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第九十七話 田中が一人で図書室で過ごした夜

第九十七話 田中が一人で図書室で過ごした夜


前話までのあらすじ

ランセルの若い人間の候補者が二名決まった。

ミラ公王と田中が互いに先を読み合う手紙のやり取りをした。

アレンが、ランセルから来る人間に巡回を見せると言った。

「ランセルが動き始めた。ミラ公王が選んで、アレンが受け取る。繋がりが広がっている」とメモに書いた。


 その夜。

 田中は、やることが終わっていた。

 珍しいことだった。

 今日のやることリストが、全部完了していた。

 明日のやることも、すでに準備ができていた。

 田中は部屋に一人でいた。

 何もしなくていい時間があった。

 田中はしばらく、椅子に座ったまま、何もしなかった。

 五分経った。

 十分経った。

 やることを探しそうになった。

 田中は立ち上がった。

 図書室に行こうと思った。

 仕事のためではなく、ただ行きたかった。


 図書室は暗かった。

 田中は燭台に火をつけた。

 柔らかい光が広がった。

 棚に、羊皮紙が並んでいた。

 田中はしばらく棚を見た。

 この一年間で、この棚をどのくらい読んだだろう。

 最初に来たとき、言語を覚えるために来た。

 分類されていなかった棚を、整理した。

 整理しながら、読んだ。

 読みながら、情報が繋がっていった。

 三国の先祖の会合記録もここにあった。

 OLAとの対話のヒントも、ここから来た。

 この棚が、全部の始まりだった気がした。

 田中は棚の一冊を取り出した。

 最初に読んだ本だった。

 この城の歴史の記録だった。

 開いた。

 読み始めた。

 今度は、言語を覚えるためではなく、ただ読みたくて読んだ。


 しばらく読んでいると、扉が開いた。

 レオンだった。

「タナカ、ここにいましたか」

「はい。なんとなく、来たくなりました」

「なんとなく、ですか」

「そうです」

「珍しいですね。理由なくここに来るのは」

「そうかもしれません」

「私も入っていいですか」

「どうぞ」

 レオンが入ってきた。

 田中の向かいに座った。

「何を読んでいましたか」

「この城の歴史の記録です。最初に来たときも読みました」

「そうですか。どうして今日また読んでいるんですか」

「わかりません。ただ、読みたかったです」

「最初に読んだときと、今読んで、何か違いますか」

「違います」

「どう違いますか」

「最初は、言語の練習のために読んでいました。今は、ただ読んでいます」

「ただ読む、ですか」

「そうです。内容を覚えようとしているわけではないです。ただ、読んでいると、落ち着きます」

「落ち着きますか」

「そうです。この城のことを書いた本を読むと、この城が続いてきたことがわかります。それが、落ち着く理由かもしれません」

「続いてきた」

「そうです。この城は、ずっと続いてきました。これからも続きます。その中に、田中がいた。それが、落ち着く」

「タナカがここにいたことが、記録されますか」

「されないかもしれません。田中の名前は、この城の歴史書には残らないかもしれません」

「残らなくてもいいですか」

「良いです」

「なぜですか」

「名前が残ることより、仕組みが続くことの方が大事です。田中の名前がなくても、月次報告書が続いていれば、田中がここにいた証拠になります」

「仕組みが証拠になる」

「そうです」

「なるほど」

「レオン、一つだけ聞いていいですか」

「どうぞ」

「レオンは、田中がここに来て良かったと思いますか」

「思います」

「なぜですか」

「タナカが来てから、私は変わりました。それだけです」

「レオンが変わったのは、レオンが変わろうとしていたからです」

「また同じことを言う」

「事実なので」

「わかっています。ただ、今夜はそれを言わないでください」

「なぜですか」

「タナカが聞いてきたから、答えました。答えは受け取ってください」

「……わかりました。受け取ります」

「ありがとうございます」

「タナカ、今夜は何を考えていましたか。図書室に来たくなったのは、何かを考えていたからではないですか」

 田中はしばらく考えた。

「同盟が成立した後のことを、少し考えていました」

「同盟が成立した後のことですか」

「そうです。次は何をするか、という問いが、頭にありました」

「次のやることが見えていないですか」

「見えています。ただ、その先が、少し」

「その先が、どうですか」

「落ち着いてきた、という感覚があります」

「落ち着いてきた」

「そうです。GOLの問題があったとき、北の問題があったとき、内乱があったとき、全部、目の前にやることがありました。今は、やることがあります。ただ、前より、落ち着いています」

