵自身だったってことだ」
その言葉に、真木はハッとしたように目を見開いた。
知略に溢れる真木の顔に、初めて、冷たい「狼狽」の影が走る。
「そんなはずはない。結晶の調達は、僕が裏の法務省のバックドアを使って、極秘裏に手配していたはずだ。あの男に、僕のシステムが露見していたというのか……?」
「お前は頭が良すぎるが、この世界の『キャリア』としての汚れ仕事に染まりすぎていた」
クラウスが闇の中から静かに歩み寄り、デスクの上に一枚のハッキングされた書簡の写しを置いた。
「バルドー公爵は、君のハイドラ計画を最初からすべて把握していた。そして、それを泳がせていたんだ。真木副大臣……いや、マサキ。君は弱者たちを救うために、特権階級を崩壊させるためにハイドラを配ったつもりだろうが……バルドー公爵にとっては、それは『都合の良い間引き(リセット)』に過ぎなかった」
「間引き、だと……?」
真木の声が、初めて震えた。
「下層街の人間が、一時的な超魔力を得て暴動を起こす。王宮はそれを『魔導テロ』として公式に認定し、武力によって下層街を完全に焦土化する。そうすれば、増えすぎた魔力枯枯症の貧民を合法的に一掃し、同時に、王宮の治安維持の権限をさらに強固にできる。……バルドー公爵は、君の憎悪とハイドラを利用して、下層街の『物理的な消滅』を計画していたんだ」
「嘘だ……! あの男が、僕のシステムを、自分のための絵図として書き換えていたというのか!?」
「そうだ、マサキ」
ツヨシが冷酷に、しかし悲痛な目で真木を見つめた。
「お前が前世のヤクザや、腐った警察システムを憎んで描いた『正義の復讐』は、この世界の怪物(実父)にとっては、ただの手頃な掃除道具だったんだよ。……お前が踏み台にしていた平民たちの命は、あいつらにとっては最初から『消される予定のゴミ』だったんだ」
4.新たなる境界線
真木は、両手で顔を覆った。
魔力封じの手錠のチェーンが、彼の震えに合わせて激しく鳴り響く。
自分が信じた復讐、自分が命を懸けて構築した救済のシステム。そのすべてが、自分が最も憎んでいた実父・バルドー公爵の、さらに巨大で非情な「大局」の手のひらの上で踊らされていたという現実。
東野圭吾作品のクライマックスに漂う、すべてを失った人間の、あまりにも哀しい絶望の沈黙が、地下室を満たしていった。
「……はは……。完璧に描いたつもりの僕の絵図が、最初から、あの男に汚されていたなんて……」
真木の指の間から、大粒の涙が零れ落ち、埃っぽい床へと吸い込まれていく。
「マサキ」
ツヨシは立ち上がり、真木の細い肩を、優しく、しかし力強く掴んだ。
「まだ終わっちゃいねえ。バルドー公爵の『下層街一掃計画』は、お前が逮捕された今も、止まっちゃいねえんだ。逃げた瀬戸川は、すでに公爵の私兵たちと合流し、次の暴動の引き金を引こうとしている」
ツヨシは真木の目線を合わせるように屈み込んだ。
「お前が死を覚悟した本当の正義を、ここで終わらせるな。……バルドー公爵という巨大なシステムを、俺たちと一緒に、境界の法廷へと引きずり下ろして、ワッパをハメてやろうぜ。それが、お前を生かした俺の、そしてお前の『責任』だろ、マサキ」
真木はハッとしたように顔を上げ、ツヨシの、どこまでも泥臭く、しかし温かい眼差しをじっと見つめた。
やがて、彼は小さく、しかし確かに頷いた。
「……バルドー公爵の、隠し金庫の魔導パスコード、そして瀬戸川との通信暗号だ。……全部、話すよ、剛さん。あんたには、本当に敵わないな……」
尋問室の扉が静かに開く。
ルークが、警戒に満ちた表情で滑り込んできた。
「ツヨシ係長。神聖騎士団の捜査網が、この区画の二ブロック先まで迫っています。移動の準備を」
「よし、アル、クラウス、ルーク。ヤマが動くぞ」
ツヨシは外套の襟を立て、不敵な笑みを浮かべた。
「お上の作った『綺麗な法律』が機能しねえなら、俺たちアウトロー・デカが、自分たちの靴底で新しい『法廷(現場)』を創ってやる。……バルドー公爵、お前のツラ、拝みに行くぞ」
薄暗い地下の尋問室から、四人の、そして拘束された一人の「デカ」たちの、果てしない反撃の追跡劇が、今ここから本格的に始まった。




