第五十五話 少しずつ、わかってきた
第五十五話 少しずつ、わかってきた
前話までのあらすじ
七名で山脈に向かった。岩場で向こうの生き物と対面した。
田中が一人で近づき、音を出した。向こうも音で反応した。
田中が向こうの音を繰り返すと、首を傾けた。疑問符のような動作だった。
「今日、最初の一歩を踏んだ」とメモに書いた。
山脈に、三度通った。
一度目。
最初の訪問から四日後。
向こうは、また岩場の上にいた。
田中が近づくと、今度はすぐに気づいた。
前回より、逃げなかった。
田中が前回出した音を繰り返すと、向こうも音を出した。
前回と同じ音だった。
田中はメモに書いた。
・同じ音を出すと、同じ音が返ってきた。挨拶のような意味がある可能性。
二度目。
最初の訪問から十日後。
今回は田中とカラの二人で来た。
ロイドは「人数を絞った方がいい」と言った。
カラが同行したのは、山脈の知識が必要だったからだ。
向こうは今回も岩場にいた。
ただ、今回は二頭いた。
田中は少し止まった。
「二頭ですね」と田中が言った。
「そうです」とカラが言った。
「前回は一頭でした」
「二頭目は、後ろの方に少し隠れています。観察しているのかもしれません」
「なるほど」
田中は一頭目に近づいた。
前回と同じ距離まで近づいた。
音を出した。
前回と同じ音だった。
一頭目が音を返した。
前回と同じ音だった。
それから、一頭目が少し動いた。
後ろの方を向いた。
二頭目の方を向いた。
何か音を出した。
二頭目が、少し前に出てきた。
田中は動かなかった。
二頭目が田中を見た。
田中は右手を上げた。
ゆっくりと。
二頭目は動かなかった。
しばらく、お互いに見ていた。
田中はメモに書いた。
・一頭目が二頭目を呼んだ可能性。一頭目が田中を「問題ない」と判断したのかもしれない。
三度目。
最初の訪問から三週間後。
今回は田中とカラと、レオンの三人で来た。
レオンが言った。
「私も音を聞きたいです。何か聞き取れるかもしれません」
「言語学の観点から、ですか」
「そうです。タナカが覚えた言語と、向こうの音に共通点があるかもしれません」
「可能性は低いと思いますが」
「ゼロではないと思います」
「わかりました、一緒に来てください」
今回は三頭いた。
田中が近づくと、三頭とも田中を見た。
最初の一頭が、音を出した。
田中が音を返した。
それから、少し違う展開があった。
一頭が、岩場から降りてきた。
田中の方に近づいてきた。
田中は動かなかった。
止まろうとしたが、足が少し震えた。
止まった。
向こうは、田中の三メートルほど前で止まった。
低く、何か音を出した。
田中は聞いた。
繰り返した。
向こうが、また音を出した。
少し違う音だった。
田中は繰り返した。
向こうが、首を傾けた。
前回と同じ動作だった。
田中は、前回と同じように、もう一度繰り返した。
向こうが、今度は首を傾けなかった。
代わりに、低く長い音を出した。
田中は聞いた。
わからなかった。
ただ、その音は、前回の音より穏やかだった気がした。
田中はレオンを見た。
「何か聞き取れましたか」
「……少し」
「どんな音でしたか」
「パターンがあります。短い音と長い音が組み合わさっています。それが繰り返されています」
「それは、どういう意味だと思いますか」
「わかりません。ただ、ランセル語の母音の並び方と、少し似ているところがあります」
「似ている、ですか」
「すごく薄い共通点ですが、同じ時間軸から来た世界なら、言語の根っこに共通点がある可能性は、ゼロではないと思います」
「続けてください」
「長い音が、この言語圏では母音に当たる可能性があります。短い音が子音。それを組み合わせて、音節を作っているのかもしれません」
「音節が作れるなら、言葉がある」
「言葉がある可能性があります」
田中はメモに書いた。
・向こうの音:短い音+長い音のパターン。ランセル語の音節構造と薄い共通点。言葉がある可能性。
向こうがまた音を出した。
今度は、田中の方を見ながら、手のような前足を少し動かした。
何かを示しているような動作だった。
「何かを指していますか」とカラが言った。
「そうかもしれません。どこを指していますか」
「北の方向です」
