第18話:宿命のワッパ
1.臨界の悪夢
ドォォォォン!
巨大な超高純度精錬炉が、月蝕の不気味な赤黒い光を浴びて狂ったように脈打っていた。
無数のガラスパイプを流れる青いドラッグ『ハイドラ』の液体が、炉の臨界駆動に伴って激しく沸騰し、周囲の空気に高濃度の魔導残渣を撒き散らしていく。
「――無駄な抵抗はやめるんだ、剛さん、ハルデンベルク君!」
キャットウォークの端に立つ真木・フォン・バルドーの細身の身体から、かつて魔法を使えない「無魔」であったとは信じがたいほどの、ドス黒い暴力的な魔導エネルギーが噴き出していた。プラント全体の魔力回路を自らの肉体へと直接リンクさせた真木は、今や巨大な自爆ボムの起爆装置そのものだった。
「アル、クラウス、来るぞ!」
ツヨシの怒号が響く。
真木の合図とともに、ハイドラの過負荷によって一時的な超魔力を得た平民たちの群れが、獣のような咆哮を上げて一斉に襲いかかってきた。彼らの皮膚はひび割れ、魔力過負荷による「自壊」の限界点をすでに突破しかけている。
「『凍土の拒絶』――ッ!」
クラウスが白金魔導杖を地面に突き立てると、ツヨシたちの前方に巨大な氷の防壁が隆起した。突進してきた狂暴な平民たちが氷壁に衝突し、次々と足場を凍結されて無力化されていく。
「ツヨシ、平民たちの魔力回路は自壊寸前です! 物理的に気絶させるしかありません!」
アルフレッドが、へし折れた杖の残骸から予備の黒木杖へと魔力を込め、水の激流で敵の視界と武器を正確に奪っていった。
「ああ、わかってる! 殺すなよ、全員生きてワッパ(手錠)をハメるんだ!」
ツヨシの身体が弾丸のように地を滑った。
目潰しを食らって照準を乱した暴徒の懐へと滑り込み、警察逮捕術の基本である「巻き込み投げ」を打つ。重い甲冑をまとった兵士が石畳へと叩きつけられ、崩れ落ちた。
だが、プラントの臨界音はさらに高くなっていく。
真木の手が、精錬炉の「最終臨界スイッチ」へと静かに伸びていた。この国全体の魔法貴族システムを、下層街の命もろとも自壊させる、悪魔の秒読みが始まろうとしていた。
2.二人の盾
「剛さん……! なぜ僕を止める!」
真木の叫びが、沸騰するプラントの爆音を切り裂いて響いた。眼鏡の奥の瞳には、狂気の中に、引き裂かれそうなほどの悲哀が滲んでいる。
「あんたが僕を庇って死んだあの雨の夜、僕の心も一度死んだんだ! なぜ、正義感の強かったあんたが、こんな理不尽な格差に満ちた腐った社会の『法』を守ろうとする! 弱者が家畜のように絞り取られ、持てる者だけがのうのうと笑うシステムなんて、一度燃やし尽くしてゼロにするべきだ!」
真木の杖の先から、通常の魔法体系には存在しない、超高濃度の暗黒魔導が圧縮され始めた。ハイドラ過負荷数式 E = κ・D²/1 + γ・M の極限。真木の心に渦巻く「世界への憎悪と悲哀(精神負荷M)」が、最大の破壊エネルギーへと変換されていく。
「燃やし尽くす、だと?」
ツヨシはすり減った革靴を踏みしめ、真木を真っ直ぐに見据えた。
「マサキ。お前が『大局』だの『正義』だのという言葉の裏で、踏み台にしてるこいつらの命はな……お前の頭の中にあるただの『数字』じゃねえんだよ! お前がやってることは救済なんかじゃねえ。前世のヤクザと何一つ変わらねえ、ただの大量殺人だ!」
「黙れ――ッ!」
真木が杖を一閃した。
放たれたのは、空間そのものを消滅させるほどの、禍々しい紫黒の閃光。
直撃すれば、ツヨシの物理的な肉体など一瞬で塵と化す。
「――させん!」
クラウスが叫び、全魔力を限界まで超えて放出した。
「『法の裁きは等しく均す(ジャスティス・シールド)』!」
同時に、アルフレッドが自らの肉体を顧みず、クラウスの前に飛び出して重ねての『金剛魔導障壁』を展開する。
ドゴォォォォンッ!!
かつてない凄まじい大爆発が、プラントの地下に吹き荒れた。
クラウスの最高峰の氷魔法がガラスのように砕け散り、アルフレッドの盾が激しい金属音を立てて消滅する。二人の身体は、魔力の激烈な反動によって数メートル吹き飛ばされ、激しく血を吐いて床に倒れ込んだ。
「クラウス! アル!」
「ツヨシ……! 行け……!」
クラウスが、割れた眼鏡を床に落としながらも、血のついた手でツヨシを前方へ突き出した。
「法の番人の……、執念を……あの男に見せてやれ!」
「ツヨシさん……、先生の……、みんなの無念を……!」
アルフレッドが、倒れ込みながらも、最後の力を振り絞ってツヨシの足元へ、わずかな『疾風の加護』を投げかけた。
二人の相棒が、命を懸けて抉り開けた、真木への一瞬の「隙」。
ツヨシのブーツが、奈落の石畳を強く、強く踏みしめた。
3.宿命の手錠
ヒュウゥゥゥゥッ!
