第12話:宿命の門
1.硝煙の沈黙
暴風が去った後のカジノ地下室は、まるで爆撃直後の廃墟だった。
天井から剥がれ落ちた漆喰の粉塵が、仄青い魔導光に照らされて雪のようにゆっくりと舞い降りている。粉砕された高級マホガニーの家具、飛び散ったハイドラの青いガラス破片、保存ケースの鉄骨、そして暴走魔法の熱量で焦げ付いた石畳の匂いが、鼻をつく硝煙とともに充満していた。
「――ツヨシ、本当に、無事なんですか」
アルフレッドが、戦闘用短杖を握りしめた手を血がにじむほど強張らせ、煤に汚れた顔でツヨシを覗き込んだ。彼の肩は激しい息遣いで上下している。
「……ああ、生きてるよ。しぶといのがデカの取り柄だからな」
ツヨシは低く、掠れた声で答えた。
だが、その視線は床の一点に釘付けになったまま動かなかった。瀬戸川が最後に過負荷で自壊し、暗黒の障壁を突き破って逃亡した痕跡――焦げ付いた床に残された、一足の靴の灰。
ツヨシの頭の中では、瀬戸川が最後に遺した日本語の言葉が、耳障りな耳鳴りのように何度も、何度もリフレインしていた。
『あんたが命懸けで庇って死んだ……あの真木だよ』
『このハイドラの密売システムを裏から支えているのは、真木そのものだよ』
真木。
前世で、警視庁組織犯罪対策課の若きキャリアとしてツヨシの相棒となり、共に泥をすすり、共に正義を語り合った男。あの激しい雨の夜、九頭竜会の罠に嵌まった真木の前に反射的に身体を投げ出し、最後は彼の身代わりとなって銃弾に倒れた――自分が命を懸けて守り、生きろと心から願ったはずの、あの「マサキ」が。
(裏切り者だった、だと……?)
あの夜、トタン屋根を叩く雨音の中で、真木が流した血の温もり。ツヨシの腕の中で「すみません、剛さん、僕が……僕がもっと優秀なら」と泣き崩れていたあの眼鏡の奥の瞳。
あれは、ツヨシを騙しおおせなかった罪悪感の揺らぎなどではなく、自分の描いた絵図が狂ったことへの恐怖だったというのか。
そして、この異世界にツヨシより早く転生し、あろうことか「ハイドラ」という恐るべき麻薬の密売組織を裏から牛耳る支配者『真木・フォン・バルドー』として君臨している。
「嘘だと言いたいが……」
ツヨシは、きつく唇を噛み締め、口内に広がる鉄の味を感じた。
「あいつの『頭の良さ』なら、やりかねねえ」
キャリアとしての冷徹な計算高さと、誰もが同情するような気弱な素顔の使い分け。もしそれがすべて演技だったのだとしたら。ツヨシという「泥臭く地道に調べすぎる邪魔者」を、ヤクザの手を借りて合法的に処理しようとしたのだとしたら、すべてのパズルのピースが、恐ろしいほどの整合性を持って噛み合ってしまう。
東野圭吾の描く、信頼の裏側に隠された最も冷酷な「Why(動機)」。
それはツヨシの胸の最深部を、冷たいナイフで抉るような絶望だった。
2.キャリアの決断
「……信じがたいが、これが現実だ」
乾いた、しかし鋼のように硬い声が静寂を破った。
漆黒の法衣をまとい、割れた眼鏡をポケットにねじ込んだクラウス・フォン・ハルデンベルク警視正が、煤けた書類の束を手に歩み寄ってきた。彼の美しい顔には、戦闘の傷跡から一筋の血が流れていたが、その青い双眸はかつてないほど鋭く、冷徹な光を放っていた。
「クラウス……、その書類は?」
アルフレッドが問いかける。
「瀬戸川が逃亡の際、執念深く確保しようとしていたバルドー・ファミリーの『極秘帳簿』だ」
クラウスは、羊皮紙の一枚をツヨシの眼前に突きつけた。そこには、複雑な魔導インクで描かれた国家予算の資金フローと、異世界のグラナダ文字、そして右下には、はっきりと流麗な筆致で署名されたサインがあった。