田中は北を見た。
山脈の向こう。
向こうの世界がある方向。
田中は向こうを見た。
「北、ですか」
向こうが、また同じ動作をした。
北の方向を示す動作。
それから、低い音を出した。
「北の何かを伝えようとしているかもしれません」とレオンが言った。
「そうですね」
「北から来た、ということを示しているのかもしれません」
「それとも、北で何かが起きている、ということかもしれません」
「どちらかはわかりませんね」
「わかりません。ただ、北を示した」
田中は向こうを見た。
向こうも田中を見ていた。
田中は北を向いた。
そして、向こうと同じような動作をした。
北の方向を示す動作。
向こうが、低い音を出した。
前回より、少し違う音だった。
田中には、その違いがわからなかった。
ただ、向こうが反応した。
それは確かだった。
「今日は、ここまでにします」と田中が言った。
「そうですね」とカラが言った。
「ただ、今日は前回より近くなりました」
「そうですね。三メートルまで来てくれました」
「前回は距離がありました。今回は、こちらに向かって降りてきた」
「信頼が少し生まれているかもしれません」
「そうだといいですね」
田中は向こうに頭を下げた。
向こうは動かなかった。
田中はゆっくりと後退した。
今回も、向こうは攻撃しなかった。
今回も、向こうは逃げなかった。
今回は、近づいてきた。
それが、三週間の積み上げだった。
城に戻って、田中は記録を整理した。
三回の訪問で観察したことを、一枚の羊皮紙にまとめた。
音のパターン。距離の変化。向こうの行動の変化。北を示す動作。
レオンが横で手伝った。
「タナカ、これを三国に共有しますか」
「します。シアとミラに送ります」
「わかりました。翻訳します」
「ありがとうございます」
「タナカ、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「向こうと話せると思いますか。今は」
「三週間前より、可能性が高くなったと思います」
「どのくらい高くなりましたか」
「三週間前は、五パーセントくらいでした」
「今は」
「二十パーセントくらいかもしれません」
「四倍になりましたね」
「そうですね。ただ、まだ八十パーセントはわかりません」
「それでも続けますか」
「続けます」
「なぜですか」
「二十パーセントが、ゼロではないからです」
「ゼロでないなら、やる」
「そうです」
「タナカらしいですね」
「そうですか」
「ゼロでないなら動く。それがタナカです」
「そうかもしれません」
レオンは少し考えた。
「タナカ、一つだけ言っていいですか」
「どうぞ」
「私は、タナカが向こうと話せると思っています」
「根拠はありますか」
「根拠はありません」
「根拠のない言葉ですね」
「はい。ただ、アレンさんも言っていましたよね。根拠のない言葉でも、ありがたいと」
「言っていましたね」
「私も、そう思います。タナカにとって、根拠のない言葉でも、ありがたいと思ってもらえれば」
「ありがたいです」
「良かったです」
二人でしばらく黙った。
「レオン」
「はい」
「今日も来てくれてありがとうございました」
「当たり前です」
「当たり前でも、ありがたいです」
「毎回そう言いますね」
「毎回、本当にそう思っているので」
レオンは少し目が赤くなった。
「……タナカ、またそういうことを言う」
「すみません」
「謝らなくていいです」
「そうですか」
「ただ、急に言わないでください」
「次から予告します」
「予告しなくていいです」
「どうすればいいですか」
「そのまま、たまに言ってくれれば」
「わかりました」
二人でまた笑った。
翌朝、王様に報告した。
「三回目の訪問が終わりました」
「向こうと話せたか」
「話せたかどうかは、まだわかりません。ただ、距離が縮まりました」
「距離が縮まった」
「三回目は、向こうがこちらに近づいてきました。三メートルまで来ました」
「三メートルか」
「前回は、もっと距離がありました。少しずつ、縮まっています」
「少しずつ、か」
「はい」
「向こうは、攻撃してきていないのか」
「してきていません」
「それは、話し合いの余地があるということか」
「そうだと思います」
