第六十五話 田中が、初めて迷った
第六十五話 田中が、初めて迷った
前話までのあらすじ
山脈の音が城まで届くようになった。昼間に青白い光が見えるようになった。タイムラインが急加速している。
謎の人物が現れ、「北の問題が解決したとき、元の世界に帰る道が開く可能性がある」と告げた。
田中は今夜、初めてメモが書けなかった。初めて眠れない夜だった。
朝になった。
田中は眠れなかったまま、夜が明けた。
天井を見ていた。
石造りの天井。
この国の城の天井。
帰る場所の天井だ。
ただ、今朝は「帰る場所」という言葉が、少し違う意味を持っていた。
どちらに帰るのか。
この城に帰る。
元の世界に帰る。
どちらも「帰る」という言葉が使える。
田中は起き上がった。
顔を洗った。
着替えた。
メモアプリを開いた。
昨夜、書けなかった。
今朝も、何を書けばいいかわからなかった。
田中はメモアプリを閉じた。
初めてのことだった。
食堂に行くと、誰もいなかった。
いつもより早く起きたからだ。
田中は一人で座った。
スープが運ばれてきた。
一口飲んだ。
塩気が強くて、草の風味がした。
いつもの味だった。
ただ、今朝は、この味がいつもより大事な気がした。
いつまで飲めるかわからない、という気持ちが少しあった。
田中はスープをゆっくり飲んだ。
食堂にレオンが来た。
「タナカ、早いですね」
「眠れなかったので」
「眠れなかったんですか」
「そうです」
「昨日の話のせいですか」
「そうだと思います」
レオンは田中の向かいに座った。
「話してもいいですか」
「はい。話してください」
「昨夜、田中が一人でいたいと言ったので、待っていました。ただ、何かあったことはわかっていました」
「そうですか」
「今日、話してもらえますか」
「はい」
田中は、昨日の話を説明した。
謎の人物のこと。
北の問題が解決したとき、元の世界への道が開く可能性があること。
帰るかどうかを、考える必要があること。
レオンは黙って聞いた。
最後まで聞いた。
しばらく、黙っていた。
「タナカ、帰りたいですか」
「わかりません」
「帰りたくないですか」
「わかりません」
「両方わからない、ですか」
「そうです。どちらの気持ちもあります」
「それは、正直な答えですね」
「正直に言うしかないので」
「タナカが正直なのは、いつものことです」
「そうかもしれません」
「ただ、今日は少し違いますね」
「どう違いますか」
「いつもの田中は、わからないことがあっても、やることがあるから動く、と言います。今日はそれが出てきていません」
「そうですね」
「やることが、見えていませんか」
「見えています。北の問題への対処。OLAとの対話。三国の連携。全部あります」
「では、やることはある」
「あります」
「でも、動けていない」
「そうです」
「なぜですか」
田中は少し考えた。
「帰るかどうかという問いが、やることリストの外にあります」
「リストの外」
「やることリストは、この世界でのやることです。帰るかどうかは、そのリストには入っていない問いです」
「入れればいいんじゃないですか」
「入れ方がわかりません」
「田中が、わからないことを言うのは珍しいですね」
「そうですね」
「いつもは、わからなくても動きます」
「そうですね。今回は、わからないまま動けないです」
「なぜですか」
「帰るかどうかの答えによって、動き方が変わるからだと思います。答えが出ていないと、どちらの方向にも動けない」
「なるほど」
「レオン、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「レオンは、どう思いますか」
「帰るかどうかですか」
「はい。レオンの意見を聞きたいです」
レオンはしばらど考えた。
「私の意見を言っていいですか」
「聞かせてください」
「私は、タナカにここにいてほしいです」
「そうですか」
「ただ、それはレオンの気持ちです。タナカの選択に影響を与えたくないです」
「それが、レオンの意見ですか」
「そうです。ここにいてほしい。でも、タナカが決めることだ。両方が本当です」
「そうですか」
「タナカ、一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「どちらを選んでも、タナカがタナカであることは変わらないと思います」
「どういう意味ですか」
「帰っても、残っても、タナカはやることがあれば動く人間です。元の世界でも、この世界でも、同じことをしてきた。それは変わらないと思います」
「そうですね」
「だから、どちらを選んでも間違いではないと思います」
「そうですか」
「はい。ただ、どちらを選ぶかは、タナカが決めることです」
「わかりました」
午前中、田中は謎の人物に会いに行った。
「昨日の続きを聞かせてください」
「どうぞ」
「一点だけ確認します。北の問題が解決しなければ、帰れない可能性が高いということですね」
「そうです」
「北の問題を解決しようとしている今の動きは、帰るための動きでもあると言いました。それは、帰りたいかどうかに関係なく、今やることは同じということですか」
「そうです。田中殿が帰ることを望んでいても、残ることを望んでいても、今やることは北の問題への対処です」
「だとすれば、今すぐ帰るかどうかを決める必要はないということですか」
「そうです。北の問題が解決するまでは、どちらを選んでも今やることは同じです」
「そうか」
田中は少し、体が軽くなった気がした。
「田中殿、何か変わりましたか」
「少し、わかりました」
「何がわかりましたか」
「今すぐ決めなくていいということです。今やることは決まっています。北の問題への対処です。それをやりながら、答えを考えればいい」
「そうです」
「やることが見えていれば、動けます」
「田中殿らしい言葉ですね」
「そうかもしれません」
