第五十四話 山脈に向かった日
第五十四話 山脈に向かった日
前話までのあらすじ
ロイドが山脈行きの段取りを一緒に考えてくれた。「戦闘の判断は余がする、交渉の判断は田中がする」という役割分担が決まった。
アレンが村への事前連絡を当日中に済ませた。
シアとミラから返事が来た。ミラは山脈に詳しい一名を同行させると言った。
七名で出発することになった。出発は明後日の朝。
出発の朝。
夜明け前だった。
田中は目が覚めたとき、天井を見た。
石造りの天井。
この国の城の天井。
帰る場所の天井だ。
田中は起き上がった。
着替えた。
ロイドに言われた通り、軽い服装にした。
走れる格好。
鞄の中身を確認した。
資料は必要ない。
今日は、資料を使う場面ではない。
白紙の羊皮紙を五枚。羽ペンを二本。インク。
議事録を取れる準備だけ。
あとは、スマートフォン。
田中はスマートフォンを手に取った。
圏外のまま。
ただ、カメラは使える。
向こうの生き物を見たとき、記録できるかもしれない。
田中はスマートフォンをポケットに入れた。
鞄を閉じた。
部屋を出た。
城門の前に、全員が集まっていた。
ロイドと騎士二名。
アレン。
レオン。
そして、もう一人。
ランセルから来た人物だった。
三十代くらいの、細身の女性だった。
黒い髪を短く切っていて、背中に弓を背負っていた。
田中が近づくと、頭を下げた。
「ランセルのカラ・ネルと申します。ミラ公王の命でまいりました」
「田中義則です。よろしくお願いします」
「山脈については、私が一番詳しいと思います。役に立てます」
「ありがとうございます。山脈の岩場の地形は、ご存知ですか」
「知っています。五年前から、ミラ公王の命で調査を続けてきました。向こうの生き物の足跡を最初に見つけたのも、私です」
「そうでしたか」
「田中殿が向こうと話し合おうとしている、と聞きました。できるかどうかはわかりませんが、私が知っている情報は全部提供します」
「ありがとうございます」
「一点だけ」
「はい」
「向こうの生き物は、私も一度だけ遠くから見たことがあります」
「そうですか」
「アレン殿が目視したものと同じ種類だと思います。大きくて、四本足で、岩の色をしている」
「そのとき、攻撃してきましたか」
「しませんでした。ただ、こちらに気づいた様子はありませんでした。距離がありすぎて」
「なるほど」
「今回は、近づくつもりですか」
「近づいてみます」
「危険です」
「わかっています」
「わかった上で近づくんですね」
「やってみないとわかりません」
カラは少し間を置いた。
「……ミラ公王が言っていた通りの人間ですね」
「そうですか」
「田中殿ならやる、と言っていました」
「ミラ公王の言葉は、プレッシャーになります」
「良い意味で言っていると思います」
「わかっています」
ロイドが全員を集めた。
「出発する。田中が全体の判断をする。戦闘の判断は余がする。各自、役割を守れ。わかったか」
「はい」と全員が言った。
「では、行く」
七名で馬を進めた。
最初の一時間は、いつもの街道だった。
田中は馬に乗りながら、周囲を見た。
空が青かった。
風が少し冷たかった。
山脈が、少しずつ近くなっていた。
レオンが隣に馬を並べた。
「タナカ、緊張していますか」
「少し」
「いつもより、少し多いですか」
「そうかもしれません」
「私も少し多いです」
「そうですか」
「ただ、来てよかったと思っています」
「なぜですか」
「隣にいると約束したので」
「そうですね」
「それだけです」
田中は少し考えた。
「それだけで十分ですね」
「十分です」
二人でしばらく黙って馬を進めた。
アレンが前から戻ってきた。
「タナカさん、村まであと三十分くらいです」
「わかりました」
「村長が待っています。昨日、また確認の伝言を送っておきました」
「ありがとうございます」
「村長、少し緊張していると言っていました」
「そうですか」
「ただ、やることがある人間が来てくれる、と言っていました」
「またその言葉ですね」
「広がっていますよ、タナカさんの言葉」
「アレンさんが広げたんだと思います」
「俺が?」
「村の巡回で、アレンさんが話してきたことが、村人に伝わっているんだと思います」
「俺、そんなこと話したかな」
「話していなくても、アレンさんの動き方が伝わっているんだと思います」
「動き方が」
「怖くても行く。やることがあれば動く。それが伝わっている」
「……そうかな」
「そうだと思います」
アレンは少し考えた。
「タナカさんから学んだことが、俺から村人に伝わっていた、ということですか」
「そうかもしれません」
「なんか、不思議な感じですね」
「言葉は、人から人に伝わります」
「タナカさんが来て、何ヶ月ですか」