魔力の暴風がツヨシの外套を焼き、皮膚を裂き、強烈な圧力が全身を圧迫する。
だが、ツヨシの足は止まらなかった。
脳裏に、あの雨の倉庫街の光景がフラッシュバックする。
錆びついたトタン屋根を叩く雨音。
自分の胸を貫いた銃弾。
泣き崩れる若いキャリアの、あの眼鏡。
(マサキ。お前を生かすために、俺はあの夜、死んだんだ)
ツヨシは、アルフレッドが遺してくれた風の加護を受け、弾丸のようにキャットウォークを駆け上がった。
真木が驚愕に目を見開き、再び杖を向けようとする。だが、その照準が定まるよりも、ツヨシの「刑事の執念」の方が遥かに速かった。
「マサキィィィィッ!」
ツヨシは真木の懐へと潜り込んだ。
真木が放とうとした最後の至近距離魔法。ツヨシは上体をわずかに捻り、その杖の軌道をミリ単位でかわすと、左手で真木の細い手首を掴み、警察逮捕術の極意――『小手返し』を全力で極めた。
「ぐっ……あぁっ!?」
ガギッ、という鈍い関節音が響き、真木の杖が手元から滑り落ちて精錬炉の底へと消えていく。
ツヨシはそのまま、真木の細い身体をキャットウォークの鉄板の上へと押し潰し、全体重を乗せて膝で背中をがっちりと制圧した。
ガチャン――。
静まり返ったプラントに、冷たい、重厚な金属音が響き渡った。
警備隊特製の、魔力封じを施した鋼鉄の手錠。
それが、真木・フォン・バルドーの両手首を、容赦なく、そして固く繋ぎ合わせた。
「真木・フォン・バルドー。……魔導ドラッグ『ハイドラ』大量密売、テロ扇動、および国家叛逆の容疑で――現行犯逮捕だ」
ツヨシの低く、掠れた日本語の声が、真木の耳元に響いた。
真木は鉄板に顔を押し当てられたまま、力なく、小さく笑った。手首にハめられた手錠の冷たさを、じっと確かめるように。
「……はは……。剛さん。やっぱり、あんたには敵わないな……。完璧に描いた僕のリセットシステムが、あんたのその、泥臭い靴底に踏み潰されるなんて……」
「当たり前だ、マサキ」
ツヨシは荒い息を吐きながら、手錠のチェーンをグッと引いた。
「デカの靴底ってのはな、お前みたいな、頭の良すぎる悪党のツラを拝むためにあるんだよ」
4.夜明けの法執行
真木の逮捕と同時に、精錬炉の臨界光が徐々に青から静かな白色へと減衰し、暴走していたハイドラ使用者たちも、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ち、深い眠りへと落ちていった。
鉱山地下を支配していた赤黒い月蝕の光が去り、廃坑の入り口から、静かな、冷たい夜明けの光が差し込み始めていた。
「……終わったな」
クラウスが、アルフレッドの肩を借りてゆっくりとキャットウォークまで歩み寄ってきた。彼の美しい顔は傷だらけだったが、その瞳は、組織の犬であることを辞め、真の「法の番人」となった誇りに満ちていた。
「ハルデンベルク課長。……いや、クラウス。怪我は?」
「問題ない。君の野蛮な逮捕劇に比べれば、かすり傷だ」
クラウスは自嘲気味に微笑み、手錠をハめられた真木を見つめた。
「真木副大臣。あなたの身柄は、これより我々が非公式に拘束する。王宮の腐った上層部にあなたを渡せば、再びもみ消される。あなたには、我々の創る新しい『法廷』で、すべての罪を吐いてもらう」
「構わないよ、クラウス君」
真木は立ち上がり、手錠で繋がれた両手を静かに見つめた。
「僕のシステムは壊れた。……でもね、剛さん。なぜ僕を止めたんだ。あんたを失ったあの雨の夜から、僕にとって、この世界は生きる価値のない理不尽そのものだったんだ。あんたさえ、あんたさえ生きていてくれれば……僕はこんな毒に手を染める必要はなかった」
真木の眼鏡の奥から、大粒の涙がこぼれ落ち、泥に汚れた鉄板へと吸い込まれていった。
東野圭吾作品の結末に漂う、愛ゆえに狂った犯罪者の、あまりにも哀しい「Why(動機)」。真木の正義の根源には、自分を庇って死んだツヨシへの、歪んだ贖罪の念があったのだ。
ツヨシは、懐からクシャクシャになった最後の安価な薬草を取り出し、マッチで火をつけた。
吸い込んだ紫煙を、ゆっくりと夜明けの空気に向けて吐き出す。
「マサキ」
ツヨシの、どこまでも優しく、しかし確固たる声が響いた。
「お前を救うために、俺はあの雨の夜、自分の意志で飛び出したんだ。お前を生かしたことを、俺は一度だって後悔しちゃいねえ」
ツヨシは真木の肩を、ポンと叩いた。
「だがな……。俺が生かしたお前のその命で、お前が悪党になって、誰かの命をゴミ箱行きにするってんなら、関係ねえ。俺は何度だって地獄から這い上がって、お前にワッパをハメに来る。お前が何度歪んだ絵を描こうが、俺がその泥靴ですべて踏み潰してやる。……それが、お前を生かした俺の、刑事としての最後の責任だ」
真木はハッとしたように目を見張り、やがて、諦めたように、しかしどこか救われたような穏やかな微笑みを浮かべた。
「……あんたは、本当に……最高の刑事だよ、剛さん」
夜明けの光が、廃鉱山の奈落へと真っ直ぐに差し込んできた。
すり減ったツヨシの革靴、傷だらけのアルフレッドの杖、そして地位を捨てたクラウスの法衣。
3人のデカたちの影が、朝日の光の中に、長く、力強く伸びていた。
王宮を侵食していた「ハイドラ」の闇は、ここに完全に破壊された。
だが、彼らの「現場」は、これからも続いていく。
すり減らすべき靴底は、まだ、この世界のどこかにたっぷりと残っているのだから。