「田中殿、帰るかどうかの答えは、いつ出せそうですか」
「わかりません。ただ、北の問題が解決に近づいたとき、答えが出ると思います」
「そうですね。それで十分です」
「あなたは、どこまでここにいますか」
「田中殿が必要なときに、いつでも話せます」
「名前は聞けますか」
「今は、まだ」
「わかりました」
田中は立ち上がった。
「一点だけ」
「はい」
「この話を、王様に伝えます」
「構いません」
「それと、レオンにも」
「構いません」
「他に伝えるべき人はいますか」
「田中殿が判断してください」
「わかりました」
王様に報告した。
「元の世界に帰る方法の話があります」
王様は黙って聞いた。
最後まで聞いた。
「北の問題が解決したとき、帰る道が開く可能性がある」
「そうです」
「帰るかどうかは、田中が決める」
「そうです」
「余には、どうすることもできないな」
「そうですね」
「引き止めることもできる。ただ、それはお前の選択を邪魔することになる」
「そうですね」
「余は……」
王様は少し間を置いた。
「余は、お前にここにいてほしいと思っている。ただ、それは余の気持ちだ。お前の選択ではない」
「そうですね」
「お前が選ぶことだ」
「はい」
「ただ、一つだけ言っていいか」
「どうぞ」
「余は、お前が来てから、変わった。お前がいなければ、変われなかった。それは事実だ」
「そうですね」
「お前が帰った後も、変わり続けられるかどうかは、わからない。ただ、余は変わろうとする。それだけは言える」
「それは、十分だと思います」
「十分か」
「はい。王様が変わろうとする限り、変わり続けられます」
「そうか」
「はい」
「田中、もう一つだけ」
「はい」
「まだ帰ると決まったわけではないな」
「決まっていません」
「ならば、今はまだここにいるな」
「そうです」
「ならば、今日も一緒に仕事をしよう」
「はい」
「やることがあるんだろう」
「あります」
「では、動こう」
「かしこまりました」
王様は少し笑った。
田中も少し笑った。
夕方。
田中は中庭にいた。
アレンが稽古をしていた。
田中が近づくと、アレンが気づいた。
「タナカさん、どうしましたか」
「少し、外の空気を吸いたくて」
「そうですか。昨日から、少し様子が違いますね」
「そうですか」
「何かあったんですか」
「少し、複雑なことがありました」
「話せますか」
「少し、話してもいいですか」
「もちろんです」
田中は、アレンに話した。
帰る道があるかもしれないこと。
まだ決めていないこと。
今やることは変わらないこと。
アレンは黙って聞いた。
最後まで聞いた。
それから、しばらど考えた。
「タナカさん、俺は、タナカさんに帰ってほしくないです」
「そうですか」
「ただ、それは俺の気持ちです」
「そうですね」
「タナカさんが決めることだとわかっています。ただ、言いたかったので言いました」
「ありがとうございます」
「珍しくすぐ言えましたね」
「大事なことを言ってもらったので」
「タナカさん、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「元の世界に、タナカさんを待っている人はいますか」
田中は少し考えた。
「妻が、いました。ただ、今どうしているかはわかりません」
「会いたいですか」
「……わかりません。長く、あまり話していなかったので」
「そうですか」
「アレンさん、なぜそれを聞きましたか」
「元の世界に、タナカさんを必要としている人がいるなら、帰るべきかもしれないと思って。ただ、この世界にも、タナカさんを必要としている人がいます」
「そうですね」
「どちらも必要としている」
「そうですね」
「難しいですね」
「難しいです」
「タナカさんでも、難しいことがあるんですね」
「あります」
「なんか、少し、安心しました」
「安心しましたか」
「タナカさんが難しいと言うことが、少なかったので。難しいこともある、とわかると、俺も難しいことがあっていいと思えます」
「そうかもしれませんね」
「タナカさん、一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「どちらを選んでも、タナカさんはタナカさんです」
「レオンと同じことを言いますね」
「そうですか。俺も同じことを思っていました」
「そうですか」
「はい。帰っても残っても、タナカさんはタナカさんです。それは変わらないです」
「ありがとうございます」
「珍しくすぐ言えましたね」
「今日は、ありがとうを言える日です」
「昨日と同じですね」
「そうですね」
「だんだん言える日が増えていますね」
「そうかもしれません」
二人でしばらく空を見た。
空が橙色だった。
夕日が沈んでいた。
「タナカさん、北の問題が解決するまで、ここにいてくれますよね」
「いるつもりです」
「つもり、ですか」
「います。今は、ここにやることがあります」
「今は、ですね」
「今は」
「わかりました」
アレンは剣を鞘に収めた。
「タナカさん、飯食いに行きましょう」
「そうしましょう」
「今日は、俺が隣に座ります」
「いつも隣に座っていましたよね」
「今日は特に、隣に座りたいです」
「そうですか」
「タナカさんが悩んでいると、隣にいたくなります」
「そうですか」
「それが、俺にできることです」
「十分です」
「そうですか。良かったです」
二人で食堂に向かった。
廊下を歩いた。
石畳の音が響いた。
田中は歩きながら、少し考えた。
今日、誰も答えを出してくれなかった。
でも、誰もが隣にいてくれた。
それが、今夜の田中には、十分だった。
田中はメモアプリを開いた。
今夜は、書けた。
一行だけ。
・今日、誰も答えを出してくれなかった。でも、誰もが隣にいてくれた。それが十分だった。
次回「第六十六話 OLAが、初めてこちらに来た」へつづく