「それは、良いことではないですか」

「良いことです。ただ、少し、不思議な感覚です」

「どんな感覚ですか」

「焦っていない感覚です。いつも、やることがあるから動いていました。今も動いています。ただ、焦りがない」

「焦りがないのは、なぜだと思いますか」

「全員が動いているからかもしれません。田中だけが動いていた頃は、焦っていたかもしれません。今は、全員が動いています。田中が焦らなくても、動いている」

「それが積み上げですね」

「そうかもしれません」

「タナカ、一つだけ言っていいですか」

「どうぞ」

「タナカが焦っていないのを見ると、私も安心します」

「そうですか」

「タナカが焦っていると、私も焦っていました。タナカが落ち着いていると、私も落ち着いています」

「そうでしたか」

「そうです。タナカと一緒にいて、色々なことを感じてきました」

「そうですか」

「タナカが良い夜を過ごしているとき、私も良い夜を過ごしています。今夜は良い夜ですね」

「そうですね」

「図書室に来て良かったです」

「私もです」


 しばらく、二人で図書室にいた。

 田中は本を読んだ。

 レオンは別の棚から一冊取り出して、読んでいた。

 静かだった。

 燭台の光が揺れていた。

 田中はふと、元の世界のことを思った。

 元の世界にも、図書館があった。

 休みの日に、一人で行くことがあった。

 ただ本を読む時間が、好きだった。

 この世界でも、似たような時間があった。

 場所が違っても、田中がいる場所には、似たような時間があった。

「タナカ」とレオンが言った。

「はい」

「今、何を考えていましたか」

「元の世界のことを、少し」

「どんなことを考えていましたか」

「図書館のことです。元の世界にも、ここと似た場所がありました。一人でただ本を読む時間が好きでした」

「こことに似た場所があったんですね」

「そうです。どこの世界でも、田中が好きな場所は似ています」

「スープと、図書室と」

「そうですね。どこでもあるものが、田中には合っています」

「田中はスープみたいな人間だと、王様が言っていましたよね」

「そうでしたね」

「スープが好きな人間が、スープみたいな人間、というのは、合っていますね」

「そうかもしれません」

「タナカ、この世界に来て良かったですか」

 田中はしばらく考えた。

「良かったです」

「今夜は、迷わずに言えましたね」

「そうですね」

「いつもは少し考えてから言いますよね」

「そうでしたね」

「今夜は迷わなかった」

「迷いませんでした」

「なぜですか」

「今夜、図書室に一人で来て、この城の歴史を読んで、落ち着いた。落ち着いたときに、聞かれたから、迷わなかったのかもしれません」

「落ち着いていると、答えが出やすいですね」

「そうかもしれません」

「タナカ、良かったです」

「何がですか」

「タナカが良かったと言ってくれたことが」

「そうですか」

「私も、タナカが来てくれて、良かったです」

「レオン」

「はい」

「ありがとうございます」

「珍しくすぐ言えましたね」

「今夜は言えます」

「今夜は特別な夜ですね」

「そうかもしれません」

「タナカが落ち着いている夜は、特別です」

「そうですね」


 深夜になった。

 レオンが言った。

「タナカ、そろそろ眠りましょう」

「そうですね」

「今夜は、早く眠れそうですか」

「眠れると思います」

「良かったです」

「レオン、今夜、来てくれてありがとうございます」

「私が来たかったんです」

「そうですか」

「タナカが図書室に行ったと聞いたので、来ました」

「誰から聞きましたか」

「アレンです。アレンが廊下で田中を見かけたと言っていました」

「アレンが教えてくれたんですね」

「そうです。アレンが心配していました。タナカが一人で図書室に行くのは、何かあったときだと思って、と」

「アレンが心配してくれていたんですね」

「そうです。今は平気そうだと伝えておきます」

「平気どころか、良い夜でした、と伝えてください」

「わかりました」

「ありがとうございます」

 二人で図書室を出た。

 廊下を歩いた。

 石畳の音が響いた。

 田中は歩きながら、メモアプリを開いた。

 今夜は、書かなくていいと思っていた。

 ただ、一行だけ書きたかった。

 一行書いた。

 ・今夜、図書室で落ち着いた。ここにいて良かった、と思った。


次回「第九十八話 シアが言った『これで本当に繋がった』」へつづく

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