第五十六話 向こうが、初めて名前を教えてくれた
第五十六話 向こうが、初めて名前を教えてくれた
前話までのあらすじ
三回の訪問で、向こうとの距離が縮まった。
三回目は向こうから近づいてきた。三メートルまで来た。
レオンが音のパターンにランセル語との共通点を見つけた。
王様が「お前が来てくれたことも、同じくらい本当だ」と言った。田中は受け取った。
「次回は音のパターンをさらに記録する」という方針を立てた。
四回目の訪問は、三回目から一週間後だった。
今回は田中、レオン、カラの三人で来た。
ロイドは「毎回全員で行く必要はない。三人で行けるなら、三人で行け」と言った。
「護衛なしでいいんですか」と田中が聞いた。
「カラが弓を持っている。余は城で連絡待機する。何かあれば、合図を出せ」とロイドが言った。
「わかりました」と田中が言った。
「距離が縮まってきている。護衛が多いと、向こうが警戒する可能性がある。少ない方がいい場合がある」とロイドが言った。
「ロイド卿がそう判断するんですね」と田中が言った。
「そうだ。余は戦闘の判断をする。向こうが警戒しない方が交渉に有利なら、護衛を減らす判断もある」とロイドが言った。
「わかりました」と田中が言った。
岩場に着いた。
向こうはもういた。
今回も三頭だった。
田中が近づいた。
前回と同じ距離まで来たとき、一頭が降りてきた。
前回と同じ一頭だった。
田中には、この一頭が前回と同じ個体だとわかった。
動きの癖が同じだった。
田中が音を出した。
前回と同じ挨拶の音だ。
向こうも同じ音を返した。
「レオン、今の音、どうでしたか」と田中が言った。
「同じパターンです。短い音が二つ、長い音が一つ。SKO、と書けるかもしれません」とレオンが言った。
「SKO」
「向こうの言語をアルファベットに変換するとすれば、です。あくまで仮定ですが」
「わかりました。記録しておきます」
田中はメモに書いた。
・挨拶音:SKO(仮)。短短長のパターン。
向こうが、新しい音を出した。
今回初めて聞く音だった。
長い音が続いて、短い音が入って、また長い音が続く。
田中はそれを聞いた。
繰り返した。
向こうが、首を傾けなかった。
前回、繰り返したときに首を傾けたのは、音が違っていたからだ。
今回は、首を傾けなかった。
「正確に繰り返せたかもしれません」とレオンが言った。
「そうかもしれません」と田中が言った。
「もう一度、向こうに音を出してもらえますか。田中が求めてみてください」
「どうやって求めますか」
「前回、田中が向こうの音を繰り返したとき、向こうがまた音を出しました。田中が繰り返す、向こうが出す、というパターンになっているかもしれません。もう一度繰り返してみてください」
「わかりました」
田中は、向こうが出した音をもう一度繰り返した。
向こうが、同じ音を出した。
「同じ音です」とレオンが言った。
「そうですね」と田中が言った。
「これ、名前かもしれません」
「名前、ですか」
「向こうが最初に出す音が、毎回違います。今回初めて聞いた音は、今回初めて出てきた音です。もしかすると、自己紹介をしているのかもしれません」
「自己紹介」
「向こうの名前、または、向こうが何者かを示す音かもしれません」
田中はその音をもう一度繰り返した。
向こうが、少し動いた。
前足を少し動かした。
地面を、軽く踏んだ。
カラが言った。
「その動作、以前も見たことがあります」
「どんな意味がありますか」
「わかりませんでした。ただ、興奮しているときか、何か強調したいときにする動作です」
「強調したい」
「田中殿が正しく繰り返したから、反応したのかもしれません」
田中はその音を、三回繰り返した。
向こうが、同じ動作を三回した。
田中はレオンを見た。
「これ、名前だと思います」
「私もそう思います」
「名前を呼ぶたびに、反応している」
「そうです。『自分の名前を呼ばれた』という反応に見えます」
「向こうの名前は、なんと書きますか」
レオンは少し考えた。
「音をそのまま写すと……OLA、かな。長い音が最初、短い音が中間、長い音が最後。OLA、と書けるかもしれません」
「OLA」
「あくまで仮です。ただ、そう書けば、田中も発音を再現しやすいと思います」
「OLAと呼べばいいですか」
「試してみましょう」
田中は向こうを見た。
「OLA」
向こうが、動いた。
前足を踏んだ。
「反応しました」とレオンが言った。
「そうですね」と田中が言った。
「もう一度」
「OLA」
また、前足を踏んだ。
「名前で呼ばれたと理解しているかもしれません」とカラが言った。
「そうだと思います」と田中が言った。
「田中殿の名前を教えますか」
「教えます。ただ、どうやって」
「同じように、音を出してみてはどうですか」
「田中、という音を出す、ということですか」
「はい。向こうが自分の名前を示したなら、田中殿も自分の名前を示す。それがお互いを知ることの第一歩かもしれません」
「なるほど」
田中は自分の胸に手を当てた。
向こうがそれを見た。
「タナカ」
向こうが、動かなかった。
「タナカ」
もう一度言った。
向こうが、少し首を傾けた。
「向こうには発音しにくい音かもしれません」とレオンが言った。
「そうかもしれません。日本語ですし」