「田中、一つだけ聞いていいか」
「はい」
「向こうは、何を考えていると思う」
「わかりません。ただ、北を示す動作がありました」
「北を示した」
「はい。向こうの世界のことを伝えようとしているのかもしれません」
「向こうの世界のことを、こちらに伝えようとしている」
「可能性があります」
「なぜ伝えようとするのか」
「わかりません。ただ、伝えようとしているなら、何か理由があるはずです」
「理由があるなら、話せる可能性がある」
「そうです」
王様は少し考えた。
「田中、余には想像もできない話だ。向こうの生き物と話そうとしているなんて」
「そうですね」
「ただ、お前がやるなら、なんとかなる気がする」
「買いかぶりですよ」
「買いかぶっていい。それが余の判断だ」
「……ありがとうございます」
「珍しくすぐ言えたな」
「王様に言われると、受け取りやすいです」
「そうか」
「はい」
「余が変わったのか、お前が変わったのか」
「両方だと思います」
「珍しい答えだな。いつもはどちらかが変わった、と言う」
「今回は、本当に両方だと思いました」
「そうか」
王様は窓の外を見た。
「田中、向こうと話せたとき、何を言うつもりだ」
「道を開けないでほしい、と伝えます」
「それだけか」
「まず、それだけです」
「向こうが聞いてくれるか」
「わかりません。ただ、理由も伝えます」
「理由とは」
「道が開いたら、双方に被害が出る可能性がある。それを避けたい、と伝えます」
「向こうにも被害が出る、という話を伝えるのか」
「こちらの被害だけを伝えても、向こうは動かないかもしれません。向こうにとっても良くないことがある、と伝える方が、聞いてもらえる可能性があります」
「相手のことを考えて話す、か」
「そうです。交渉の基本です」
「元の世界から、ずっとそうしてきたのか」
「そうしてきました」
「向こうの生き物相手でも、同じか」
「同じです。相手が誰であっても、相手の立場を考えて話すことが大事だと思っています」
王様はしばらど田中を見た。
「田中、余はお前から多くのことを学んだ」
「王様が身につけたものです」
「また同じことを言う。ただ、今日は少し違う言い方をする」
「違う言い方、ですか」
「お前から学んだことは、お前が教えてくれたから学べた。余が身につけたのは本当だ。ただ、教えてくれた人間がいたから、身につけられた。どちらも本当だ」
田中は少し止まった。
「……そうですね」
「どちらか一方だけではない」
「そうです」
「なのに、お前はいつも、相手が変わったと言う。自分の貢献を消す」
「そうかもしれません」
「消さなくていい。余が変わったのは本当だ。ただ、お前が来てくれたことも、同じくらい本当だ」
田中はしばらく黙った。
「……わかりました」
「受け取れたか」
「受け取りました」
「良かった」
王様は頷いた。
「田中、向こうとの対話、続けてくれ」
「続けます」
「余はここで待っている」
「はい」
「帰ってこい」
「帰ります」
「約束か」
「約束です」
「何回目かわからないが」
「私もわかりません」
「それでいい。毎回、本気で言っている」
「わかっています」
「わかっているなら、守れ」
「守ります」
田中は頭を下げた。
部屋を出た。
廊下を歩いた。
田中はメモアプリを開いた。
【三回の訪問・まとめ】
・距離:初回より大幅に縮まった。三回目は三メートルまで来た。
・音:パターンが少し見えてきた。短い音と長い音の組み合わせ。
・北を示す動作:向こうの世界のことを伝えようとしている可能性。
・信頼:少しずつ生まれている。向こうが近づいてきた事実がある。
・次回:音のパターンをさらに記録する。北を示した意味を探る。
最後に一行書き足した。
・王様が「お前が来てくれたことも、同じくらい本当だ」と言った。受け取った。
田中は廊下を歩き続けた。
窓から、北の空が見えた。
山脈が見えた。
大きかった。
ただ、今日は少し、前より小さく見えた気がした。
気のせいかもしれなかった。
ただ、そう感じた。
田中は前を向いた。
次の訪問の準備をしなければならない。
やることがある。
それだけで、動ける。
次回「第五十六話 向こうが、初めて名前を教えてくれた」へつづく