『 MASAKI VON BALDO 』
「魔導過負荷の公式 E = κ・D²/1 + γ・M を基にしたハイドラの製造理論、およびその原料となる魔導結晶の購入資金。それらはすべて、王宮法務省の、それも私の直属の上司にあたる最高幹部『真木・フォン・バルドー』の決済印によって承認されている。……ハイドラの真の流通元は、下層街のマフィアではない。この国の『司法の頂点』だ」
クラウスは自嘲気味に、ふっと息を漏らした。
今野敏の描く、組織の「正義」を信じて生きてきたキャリア官僚の、最大の挫折と衝突。
「私は、法を守るためにこの席に就いた。法こそが、平民も貴族も等しく守る唯一の防壁だと信じていたからだ。だが……その法を司る法務省のトップが、裏でハイドラという毒を街に流し、私腹を肥やすと同時に、王宮の全権力を薬物依存で意のままに操ろうとしていた。……これが、私の信じた『大局』の正体だ」
クラウスの白い指先が、羊皮紙の端をくしゃりと握りつぶした。
「ハルデンベルク課長……」
アルフレッドが、かつて自分を冷酷に切り捨てた先輩キャリアの、剥き出しの葛藤を見て言葉を失う。
ツヨシは煙草を取り出そうとしたが、箱は先ほどの戦闘で潰れ、中身は使い物にならなくなっていた。
「ちっ……、不味い煙草も吸えねえか」
ツヨシは潰れた箱を投げ捨てると、クラウスをまっすぐに見据えた。
「で、どうするんだ、キャリア様。あんたの言う通り、これは『レベル4・国家機密』だ。この書類を抱えて王宮に戻れば、あんたは明日には『不慮の事故』でドブ川に浮くことになるぞ。……それとも、組織のルールに従って、この書類をシュレッダーにでもかけるか?」
「私をノンキャリの馬鹿と同じにするな、津島剛」
クラウスは冷たく、しかし確かに熱を帯びた瞳でツヨシを睨み返した。
「組織のルールは、法が機能している前提で成り立つものだ。法そのものが腐敗しているならば、私は『法の番人』として、その大元を叩き潰すのみ。……私はキャリアだ。お前たちのような野蛮な捜査は好まないが、目的を達成するための『最も効率的な手段』を選択する合理性は持っている」
クラウスは、自身の手から手袋を外し、床に叩きつけた。それは、自らの地位と階級を捨てるという、静かな決意表明だった。
「これより、我が『魔導組織犯罪対策課』は、王宮の指示を受けない。公式の記録はすべて『容疑者逃亡、捜査継続中』として偽装する。……特別捜査係、お前たちに提案だ」
「提案?」
ツヨシが不敵に笑う。
「これ以降、我々は非公式の『共同戦線』を張る。お前たちの持つ泥臭い現場の『足』と、私の持つ王宮内部の『情報・権限』を融合させる。法の網を潜り抜ける悪党を、法の外から引きずり下ろし、この書類の署名者である『真木』の喉元に、真実という名の令状を突きつける。……どうだ?」
今野敏の『隠蔽捜査』に通じる、最上の警察連帯。
立場も、階級も、種族も違う三人の男たちが、壊滅した地下室の瓦礫の中で、一つの「意志」のもとに結ばれた瞬間だった。
「へっ……、最初からそう言ってりゃ、胸ぐらを掴む手間が省けたのによ」
ツヨシは右手を差し出した。
クラウスは眉をひそめ、汚れたツヨシの手を一瞬嫌そうに見たが、やがてしっかりと握り返した。
「お前のその野蛮な捜査術、いつか私が法的に矯正してやる」
「そいつは楽しみだ」
そして、アルフレッドもまた、二人の手に自らの手を重ねた。
「行きましょう、ツヨシ、ハルデンベルク課長。私たちの、本当の現場へ」
3.再生の灯火
二日後の夕暮れ。