「この言語圏の音に近い形で言ってみますか」
「どう言えばいいですか」
「タナカ、という音のうち、一番近い音は……TNA、でしょうか。タ行の音が、この言語圏にはないので、T音で代用します」
「TNA」
「試してみてください」
田中は自分の胸に手を当てた。
「TNA」
向こうが、少し動いた。
「TNA」
向こうが、音を出した。
それは、田中が言った音に近かった。
完全に同じではなかったが、似ていた。
「向こうが繰り返しました」とレオンが言った。
「そうですね」と田中が言った。
「名前を覚えようとしているかもしれません」
「そうだと思います」
「田中殿、今日は大きな前進です」とカラが言った。
「そうですね」と田中が言った。
「名前を交わした」
「交わしたかどうかはまだ確認できていませんが、方向としては」
「方向としては、名前を交わした」
「はい」
田中は向こうを見た。
向こうも田中を見ていた。
「OLA」
向こうが、前足を踏んだ。
田中は少し笑った。
初めて、向こうの前で笑った。
向こうは、田中の顔を見ていた。
それから、向こうも何か動いた。
口元が、少し動いた。
笑ったかどうかは、わからない。
ただ、何か動いた。
「タナカ」とレオンが小声で言った。
「はい」と田中が小声で言った。
「今日は、すごいことが起きています」
「そうですね」
「向こうと名前を交わした」
「まだ確認中ですが」
「確認中でも、十分すごいです」
「そうですね」
帰り道。
三人で馬を進めた。
カラが言った。
「田中殿、私はこの五年間、向こうの生き物を研究してきました。でも、こんなに近づいたことはありませんでした」
「そうですか」
「田中殿は、どうやって近づいたんですか。特別なことをしたわけではないのに」
「特別なことはしていません」
「ただ、何度も来て、逃げなくて、音を繰り返した」
「そうです」
「それだけで、こんなに変わるんですね」
「変わると思っていたわけではないですが、やってみたらそうなりました」
「なぜ、最初から諦めなかったんですか」
「諦める理由がなかったので」
「危険だったじゃないですか」
「そうですね」
「怖くなかったんですか」
「怖かったです。ただ」
「やることがあったから、ですね」
「そうです」
「田中殿の言葉、私も聞いていました。アレン殿が言っていましたよ、タナカさんはいつもそう言うと」
「広がっていますね」
「良い言葉だと思います。怖くても、やることがある。それで動ける」
「カラさんも、五年間、怖くても調査を続けてきたじゃないですか」
「私は調査だけでした。向こうに近づこうとは思いませんでした」
「近づく必要を感じなかったからだと思います」
「必要があれば、近づいた、ということですか」
「そうだと思います。やることがある、というのは、必要があることとも言えます」
「なるほど」
「カラさんも、必要があれば動ける人間だと思います」
「そうでしょうか」
「五年間、一人で調査を続けてきた。それが今日の前進に繋がっています。カラさんの積み上げがなければ、今日のことはできませんでした」
カラはしばらど馬を進めた。
「……ありがとうございます」
「事実です」
「田中殿は、人に話すのが上手いですね」
「そうですか」
「相手の積み上げを、ちゃんと見ている」
「見えているものを言っているだけです」
「それが上手いということです」
「そうかもしれません」
レオンが言った。
「タナカ、帰ったら、今日のことを三国に報告しますか」
「します。今日は大事な前進があったので、すぐ共有します」
「OLAのことも」
「OLAのことも」
「向こうの名前が、三国に共有されるわけですね」
「そうなりますね」
「なんか、不思議な感じです」
「そうですね」
「向こうの生き物の名前を、三国が知る。それが、話し合いの第一歩かもしれない」
「そうかもしれません」
「田中が来てから、ずっとそういうことが続いていますね」
「どういうことですか」
「誰かの名前を知ることが、繋がりの始まりになる。王様も、魔王陛下も、ミラ公王も、シアさんも、全員、田中が名前を呼ぶことから始まっていた」
「そうかもしれません」
「意識していましたか」
「していませんでした。名前は大事だと思っていたので、自然に覚えていました」
「自然に覚えていた」
「相手を知るためには、まず名前から、というのが自分の中にあったのかもしれません」
「それが、今日も出たわけですね」
「そうかもしれません」
田中は馬を進めながら、少し考えた。
OLA。
向こうの生き物の名前。
まだ確認できていないが、おそらく名前だ。
名前を知れば、呼べる。
呼べれば、話しかけられる。
話しかければ、答えが返ってくるかもしれない。
田中はメモアプリを開いた。
【四回目の訪問・記録】
・挨拶音:SKO(仮)。パターン確認。
・新しい音:OLA(仮)。向こうの名前の可能性。三回呼ぶと三回反応した。
・田中の名前:TNA(仮)。向こうが繰り返した。
・向こうの反応:田中が笑ったとき、向こうも口元が動いた。
・次回:OLAと呼びかけて、反応を確認する。TNA以外の言葉も試みる。
最後に一行書き足した。
・今日、名前を交わした。それが、全ての始まりだった。
次回「第五十七話 内乱の予兆。どこかの国で不穏な動きがある」へつづく