「四ヶ月弱です」
「四ヶ月で、こんなに広がるんですね」
「広げてくれた人たちがいたからです」
「また同じことを言う」
「事実なので」
アレンは笑った。
村に着いた。
村長が出迎えた。
六十代の、がっしりした老人だった。
「タナカさん、ですか」
「はい、田中義則です。先日はアレンさんにご連絡いただきありがとうございました」
「いや、こちらこそ。動いてくれる人がいると聞いて、安心しました」
「山脈の状況を、教えていただけますか」
「最近、音が大きくなっています。夜中に、ドン、ドン、と低い音がすることがあります。以前は月に一度くらいでしたが、今は週に何度もあります」
「音の方向は」
「山脈の東の方です。東の端の方から来ている気がします」
「アレンさんが生き物を見た場所の近くですね」
「そうです。村人の中には、あの方向に近づきたくないという者もいます」
「そうでしょうね」
「ただ、私はここを離れたくない。ずっとここで暮らしてきた場所ですから」
「そうですね」
「田中さんたちが何かしてくれれば、この村は守られると思っています」
「できる限りのことをします」
「よろしくお願いします」
田中は頭を下げた。
村長が言った。
「一つだけ、教えていただけますか」
「なんですか」
「向こうの生き物と、本当に話せるんですか」
「わかりません」
「わからないのに行くんですか」
「はい。やってみないとわからないので」
村長はしばらど田中を見た。
「……アレンさんから、タナカさんはいつもそう言う、と聞きました」
「そうみたいですね」
「その言葉、好きです」
「そうですか」
「わからなくても動ける人間は、少ない。たいていは、わかってから動こうとする。でも、わかってからでは遅いことがある」
「そうですね」
「タナカさんみたいな人間が来てくれて、良かったです」
「ありがとうございます」
「気をつけて行ってください」
「はい」
村を出て、山道に入った。
道が細くなった。
馬を降りて、歩いた。
カラが先頭に立った。
「この道は、私が何度も歩いています。足元に気をつけてください。特にこの先、岩が増えます」
「わかりました」
七名で山道を歩いた。
静かだった。
風の音と、足音だけが聞こえた。
田中は歩きながら、周囲を観察した。
木が少なくなってきた。
岩が増えてきた。
空気が冷たくなってきた。
山脈が、頭の上に迫ってきていた。
「タナカさん」
アレンが横に来た。
「はい」
「前に来たとき、ちょうどこの辺りで、音が聞こえました」
「音、ですか」
「石が転がるような音です。その方向を見たら、生き物がいました」
「今日も、同じ場所ですか」
「同じ場所に向かっています」
「カラさん、その場所はご存知ですか」
カラが振り返った。
「はい。岩場の上の方です。あの生き物は、高い場所を好むようです。過去に足跡を見つけたのも、全部高い場所でした」
「高い場所が好き、ということは、こちらを見下ろす位置にいることが多い」
「そうです。観察するのに、高い場所の方が都合がいいのかもしれません」
「向こうも、観察しているわけですね」
「そう考えています」
「ならば、こちらも観察しているということを、向こうに示した方がいいかもしれません」
「どういう意味ですか」
「隠れて近づくより、見えるところを歩いた方が、向こうも動きやすい可能性があります」
「なるほど」
「ロイド卿、隠れずに歩く方向でいいですか」
「わかった。ただし、全員が固まらずに、少し散らばって歩け。密集していると、脅威に見える可能性がある」
「なるほど、少し散らばって」
「間隔を取って歩く。ただし、視野の中に全員が入るようにしろ」
「わかりました」
七名が少し散らばった形で歩き始めた。
岩場が近づいてきた。
田中は岩場を見た。
何もいなかった。
少し、拍子抜けした。
「今日は、いないかもしれません」とアレンが言った。
「そうかもしれませんね」と田中が言った。
「待ちますか」とロイドが言った。
「少し待ちます」と田中が言った。
「どのくらい」とロイドが言った。
「一時間」と田中が言った。
「わかった」とロイドが言った。
七名が岩場の前で待った。
空が青かった。
山脈が頭の上にあった。
風が冷たかった。
しばらく、何も起きなかった。
田中は待った。
待つのは得意だ。
元の世界でも、打ち合わせの前に先方の会議室で待つことは日常だった。
待つことは、情報収集の時間だ。
田中は岩場を観察した。
岩の形。積み方。隙間の大きさ。
上の方に、大きな岩が重なっている場所がある。
そこだけ、少し影になっていた。
田中はその場所を見た。
動いた気がした。
気のせいかもしれなかった。
もう一度見た。
また、動いた気がした。
「アレンさん」
「はい」
「上の方、影になっている場所を見てください」