王都の下層街、エルフの孤児院の裏庭。
夕日に赤く染まった芝生の上で、子供たちが元気に走り回る声が響いていた。その片隅で、カレンがじょうろを手に、色とりどりのハーブが植えられた花壇に水をやっている。
ヴァルター大魔導師が遺した治療法のおかげで、「魔力枯渇症」を患っていた子供たちの顔には、健康的な赤みが戻っていた。
「カレン」
ツヨシとアルフレッドが、裏庭の木戸を開けて入ってきた。
カレンは驚いたように顔を上げ、すぐに温かい微笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「ツヨシさん、アルフレッドさん! お怪我は……、カジノで大きなお騒ぎがあったと聞いて、心配していたんです」
「ただの酔っ払いの喧嘩の仲裁だよ。デカの日常茶飯事だ」
ツヨシは笑いながら、カレンの頭を乱暴に撫でた。
「子供たちの様子はどうだ?」
「ええ、みんな驚くほど元気です。ヴァルター先生の遺してくれた薬草の配合リストのおかげで、もうハイドラなんて不気味な薬に頼る必要はありません。……本当に、お二人のおかげです」
カレンは深く、頭を下げた。その目には、未来を信じる強い光が宿っています。
東野圭吾作品の結末に流れる、救われた者たちの静かな再生。自分たちの泥にまみれた捜査が、この小さな平穏を守り抜いたのだという確かな手応えが、ツヨシとアルフレッドの胸を満たしていく。
「カレン、私たちは、もう少し長い旅に出ることになりそうです」
アルフレッドが、優しく語りかけた。
「ヴァルター先生の無念を、そしてこの街の闇を、根底から取り除くために」
「はい。……お二人なら、どんなに深い闇の中でも、きっと道を照らせると信じています」
カレンに見送られながら、二人は夕暮れの孤児院を後にした。
4.宿命の門を開けて
王都グラナダの西街区。
特別捜査係のオフィスがある地下へと続く、薄暗い階段の踊り場。
ツヨシは立ち止まり、懐から最後の薬草を取り出して火をつけた。紫の煙が、夕闇に溶けていく。
カジノで手に入れた真木のサイン。
外部から遮断されたはずのハイドラの流通データ。そして、前世のあの雨の夜から、この異世界まで地続きで繋がっていた「宿命」の糸。
真木はなぜ、自分を裏切ったのか。なぜ、この世界で「バルドー・ファミリー」のトップとなり、王宮をハイドラで侵食しようとしているのか。
キャリアとしての純粋な野心なのか。それとも、この世界の「魔力」という絶対的な格差社会が生み出した、さらなる深い「 Why(闇)」があるのか。
「――待たせたな、マサキ」
ツヨシはすり減った革靴のつま先を、冷たく、硬い石畳に強く叩きつけた。
コツン、と響いたその音は、前世の「東京湾」から続く、刑事としての執念の鼓動だった。
「お前がどれだけ偉い貴族の服を着て、どれだけ強大な魔法の城に引きこもっていようが、関係ねえ。デカの靴底を舐めさせて、その冷たい手首に、俺の手錠をきっちりハメてやる」
ツヨシは煙草を踏み消し、オフィスの重い鉄の扉を開けた。
中では、すでにクラウスが持ち込んだ膨大な王宮の極秘データが、魔導スクリーンに映し出されていた。アルフレッドが真剣な表情でそれらを分析し、クラウスが冷徹に指示を出している。
「遅いぞ、ツヨシ。作戦会議を始める」
クラウスが眼鏡を押し上げながら言った。
「悪かったな、お偉いさん」
ツヨシはコートの襟を立て、ニヤリと笑った。
「さあ、次のヤマ(捜査)を始めようぜ」
門は開かれた。
かつての相棒であり、最大の宿敵となった男への、泥靴の追跡劇が、今ここから本格的に幕を開ける。