アレンが見た。
「……います」
「そうですか」
「さっきはいなかった。いつの間にか来ていました」
「気づかれないように来たんですね」
「向こうも、観察していたんでしょうね」
「そうだと思います」
田中は影の方向を見た。
まだ形はよく見えなかった。
ただ、いる。
そこにいる。
田中は深く息を吸った。
ロイドが小声で言った。
「田中、どうする」
「近づいてみます」
「一人でか」
「一人で」
「危険だ」
「わかっています。ただ、全員で近づくと、威圧になります」
「わかった。余はここで待つ。ただし、何かあればすぐ動く」
「はい」
「合図を忘れるな」
「忘れません」
田中はレオンを見た。
「レオン、ここで待っていてください」
「わかりました」
「アレンさんも」
「はい」
「カラさんも」
「了解です。ただし、見ています。何かあれば、弓を使います」
「できれば、使わないでほしいです」
「了解です。でも、田中殿が危なければ、使います」
「……わかりました」
田中は前を向いた。
岩場に向かって、歩き始めた。
一人で。
武器なしで。
鞄を置いてきた。
手に何も持っていない。
それが、攻撃しない意思の表示だ。
岩場に近づいた。
影が、少し動いた。
田中は止まらなかった。
ゆっくりと、歩き続けた。
岩の上の影が、はっきりしてきた。
大きかった。
アレンが言っていた通り、人の三倍くらいの大きさだった。
四本足で、岩の上に立っていた。
皮膚が岩の色をしていた。
頭が大きかった。
目が、田中を見ていた。
田中は止まった。
向こうも動かなかった。
お互いに、見ていた。
田中は右手を上げた。
ゆっくりと、攻撃しない形で。
向こうが、少し動いた。
田中は待った。
向こうは、田中を見続けた。
田中も、向こうを見た。
三十秒。
一分。
向こうが、音を出した。
低い、振動するような音だった。
言葉かどうか、田中にはわからなかった。
ただ、音だった。
田中は、同じように音を出してみた。
「こんにちは」
日本語だった。
通じるはずがなかった。
ただ、何か言ってみた。
向こうが、また音を出した。
今度は少し違う音だった。
田中は、その音を聞いた。
繰り返してみた。
向こうが、止まった。
少し、動きが変わった。
首を少し傾けた。
人間が首を傾けるときと、似た動きだった。
田中は、その動きを見た。
首を傾ける、という動作。
疑問符のような意味があるかもしれない。
田中は、もう一度、向こうが出した音を繰り返した。
今度は少し丁寧に。
向こうが、また音を出した。
今度は、少し長かった。
田中は、それを聞いた。
全部はわからない。
ただ、聞いた。
後ろで、レオンが小声で言った。
「タナカ、今日は初日です。全部わからなくていいです」
「そうですね」
「ただ、向こうが逃げていない」
「そうですね」
「それだけで、今日は十分だと思います」
田中は向こうを見た。
まだそこにいた。
逃げていなかった。
攻撃してこなかった。
音を出した。
田中の音に反応した。
それだけだった。
それだけだったが、それは何もないより、ずっと多かった。
田中は頭を下げた。
向こうは動かなかった。
田中はゆっくりと後退した。
向こうは、ずっと見ていた。
田中が仲間のところに戻ったとき、向こうはまだそこにいた。
田中は全員を見た。
「今日は、ここまでにします」
「話せましたか」とアレンが言った。
「話せたかどうかは、わかりません。ただ、向こうが反応しました」
「逃げなかったですね」とカラが言った。
「そうですね」
「攻撃もしなかった」とロイドが言った。
「そうですね」
「それは、前進ですか」とレオンが言った。
「前進だと思います」と田中が言った。
「次はどうしますか」とアレンが言った。
「また来ます」と田中が言った。
「何度でも?」
「何度でも」
「向こうが慣れるまで?」
「向こうが慣れるまで、または、話が通じるまで」
「どちらが先ですか」
「わかりません。ただ、今日より次の方が、少しわかることが増えているはずです」
「少しずつ、ですね」
「そうです」
田中は岩場の方を見た。
向こうはまだそこにいた。
田中と目が合った気がした。
気のせいかもしれなかった。
ただ、そう感じた。
田中はメモアプリを開いた。
【本日の記録】
・向こうの生き物:確認。岩場の上。逃げなかった。攻撃しなかった。
・音の交換:田中が近づいて音を出した。向こうも音で反応した。
・向こうの反応:田中が向こうの音を繰り返すと、首を傾けた。疑問符のような動作。
・今後:繰り返し訪問する。音のパターンを記録する。少しずつ理解を深める。
最後に一行書き足した。
・今日、最初の一歩を踏んだ。
次回「第五十五話 少しずつ、わかってきた」へつづく




